田口ランディのブログ、というのがあった。
少し読んでみたが、おもしろい。
松尾スズキのブログは不景気の影響で(!)終わっちゃったし、
代わりにというテイストでもないが、読んでみようと思う。
そこで書かれていたのが、上記のリンクの文章で、
一度目に読んだときは、そうだな、と得心した気もして、
二度目に読んだいまは、少し違うな、と思った。
『困難や責任などのめんどうなことは「今はない」のである。だけれども「先にはあるかもしれない」と思い、先のことを考えて「めんどくさく」なってしまうのである。』
と言う。似ているが少し違う。
先のことを考えて面倒になるのは、今ではなく、未来である。
その未来を実現するのが、大変だからではなくて、
どのような未来を実現しても結局は同じように、
『別にいいけどね』の範疇だから、
先のことを考えて、ではなく、先のことに、めんどくさくなる。
そのめんどくささは、全てに先んじてある。
『現実レベルから一歩も出ないような意識状態で未来を先取りすれば、その未来は当然ながら現実が矮小化したものにならざるえない。この現実に大満足ならそれでもいいが、意識による未来の先取りなどものすごくリスキーであると思う。』
というのはまさに真理で、そのリスクは痛いほど知っている。
リターンがないが。
このリスクは、めんどくささと通底している、根源的なものである。
例えるなら、一歩一歩階段を昇っているようなもので、
一段ごとに景色は変わるし、はじめから登りつめた先の景色を想像して
どうこういうのも、確かに詮無いような気もするが、登りつめたところで、
「同じように違う」景色があるだけで、また次の一歩を探して、
昇るか何かする現実しかないのであって、そのことも含めて面倒だと思う。
そう思って上の言葉をみると、やはり違う。
未来は、未来としてあるのではなくて、いつだって、現在として迎え入れられる。
迎え入れられない未来を想定しても、それは、「できることなら・・・」
といっているのとかわらなくて、それ以上の不毛はない。
現在となった未来は、いつだって卑小である。
田口は呪縛というが、その呪縛から解放された若者に何を望むのか、
よくわからない。
呪縛などいうものはなくてただ現実がある。
現実を呪縛というなら、未来もいずれは現実になるし、
というより、そもそもはじめから、未来は現実の一部なのである。
未来は確かに未知である。しかし、どこまで未知を広げたところで、
現実以外のものではない。
『「できることなら……したいが、しょせん死ぬのだからめんどくさい」ということはないであろう。』
というが、死を想定しようがしまいが、
面倒だといっているのは現実についてであって、
現実は死に脅かされない。
現実を打ち破る死は、他でもない自分の死でなければならない。
先取りした未来に想定される死ではなく、いまここの死、である。
しかし、それこそ、現実レベルを超えたいから、
現実の死へ至ろう、というのでもないだろう。
自殺はどこまでいっても「想定した死」以上のものではないから、
どうにもならない。
それで、死ぬために、死刑になるために、殺人をおかした若者のことを
思い出したが、こうやって引き合いに出すのは軽率に過ぎるだろうか。
いずれにしても、田口の困惑はよく理解できるが、困惑していても仕方がなくて、
なぜなら生きている。
あんまり書くとまた暗いと心配される(^^; が、
これは生命への賛歌である。
話は変わるが、中学生の頃、好きだった女の子に、
「ネクラだね」と言われたことがあって、
ネクラという言葉をその頃知らなかったけど、
語感で意味はわかる。
そりゃー、ショックでしたよ。
こちらは元気に校庭を走り回って先生に反抗して、
もちろん読書なんかしてなかったしねえ。
彼女の言霊が、俺を呪縛するのだ。
いたいけな少年の胸に突き刺さった、呪いの剣なのだ。
G・ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』
は、こう始まる。
「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。」
2009年5月16日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)

0 件のコメント:
コメントを投稿