昨日は恵比寿でしこたまワイン飲む。
帰り際にバーに寄ってバーボン飲んだのがいけなかったのか、
若干酔いが残った。せっかくの祝日なのに、心拍数高めで
ひより気味に一日を終えた。
近所にいい定食屋を見つけた。お袋の味どころか、
七十歳くらいの爺さん四人で営まれている。
しばらく足しげく通うことになりそうだ。
* * *
昨日話したことを加筆してメモ的に残す。
作品と作家の関係性について、作家は過信すべきではないと思う。
作家の主体性はについては、「リアルのゆくえ」をネタに以前少し書いた。
その話と関連することとして、『世界に主体的に関わる自己の単独性を巡る神話性』
を作品に込めようとすると、作家としての単独性が、作品の中に本源的に回収されて
しまうことになって、それは作家の単独性を一般論化、つまり、ある規定された範囲
の中での事実として留めることになって、作家としての運動、飛躍、破壊、創造の力
を失わしめることに繋がる。
作家は作品に対し責任を負うべきである。
そのことを疑うわけではない。
しかし、作品を個人的な体験として、作家自身が語ってしまうことは、
作品の社会性を否定してしまうことにもなるし、そうすると、
作品を受け取る側の立場は極めて怪しいものになって、
受け手は、ひとつには、無関心の闇の中に放りこむか、もうひとつには、
必然性を論理的に語ることで所与のものとして受け止めるか。
それ以外になくなる。
作家と受け手(あるいは評者)は、対等ではない。
かつ、作家は作品に対し特権的な立場にある。
しかし、そのことを過信して作品の枠内に自身を収めようとするのではなく、
作品の運動性に自覚的でいることは、実践としての創作活動を
豊かにしてくれると思う。
というようなことは、小説や音楽、絵画といった作家自身で
創作活動が完結するものであれば理解しやすい。
一方で商業デザインであったり、建築であったり、
というような経済的社会的制約条件の網の目の中で、
なおかつ外部の人々と共同して作り上げるようなものでは、
そもそもの作家の主体性が曖昧なものにならざるを得ない
危機感があって、それで作家はなるべく特権的な立場に
留まろうとして、先に述べた過信を引き受けたくなる。
と長くなってきたのでまとめる。
結局何が言いたいのかというと、
死んで伝説なるよりも前に、生きて運動を先取することを目指したい。
運動としての創作活動は、作家の徒死的な勇気と、作品の闇雲な射撃とで
成立するという意味で、ゲリラ的であるべきだ、ということだ。
運動のベクトルと個人的な体験の蓄積による必然性が
ぴたりと一致する必要はないし、そも不可能にすら思える。
公共性と固有性を巡る作家の苦悩が、少しでも和らげばいい。
2009年2月11日水曜日
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