2009年9月6日日曜日

風が吹いた。投石が始まる

夏はすでに終わってしまったが、
その風物詩の一つとして怪談がある。

押井守「獣たちの夜」がホラーであるというのは、
これが角川ホラー文庫だからという以上の手がかりもないが、
映像化されたら、半ば以降の長たらしい歴史講釈は割愛され、
純然たる娯楽、分類するならばホラーになるのだとう思う。

しかしこの作品の面白さはその長たらしい歴史講釈にある。
いや、正確には、1969年安保闘争を舞台で語られる、
人類の歴史の、壮大なようで卑俗でしかない活動が、
"過激派"高校生が脇役に配されることでさらに戯画的になり、
人の生死の巡り合せが、いかに幸・不幸を演じたところで、
祟りや呪いといったホラー映画の超越的な生殺与奪と
同列にみえてしまうことの悲哀である。


誤解を恐れずに言えば、僕は成人してこの方、
選挙に行ったことがない。
日本国に何も期待していないし、頼るつもりもない。
ただ法律は守り税金は納めている。
それで決められた範囲での自由を得ている。

責任と自由が表裏であるように、権利と闘争も表裏である。

選挙は国民としての最大の権利であるとか、
この権利を得るために先人達がどれだけの苦労をしたかと言う人がいる。
偶さか仮の住まいを定めた土地に割り振られた選挙区の
自民党のA氏であるか、民主党のB氏であるかを選ぶのが、
権利と思えばそうであるし、それ以外の選択肢を奪われた疎外
であると思えばそうにもなる。
郵送されてきた整理券にしたがって選挙という手続きを完了して、
それで何かを為したと思うなら、ただ愚昧である。
しかし、闘争を意志すれば権利にもなる。

とまれ選挙もひとつの手段でしかない。
選挙という権利によって隠蔽された様々な疎外がある。
それで主題は闘争ということに移る。

「このまま終わらせるわけにはいかない ― いや、このまま終わるわけがないと零は密かな怨念と危機感を胸に高校に皆勤した。」

何がどうなって、"過激派"高校生の挫折が高校に皆勤する決意に変わるのか、
もはや喜劇でしかないが、多かれ少なかれ人はそんなふうに
折り合いをつけながら諦めながら築き上げながら生き延びるのかもしれない。

夏にホラーを観るのはストーリーに魅かれるからではなく、
単に暑さを紛らわせるからである。
だが政治を倦怠を晴らすために利用する悪趣味には辟易する。
それで僕が選挙にいかないことの理由をいささかも正当化するものではないが。

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