映画「ブラック・スワン」を観る。
ナタリー・ポートマンといえば「レオン」の可憐な少女の印象が
濃くあったが、年齢でいえば僕より二つ上で、いまみると
少女の面影よりもその後の年月を経た成熟を強く感じる。
彼女演じるバレリーナ・ニナは、オーディションによって
「白鳥の湖」の主役に抜擢される。
完璧な演技-繊細で禁欲的な-をこなすけれど感情の吐露、
情熱や躍動を表することに弱みがあり、
もっと官能的な色気を出せとプロデューサーに叱咤される。
セックスや酒、ドラッグを通じて、内面にある暴力的な自己を
引き出そうとするのだが、その過程で精神が崩壊していく、
というあらすじ。
これを古典主義とロマン主義の対立として観てしまうと
実に凡庸でつまらないストーリーになってしまう。
最近の映画ならではのCGや音楽による効果に視点を
移すことで、いくらかこの映画の良さを語りえるかもしれない、
という程度だ(無論僕の埒外である)。
それとは違う視点で観なければならない。
登場人物を整理してみる。
まず、偏執的な愛情を捧ぐ母性の塊のような母親、
プロデューサーとしては一流だが厳格で、
憧れの対象である一方、抵抗の象徴として父権を代表する男、
自分にはない奔放さを持ち
主人公のコンプレックスを投射するライバルのバレリーナ、
老いによって引退を余儀なくされ、プライドを引き裂かれ
自殺未遂を犯す「白鳥の湖」の前・主役は
言うまでもなく、ニナの将来を暗示している。
(詳しくは、Wikipedia を参照)
ストーリー展開は実に暗い。
母性は最もその惨さを表し、父権は最もその醜悪さを晒し、
ライバルは(ニナはあくまで脅威を幻想的に感じるけれど)
ニナを尊敬しており、最後まで毒にも薬にもならない、
友とするにはあまりにひ弱な存在だ。
前・主役は二ナの危うい未来を暗示はしても、
希望の道を照らすことのできなぬ負け犬でしかない・・・。
そこに辿り付いて、僕はその周到な救いのなさに驚嘆した。
この映画にはまったく逃げ道がない。
暗さに怯え、細く入り組んだ迷路を抜けて逃げ場を求めても
先回りするかのように、すべての出口は塞がれている。
この暗さは、誰かの意志によるものではなく、運命論的な暗さなのだ。
神になれぬ人間が、いかにこの暗さから逃れうるか。
もはや、神がこの世界を創る前に立ち戻るしかない。
つまり、この映画の冒頭、かのプロデューサーが、
突然のオーディションを始めるその時だ。
ゼロ年代の想像力について、宇野は「バトルロワイヤル」と「デスノート」
を例に挙げ、容赦なく始まるサバイバル・ゲームについて語った。
そのゲームのなかで、自滅してゆく存在がニナであろう。
しかし、「ブラック・スワン」におけるゲームは、
超越的な黒幕が宣言してあるものではない、
あくまで二ナのつくりあげた幻想のなかにしかなく、
登場人物はそれを補完しているに過ぎない。
やはりこの映画には行き場がない。
黒幕が自らの幻想である以上、自身がゲームの主催者になったり、
黒幕を打ち倒す物語は、原初的に不可能なのだ。
悔しいことに、ここにも先回りされている、
しかし、諦めるわけにはいかない。
それでも生きねばならないし、幸せを勝ち取らねばならない。
映画の構造の中に留まっていてはどうにもならない。
その構造を無効化すること、ゲームのルールを無視すること、
あてがわれた勝敗の軸を横柄にずらしてみせること・・・。
浅田のスキゾ・キッズ的な軽さはもうない。
世界の構造にがむしゃらな抵抗し、抵抗のなかに生きること、
死を宣告されても、這いつくばって生きること、
なり振り構わず自己の生に向き合う(内面的にではなく)
客観的な強さを必要としているのだ。
ちなみに、映画のクライマックス、
ニナは文字通り命をかけて最後の演技をやり遂げ
「Perfect」だと呟くが、その儚き美を褒め称える無責任を
僕は強く嫌悪する。あれは、タナトスの狂奔に過ぎない!
(村上龍のエクスタシー>メランコリア>タナトスの三部作に帰れ。)
そう書いて「タナトス」の末尾だけ読むとこうある。
(女優が主人公な点といい、いささか共通点が多すぎる。)
「あなたは最初から、すべての人間には荒涼とした景色しかないのだと決めている、あなたがその荒涼とした景色しか知らないからではない、あなたは本当はさまざまな美しい景色を知っているはずなのだ、だがあなたはそれを受け入れてない、美しい景色を受け入れるのは実は大変な苦労を伴う、その再現を望むからだ、あなたが関心を持つのは、来るべき美しい景色のために今の醜い景色を受け入れているかのような人間だ、ということは、あなたは美しい景色があるということを知っていることになる、あなたは、美しいものと一緒にいたい、と自分ではそういう風に思っている、そのために努力していると自分では思っているが、絶対にそれを手に入れようとはしない、それが手に入りそうになるとあなたは自分のほうから逃げ出す、自分と共に生きる人は決して幸福になってはいけない、あなたはそう考えている、・・・」
サバイバル・ゲームに参加しない、ということはできない。
否応なしに巻き込まれている、だが、巻き込まれている自分自身と、
それを取り巻く人間関係は確かに存在しているし、
勝つにせよ負けるにせよ、その賞罰がどうであれ、
それとは無関係に貫かれる個的存在としての己が
最終的に、いったい何を願い、誰の幸福を希求するか、
覚悟というにはあまりに終末的な砦だが、
それをいかに築き守るか、それが全てなのだ。
その最終防衛ラインは、決して他人に突破されるものではないとはいえ、
それを従来の意味で「救い」と呼ぶことはできない、
あまりに自助的な「生活」でしかないだろう。
惑いながらも、それを客観的に見つめ続ける以外にないし、
ないのだという確信を強く持つこと、僕には他に方途を見出すことができない。
2011年5月21日土曜日
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