事切れる寸前にその余韻を残そうとする足掻きを去るものの未練と
呼べば切なくて、残るものの愛情がみせる幻影と思えば、
儚いのは生命ではなくて記憶のほうであると思える。
二月は、唐突に雪の降る日とともに去った。
月日が流れるのは当然であって、それをどう処理するかは、
流れに乗るものの本懐というわけである。
それで多忙と言うことが悩みの種になる。
実にならぬ種である。
熱心に打ち興じているときは時が流れるのを忘れ、
無為に過ごしているときは時の流れと無縁にただ頭に
浮かぶ事々を後追いして過ごしている。
規則正しい生活をしていれば、幾日の月日もある一日の相似
としてひとまとめにしてしまうし、
不規則な生活の中で右往左往していれば、本質が何であったか
見失いそうになり、細い軸を頼りなげに拾い上げて侘しくなる。
一秒の記憶が二秒、三秒に感じられることはなくて、
数時間の記憶は一秒になり得る。多忙とはそれである。
記憶を追い求めるのはつまらない。
幸田文の「闘」を読んでいて、そんなことをつらつらと思う。
人生の大半を病院のベッドの上で過ごす。
それも好きでそうしているのではなくて病におかされて
そうする以外になくて、ただ無為に横になっている。
死ねば死ぬでそれで生は終わるし、治っても何にも得るものなどない、
ただマイナスがゼロになるだけであり、過ぎた時は取り戻せず、
失うだけの日々だったにも関わらずその日々の苦労と言えば並みではない。
「彼等はよき土にまかれた、よき種だ。その実り、千倍万倍か。・・・結構だよ。
だが、うらやましいともいっていられないほど、粃(しいな)の種ってものは一生懸命だ。
実りどころか、自分の命を生きようとするだけで、精一杯だ。
だけど、こいつが下らないんだなあ、自分一人は一生懸命なんだけど、
はたから見ればただの場所ふさげってもんだ」
幸田文の文章は美しい。
美しさという点においては、彼女の文章をおいて他にはない、
と思っている。
文章の美しさを文字の並びだけで語ることはできない。
生への潔さ、時への敬意、儚いものへの愛情と言っても、
それで美しさを象徴することなど、できぬとはいえ。
2009年3月1日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)

2 件のコメント:
幸田文いいね。
一時いろいろと読んだけど、読み返してないな。
読み返してみようかな。
障子ごしの日の明るさを思い出す。
日本語だ。
動物とか植物とかについての随筆に影響されたなぁ。
同じ心境になったつもりになって、曲がった樹の立場を気の毒に思った。
「なったつもりになって」って表現、変か?
ん? 変だよー。
そう。わたすが変なおじさんです。
今回あんまり表現については書かなかったけれど、季節の映り目を感じさせる仕草や、心の機微によって猫の目のように変わる窓越しの風景を書く凛とした視点には惑いがなくて、その強さにハッとさせられる、というのがありますね。
コメントを投稿