まとまった文章を書かない期間がこれほど長いと
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。
もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。
質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。
何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。
言葉を先に進める。
そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。
最近、僕は本を読んでいない。

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