2009年6月11日木曜日

二十六歳の私によせて

誕生日などというのがあった。
ひとつ歳をとった。
まだ若いには若いだろうが、
梅雨に濡れる若葉のような熱気を含んだ飛翔を、
真摯に興じれるほどの爛漫は既に去っている。
若さは無垢な悲哀を笑っても泣いても、
その表情の影に隠そうとしない。
あるいは悲哀こそが若さにとって光なのだ。

篠山紀信のヌード
を見ながら、しかし、写真の中の若さは、
過去に連なっているように思えてならなかった。
(ああこんなふうに酒を飲むというのは
 傍目には切なすぎる光景だろうか・・・)
ヌードに誰しもがみるのは「いつか来た道」のその懐かしく、
甘酸っぱい過去の記憶なのだ。

小説で描かれる場合、それは単純に性行為の描写を思い浮かべての
ことだが、そこにあるのはいま現在の幻想である。
いつか村上春樹が「セックスと死は書かない」とどこかで言っていた
ような気がするが、そのどちらもが小説の中では不可避的な欺瞞を、
つまりは幻想のものを引き出してきてその希少性を問うような不毛が
あるからだと思われた。
村上春樹が実際どうだったかこの際どうでもいいが、
文章の中のエロティシズムは、幻想をあるいは未来を志向するのだ。

とはいえ、そのどちらをも書かないというのもまた不毛だ。
村上春樹はそうは言いながらどちらもたくさん書いているような気もする。
だったら上の引用は全くの作り話かもしれない。
不毛といってそれで済むなら、人間は人間たり得ない。

話が逸れた。篠山自身は、「主体がないことが、僕の主体ですね(笑)。・・・主体を消すということで撮るというのとは少し違う。・・・見たいっていう欲望の塊なんだね。」
と言うが。
見ることへの欲望、その過剰は自尊心の絶対に由来する。
ヌード自体はインターネットのおけるエロ情報の氾濫、
雑誌市場に縮退などによってかつてほどの盛り上がりはない。
今回篠山が美術手帖などに出たのもヌードをアートとする以外に
ヌードの生き残る方途を、いまのところ見つけられていないからだ。
(最近テレビでルネサンス絵画のエロティシズムにについて解説していたし。)
その判断の可否あるいは功罪はともかくも、より本質をとらまえようと
するならば、それは記憶の喪失という問題へといたる。
パール・バックが書いた「大地」への記憶、
「ゴッドファーザー」で描かれた家族の記憶、
司馬遼太郎が追った「この国」の記憶・・・。
鮮明な記憶をなくし、浮遊する私たち、
それは事故というよりも、重厚に練りあげられた企図によって、
戦略的に放擲したのだとしても、結果的に、
記憶の喪失は自尊信の喪失と同義だった。

「所有という意識はどうしてもありますよ。僕の眼が見たんだから、僕のものだって言うね。」
と篠山が言うところの意味に共感しづらい点があるとすれば、
それは上記の自尊心という一点に尽きるのではなかろうか。
記憶をめぐる考察をここではしないが、
忘れ去ることに聡くなった私たちは、ただしかし、
忘れ去られる不安にもまた苛まれる。

二十六年間を祝して ――― 僕はその幾ばくも憶えてはいない。

2 件のコメント:

Y.F@PM さんのコメント...

お誕生日おめでとうございます!!!
これからますます楽しみですね!!!
よろしくお願い致します!!!

Hiroshi Tanioka さんのコメント...

こちらこそ~~よろしくお願いします。
ますますお楽しみを提供できる年になるよう、がんばりますね!