普段は盆と正月以外帰らないのだが、なぜだかいま和歌山にいる。
そのことの詳細はおいておいて -実家は何事かを考えさせる-
映画「禁じられた遊び」を見る。
1952年に公開された名作。主題歌のギターの旋律は有名である。
あらすじを書いては見るのがつまらなくなるのでエッセンスだけ書く。
(あら、みないって? コンバージョンわるいブログだなあ・・)
“禁じられた遊び”は、二人の小さな子供によってなされる。
少年少女が物語の中心的な役割を果たし、大人たちは喜劇的な役割を
演じるのみである。
モノローグの中で膨らむ子供たちの無邪気な空想をみたことがあるだろう。
ポレットとミシェル・・二人が一人遊びのように楽しむ遊戯は、
死んだ者の弔い・・犬や鼠、虫たちのお墓をつくることである。
穴を掘り遺体を埋め、十字架を飾り、祈りを捧げる。
弔いの遊戯は・・次の遺体を求める、無邪気な、罪のない遊戯・・・
大人たちは喜劇的な争い事と日々の糧に追われ、
意志のない戦争というひとつの環境の中で暮らしている。
ここでレヴィナスを引くことは、レヴィナスの経歴・活躍した時代を
考慮してそう過ちではないだろう。
しかし、ややこしくなりそうなのでやめる。
<他者>と戯れること・・・他者の死に他性を見出し、
その<死>と<私>との間に横たわる、差異と戯れること・・・
“禁じられた遊び”は、<私たち>の中に歪みをつくりだし、
<私たち>に潜む、<私たち>の中の他性を浮き彫りにする・・・
大人たちは、不安、諦め、怠惰によってかそれを禁じようとする。
しかし、そもそも<死>の他性は<私たち>という幻想の中にしか、
ないのではないか・・・牛馬の死に私たちは他性を見たりはしない。
「無境界」―ひとつの有機体― という概念が実効性を持ち得ないのは、
そのような理由による。
これを観て何を思うかは人それぞれ・・というと元も子もないが、
僕としては、<私>の幸福について、思わないではいないのである・・。
2009年3月21日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)

0 件のコメント:
コメントを投稿