2009年11月15日日曜日

存在について

おととい飲んでいながら右往左往する話題は
ふとシェイクスピアに及んだ。
たしか演劇について話ながら、その舞台の効用、
たとえばストーリーの展開に小説とはまったくちがった
方法論を持ち込むことができるのは何故かということについて、
戯曲を読みながら想像することの有意義があるにしても
いいや、生身の人間がそこに演じている存在感には
到底想像を超えるものがある。といようなことだ。

不思議なのは、演劇の存在感と言ったところで、
あくまでそれは舞台の上で演じられる遊戯に過ぎないということだ。
非現実の存在といえば、その困難がわかるだろうか。

映画は一個の仮想世界を作り上げる。
その仮想的な世界のなかでそれは完成されており確かに存在している。
World Trade Center がまさに崩壊しようとするときに
映画の一場面かと錯覚する理由はまさにそこにある。

中世の王子・王女の登場だから違和感があるのではなく
シェイクスピアの時代でも道具の精度からして
視覚的効果を期待してなかったろう。
能や狂言となるとさらに無知だがあれをみて現実的な存在感を
みる者が果たしているだろうか。

昨日ひさしぶりにオセローやリア王を読み返しながら、
それはあくまで記録写真を眺めているかのように感じられ、
こう結論すれば通俗的に過ぎるとは思いながら、
演劇のもつ非現実としての存在感は、四肢、発声、表情によって
成り立つ世界が持つ、生命力なのだという以外になかった。

あまり演劇について語ると襤褸がでるので話の向きを逸らす。

平野啓一郎の文章にこのような一節がある。

「彼は、先ほど父の死について思いを巡らせたのと丁度反対に、誕生と云うのは、あの一頭の魁然たる雌牛が、この世界に針の穴にも満たない小さな一点を得る事なのだと考えた。そしてそれは、緩やかな時の流れの中で、着実に内から外界を押し退け、その存在の場所を膨らませる。今、その外圧に耐える張力とは、駆け巡る鮮血に一瞬毎に潤う持続である。それは、再び跡形もなく口を閉ざすであろう世界が、束の間所を譲った、生と云う、脆弱ではあるが、容易に侵し難い現象である。」

まるで僕が書きそうな文章だが、悔しいかな僕には
できぬ巧みさがありちょっと舌打ちをする。

ちなみにこれは結びの、
「歩きながら、彼は初めて自分の激しい動悸に気がついた。そして、それを抑え兼ねる事に憮然としながらも、右手にちらつく夕映えの海に、時折見るともなく視線を投げかけていた。」
という一文につながる。(物語のなかでこの海は自死を示している。)

劇中、死を演じようが生を演じようがそこに存在があるのは
生身の他人がそこで科白を吐くからである。

最近、なんだろうとよく見ている絵画は演劇に似て
そこに他人の生命が息づいているのだと言えるだろうか。
私的な空間のなかに食い入る一点として。

他人の鼓動を聞き息づかいに触れることで
それに応じる自らの生命が自覚される。
教養としてではなく、生活として芸術があるというのは
そのようなことを謂うのではないだろうか。

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