「何に迷っているのだ?」と問われて、僕は言葉に窮した。
それは僕が選択に躊躇しているからではなくて、
この透明な世界に生きることのイノセンスを、
所与のものとして引き受けている僕と言う主体が抱える
根源的な遅れに、その原因があるように思う。
実存主義的にというとさらに話はややこしくなるが、
<生-死>という一連の繋がりが、主体の選択によって、
世界と同じ平面状で屹立する場合には、
選択は意志となり得る。
しかし、この世界が、完全なるものとしてある限り、
(なぜ完全なのかと言い出すと長くなるので置いておく)
<生-死>の対立軸をあえて持ち込もうとするのは、
世界に対する主体性としてというより、
主体性への飢えがつくりあげる強迫観念でしかない、
と言える。
世界がたとえ完全なものであったとしても、
僕たち(と敢えて複数形で語る)は、その中においても
やはり選択を繰り返している。
<非決定>の透明な世界における、決断の数々は、
たとえばRPGにおける勇者の一歩のようだ。
ところが、そうであったにせよ、僕たちは進まなければならない。
映画のフィルムが流れるように、押し出されるようにして進む。
ひとつひとつの決定は自作自演で織られていく。
僕たちの迷いは、そういう意味で多層化している。
軽々に口にするべきではないと思うが、
先の連続殺人で、容疑者が死刑になりたかったという
語りは、僕たちの危うさが滲んでいるように思う。
どうして自死という選択が彼の中になかったか。
あるいはなぜ単純な暴力の狂気として発露しなかったか。
僕たちは何に迷っているのか?
その問いは多層化した僕たちの狭間にしみ入り、
僕たちはその問いの前で、自らの弱さを自覚する。
時は流れていく。
* * *
ゴールデンな日々の幕開けなのに、暗い話になってしまった・・・
2009年5月2日土曜日
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