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2011年5月21日土曜日

スワンの呪い

映画「ブラック・スワン」を観る。
ナタリー・ポートマンといえば「レオン」の可憐な少女の印象が
濃くあったが、年齢でいえば僕より二つ上で、いまみると
少女の面影よりもその後の年月を経た成熟を強く感じる。

彼女演じるバレリーナ・ニナは、オーディションによって
「白鳥の湖」の主役に抜擢される。
完璧な演技-繊細で禁欲的な-をこなすけれど感情の吐露、
情熱や躍動を表することに弱みがあり、
もっと官能的な色気を出せとプロデューサーに叱咤される。
セックスや酒、ドラッグを通じて、内面にある暴力的な自己を
引き出そうとするのだが、その過程で精神が崩壊していく、
というあらすじ。

これを古典主義とロマン主義の対立として観てしまうと
実に凡庸でつまらないストーリーになってしまう。
最近の映画ならではのCGや音楽による効果に視点を
移すことで、いくらかこの映画の良さを語りえるかもしれない、
という程度だ(無論僕の埒外である)。

それとは違う視点で観なければならない。
登場人物を整理してみる。
まず、偏執的な愛情を捧ぐ母性の塊のような母親、
プロデューサーとしては一流だが厳格で、
憧れの対象である一方、抵抗の象徴として父権を代表する男、
自分にはない奔放さを持ち
主人公のコンプレックスを投射するライバルのバレリーナ、
老いによって引退を余儀なくされ、プライドを引き裂かれ
自殺未遂を犯す「白鳥の湖」の前・主役は
言うまでもなく、ニナの将来を暗示している。
(詳しくは、Wikipedia を参照)

ストーリー展開は実に暗い。
母性は最もその惨さを表し、父権は最もその醜悪さを晒し、
ライバルは(ニナはあくまで脅威を幻想的に感じるけれど)
ニナを尊敬しており、最後まで毒にも薬にもならない、
友とするにはあまりにひ弱な存在だ。
前・主役は二ナの危うい未来を暗示はしても、
希望の道を照らすことのできなぬ負け犬でしかない・・・。

そこに辿り付いて、僕はその周到な救いのなさに驚嘆した。
この映画にはまったく逃げ道がない。
暗さに怯え、細く入り組んだ迷路を抜けて逃げ場を求めても
先回りするかのように、すべての出口は塞がれている。
この暗さは、誰かの意志によるものではなく、運命論的な暗さなのだ。

神になれぬ人間が、いかにこの暗さから逃れうるか。
もはや、神がこの世界を創る前に立ち戻るしかない。
つまり、この映画の冒頭、かのプロデューサーが、
突然のオーディションを始めるその時だ。

ゼロ年代の想像力について、宇野は「バトルロワイヤル」と「デスノート」
を例に挙げ、容赦なく始まるサバイバル・ゲームについて語った。
そのゲームのなかで、自滅してゆく存在がニナであろう。
しかし、「ブラック・スワン」におけるゲームは、
超越的な黒幕が宣言してあるものではない、
あくまで二ナのつくりあげた幻想のなかにしかなく、
登場人物はそれを補完しているに過ぎない。
やはりこの映画には行き場がない。
黒幕が自らの幻想である以上、自身がゲームの主催者になったり、
黒幕を打ち倒す物語は、原初的に不可能なのだ。

悔しいことに、ここにも先回りされている、
しかし、諦めるわけにはいかない。
それでも生きねばならないし、幸せを勝ち取らねばならない。
映画の構造の中に留まっていてはどうにもならない。
その構造を無効化すること、ゲームのルールを無視すること、
あてがわれた勝敗の軸を横柄にずらしてみせること・・・。

浅田のスキゾ・キッズ的な軽さはもうない。
世界の構造にがむしゃらな抵抗し、抵抗のなかに生きること、
死を宣告されても、這いつくばって生きること、
なり振り構わず自己の生に向き合う(内面的にではなく)
客観的な強さを必要としているのだ。

ちなみに、映画のクライマックス、
ニナは文字通り命をかけて最後の演技をやり遂げ
「Perfect」だと呟くが、その儚き美を褒め称える無責任を
僕は強く嫌悪する。あれは、タナトスの狂奔に過ぎない!
(村上龍のエクスタシー>メランコリア>タナトスの三部作に帰れ。)

そう書いて「タナトス」の末尾だけ読むとこうある。
(女優が主人公な点といい、いささか共通点が多すぎる。)

「あなたは最初から、すべての人間には荒涼とした景色しかないのだと決めている、あなたがその荒涼とした景色しか知らないからではない、あなたは本当はさまざまな美しい景色を知っているはずなのだ、だがあなたはそれを受け入れてない、美しい景色を受け入れるのは実は大変な苦労を伴う、その再現を望むからだ、あなたが関心を持つのは、来るべき美しい景色のために今の醜い景色を受け入れているかのような人間だ、ということは、あなたは美しい景色があるということを知っていることになる、あなたは、美しいものと一緒にいたい、と自分ではそういう風に思っている、そのために努力していると自分では思っているが、絶対にそれを手に入れようとはしない、それが手に入りそうになるとあなたは自分のほうから逃げ出す、自分と共に生きる人は決して幸福になってはいけない、あなたはそう考えている、・・・」

サバイバル・ゲームに参加しない、ということはできない。
否応なしに巻き込まれている、だが、巻き込まれている自分自身と、
それを取り巻く人間関係は確かに存在しているし、
勝つにせよ負けるにせよ、その賞罰がどうであれ、
それとは無関係に貫かれる個的存在としての己が
最終的に、いったい何を願い、誰の幸福を希求するか、
覚悟というにはあまりに終末的な砦だが、
それをいかに築き守るか、それが全てなのだ。
その最終防衛ラインは、決して他人に突破されるものではないとはいえ、
それを従来の意味で「救い」と呼ぶことはできない、
あまりに自助的な「生活」でしかないだろう。
惑いながらも、それを客観的に見つめ続ける以外にないし、
ないのだという確信を強く持つこと、僕には他に方途を見出すことができない。

2009年11月29日日曜日

消えない花火

岩井俊二の映画が観たくなって
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を
TSUTAYAでレンタル。

50分間のごく短い映像のなかに幼い頃の自分が濃密に溶け出していて、
冬本番を迎えようとするいまにこそあえて、
幼い彼らの小麦色の肌や前歯の欠けた笑顔を観るというのも、
遠ざかっていく記憶の熱といまここに無理をして造り上げた青春の儚さが
よりリアルに感じられてよかったと思う。
そのなかで少女の美しさは格別だった。
おそらくと思っていたが、確かに十五年以上前の奥菜恵だった。
人間劣化していくものだなあと思う。
十代の半ばで美しさの頂点を極め、
あとは転がり落ちていくだけのものであるとすれば、
余りに年老いてからの人生は長すぎるように思う。

なんだか少女趣味に聞こえてくるが実際は全然違う・・・。
これはただの感傷です(キッパリ)。

何の話だっけ。

この映画の主題は実にわかりやすいので敢えて書く気もおきなくて
ホースで水をかけたり、浴衣の裾がはだけたりする奥菜恵の映像が
よみがえってきたのだった。
打ち上げ花火と夏祭り、それらはあまりに恋に似合いすぎる。
東京のそれはあまりに人が多すぎて疲れる以外にないが。
そういえば昔、僕と、僕が好きだった女の子と、その女の子が好きな男と、
三人で花火を見に行った夏があった。その男は僕にとって親友だった。
アレは一体なんだったんだろう。
楽しんだはずだという確信だけが宙に浮いてある。

だから一体何の話を・・・。

この映画は、幼き日々の不可解な記憶へと観る者を誘う。
よくわからないことがたくさんあった。
楽しいこともたくさんあった。
それらを経過して、いまの自分がいると思う。
けれどそのころともに笑った友達はいま一体なのをしているのか知らないし、
そのころ好きだった女の子にもいまや微塵の関心もない。
当時のわけのわからないことの数々はいったいなんだったのだろう。
いまになって考えてみれば、花火をどこから眺めたとしても・・・と同じように。
なのに私の心に夜が訪れたらときには今でも
大輪の花となり、轟音と熱気のなかで狂おしく咲いているのだ。

2009年10月10日土曜日

生命はあくまで未来に飛翔する

マジックアワーについて殴り書きの原稿? が手元にあるし
書いておきたい気もするが、、
久しぶりにレンタルして観た「BOY A」について
今日は、書いておこうと思う。

簡単にあらすじを記しておくと、
十歳で少女を殺害し当時「悪魔」と呼ばれた少年が出所し、
全く新しい人物「ジャック」として社会に復帰しようとする。
友達ができ、恋人ができ、歳相応の青春を取り戻したかのようにみえる。
しかし、あるとき彼がその「悪魔」であった過去が明らかになり・・・。
という展開である。

過去はなぜかくも重いのだろうか。

先日、テレビを観ていて思わず涙したことがあった。
(嘲笑うように泣かせることに固執するテレビの演出があざといとはいえ。)
幼くして病に侵された少年は痛む身体をして、絵を描く。
その絵は、あまりに生命力に溢れていて輝いていた。
がんばれというやつは口だけだから嫌いだといった。
病に負けないというのはただ生き続けることではなく、
死ぬそのときまで辛苦に耐え、そして愛し愛された家族と共に、
幸福であり続けることだと、彼は知っていたのだった。
彼の絵に勇気付けられた人々を集め彼の個展が死後に開会された折、
彼の母親は言った。
「彼が生きていたいと望んでいた明日、それが私たちの今日です。」

彼にとって病に苦しんだ過去、死んでしまった過去は大きな意味を持つまい。
彼の生命はあくまで未来に飛翔している。


過去はたしかに重い。
一度のあやまちによって、一切の信用を失う。
どれだけ言葉を尽くしても心の底で信じていない人の疑心を変えるのは難しい。
報いようにも、愛を示そうにも、閉ざされた扉の前で無残に腐る。
人と社会がそうなら、人と人もそうだ。
その膠着した関係を解消するのが死をもっての償いしかないのだとすれば、
過去によって死が不可避となるのだとすれば、未来とは何だろうか。
未来はあまりに弱い。

この映画は、スケープゴートになり得る、共謀の少年の存在が
しごく軽率に登場するのが無神経な印象を残してしまうが、
過去にひねり潰される現在と取りざたされることもない未来を描く佳作!
おすすめする。
少年が、緊張した面持ちで、友人と恋人とするふれあいは実に美しかった。

2009年9月23日水曜日

僕たちの戦争

あまり計画性もなく、
慌しく突入したシルバーウィークだったが、
充実した連休になった。

だいたいシルバーウィークという名前が気に食わない。
敬老の日を含むから老人臭くていいのかもしれないが、
ゴールデンウィークとのつながりで単に名づけられたのだとすれば
安易にもほどがある。まったく。



サマーウォーズを観る。
なかなかよくできた映画でエンドロールで流れる山下達郎もいい。
(思わず iTunes で買ってしまった。)


田舎の家族に囲まれた日常世界と、
Ozと呼ばれるシステムが作り出すネット上の世界、
世界の存亡を賭けた事件に巻き込まれていく非日常、
これら三つが重なり合い並行し合い、
踊らされるように立ち向かうように暮らしている。

リアリティ、という言葉を持ち出すと
途端に禍々しく聞こえるが、
映画のなかでこれら三つの世界は重大に扱われることもなくて
ファジーな輪郭のなかで右に揺れ左に揺れしている。

この映画自体がひとつの大きな心象風景(この言葉自体は受け売りだが)を
描いていて、過ぎし夏の思い出、というセンチメンタルな表現がぴったりくる、
それがこの映画を観たあとの最初の印象だった。

一つの恋が世界を揺るがす大事件にもなるし、
一人の家族の死によって世界の見え方が180度変わることもある。
ネット上のコミュニティが何よりも勇気をくれることもあるだろうし、
家族の愛情が何よりも幸福を与えてくれたりする。
一歩外に出ればひとつひとつは全く取るに足らない些事によって
あるいはありふれた現象をなぞるようにして、
僕たちの世界は構成されているし、それ以上は望むべくもない。
一人の人間のキャパシティは、訓練によって多少の拡がりを
持たせることができるのだとしても、
身長の大小に似てその違いは印象の違いを生むことはあっても
実質的な変異をもたらすわけではない。
そのことをとてもポジティブに笑っているような爽やかさが、
この映画にはあって、夏にすごした青春のひとときを思い出させる。

もうすぐ公開は終了すると思うが、まだ映画館は満員だった。
この映画が大ヒットするというのはいいことだと思う。
花札! によって家族をひいては世界を救おうとする少女を、
世界中の人たちがネットを通じて応援したように
この映画を観て感動する僕たちは見知らぬ誰かの幸福を願う寛容に
無条件の賛同を示していたのではないだろうか。

2009年6月4日木曜日

永遠の少女

スカイ・クロラを観る。

評価は二分というのが通説(というのも変な話だが)のようだが、
これを単に「終わりなき日常」(宮台)と捉えると、
それがそうだと思えば嘆息の賛同へと至り、
とはいえと求めることに急なら空虚を掴むことになる。

若者を描いて「終わりなき日常」が舞台となるのは
前提として受け止めたほうがよくて、そう思って観ると、
細かな仕掛けが良くできていて完成度は高いと思う。
たとえその一つ一つが、既に使い古されたものだとしてもだ。

そういう意味では、「終わりなき日常」は単に実際に生きるこの時間に
だけあるのではなくて、創造される作品の中にもあって、
何を書いても同じように見えてしまうという困難を拭いきれない。
なるほど作家の微力と切って捨てることはできるだろうが、
同様に自らの人生の凡庸を受容せざるを得ないことを思えば
それもいささか酷であるように思う。

スカイ・クロラについては色々言いたいこともあるが、
(いくら書籍を紹介しても誰も読んでくれないし!)
これは実際に見ていただいて、僕の記憶が鮮明なうちに
酒でも飲みながらあれやこれや感想を語り合いたいものだ。

この場では、中森明夫の「アイドルにっぽん」と合わせて
読むことでみえる応用編?についてメモしておきたい。

スカイ・クロラとアイドル論を同じ遡上で述べるのは、
無難すぎるほどであって、キルドレ(大人になれない子供たち)が、
大人たちの仕組んだゲームの中で刹那的に生きもし、
またティーチャー(本編では、Father と英語名で呼ばれるが)によって
にべもなく殺される様、そして死してなお・・・と余り言い過ぎると
結局内容に触れてしまいそうになる。

アイドル論に戻ろう。
中森は言う。(日本国憲法をもじっている。)
「価値なきものとして、偶像を生きること。それが『象徴』の宿命だった。自らに課せられたアンビバレントなその"宿命"を、いっそ今、"理想"として生き直すこと。積極的に選び取ること。それこそ、あるべき私たちの将来像 ― リアルな未来のヴィジョンではないか。」

アイドル論を語るときの困難は、「価値なきものとして、偶像を生きる」のが、
自分ではない、生身の人間でなくてはならないことであるにも関わらず、
積極的に選び取っているのは自分自身であるという位相のズレ、それを取り繕うように
多弁になる自分自身の欺瞞ではなかったか。
『象徴』は常に価値を持たず、その無価値に価値を見出す自分。
アイドルの刹那性、あるいは、自殺あるいは夭折した少女たちの神話、
常に永遠なる少女であることを強いる暴力として存在している。
キルドレが記憶を持ち得なかったのも、彼らが主体的に語り始めることを
恐れたからに他ならない。そうでなくてはキルドレは、平和の象徴たり得なかったろう。

しかし、今さら70年代、80年代について語るのはなぜだろうか。
このような話はインターネット以後のいわゆるオタク文化の内実を見渡せば、
容易に解するという以上の進化を見ることができるはずではないだろうか。
だが表面的な論駁は言いとしても内実にはほとんど進歩がないというのも
また真実なのだろうと思う。
中森がアイドルを語るのも、東浩紀がオタクを語るのも結局は同じことだ。
ぐるぐると彷徨いながら、また懐かしい死の顔がそこに浮かぶ。
旧知のなかとなってしまった、腐れ縁の死よ---
死の幻惑、死の夢見、死の超越、死の希望。
死から始まる物語がある。それが僕たちの生だ。
時を遡るようにして生きる僕たち。

ああ、そうだったのだ。僕はようやくスタート地点に立つ。
無価値を生きることにした僕たち。
それは死から始まる逆廻しのラブストーリーだ。

2009年5月3日日曜日

「蛇にピアス」の所有をめぐる闘争

同世代の作家の不在あるいは期待と言いながら、
僕は金原ひとみという存在を避けていたのだと思う。
二十歳に芥川賞を受賞という輝かしい実績は、
何よりも僕にとって早かった。

蜷川幸雄が映画化したというので読んだ。
むしろ蜷川幸雄を通じてはじめて僕は金原ひとみと
向き合うことができたのだと思う。

以下は、作品の内容に触れるし、
読んでいない方にもわかるようには書かない。

「蛇にピアス」をめぐる所有について、である。

所有という語は、小説をかなり忠実に再現したと言える映画の中で
より鮮明に表出される。
小説では、龍と麒麟の刺青を完成させた後、ルイがこう話す。

所有、というのはいい言葉だ。(略)やっぱり人は人間も物も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているのだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れる事はない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。

龍はアマの、麒麟はシバの身代わりである。ルイはそれを所有し、
かつ、アマ、そして、シバはともに、ルイを所有しているという、
共犯関係にある。瞳のない龍と麒麟は、ルイという舞台に閉じ込められ争う。
いや、それは、争いというよりも、ルイの血肉となって同居していたはずだった。

裏切りはルイから始まる。
それはなぜか? なぜ、念願の龍と麒麟の刺青を完成させた後、
生きる気力を失い、「しょっちゅう」死を、つまりは所有関係の解散を
願うようになるのか。スプリットタンに至ることへの焦り、
それは死への焦りに似てはいなかったか。
(解説での村上龍の問いの一つ目はこれだ。)

ところで、刺青が象徴するとはいえ、ルイ、アマ、シバにとっての
所有関係とは具体的にどのような関係であったろうか?
本名も年齢も職業も、何もしらない彼らの関係は、
果たして所有と呼べるほどのものだったろうか?
携帯の電源をOFFにして隣町に逃げ出せばそれで、
東京の人混みに紛れて終わる。例えばそういうことだ。

それを痛みという、この映画のキーセンテンスで説明してしまうのは
あまりにも容易だ。なるほど、ピアスや刺青に表される
肉体的痛みは、自分の生を確認する大切な手法だったに違いない。
アマの犯す第一の殺人、シバの犯す第二の殺人と、
横滑りしながらそれらの痛みを引き受けていくルイ。
SとMと言ってもいいが、傷つけあい痛みあう関係こそが、
彼らの所有感であって、幸福な家族が築く関係とは対極に位置していた。
シバがルイの本名を聞いたその日からシバは家族的な愛情を示すようになった。
例えば結婚という言葉が予期したように。

金原ひとみは、自らのスプリットタンや刺青に対する不思議な欲望を、
ルイに投影させることによって昇華した。
アマはルイの痛みをすべて引き受けて死んだ、とも言える。

しかし、この連鎖はいつまで続くのだろう?
そしてそのあまりにも過酷な連鎖に、人は耐えうるだろうか?

2003年、この年、僕は19歳、大学二年生だった。
SARSが流行して、六本木ヒルズがオープンし、
スーパーフリー事件がおこった。
僕は得体の知れぬ東京の波に飲まれ、四苦八苦していた。

いまも根本的には何も変わっていない、といえばそうだ。
むしろ追い詰められていくような閉塞感は増しているはずだ。

2009年3月22日日曜日

2009年3月21日土曜日

なんかいつも暗い話題

普段は盆と正月以外帰らないのだが、なぜだかいま和歌山にいる。
そのことの詳細はおいておいて -実家は何事かを考えさせる-
映画「禁じられた遊び」を見る。
1952年に公開された名作。主題歌のギターの旋律は有名である。

あらすじを書いては見るのがつまらなくなるのでエッセンスだけ書く。
(あら、みないって? コンバージョンわるいブログだなあ・・)

“禁じられた遊び”は、二人の小さな子供によってなされる。
少年少女が物語の中心的な役割を果たし、大人たちは喜劇的な役割を
演じるのみである。
モノローグの中で膨らむ子供たちの無邪気な空想をみたことがあるだろう。
ポレットとミシェル・・二人が一人遊びのように楽しむ遊戯は、
死んだ者の弔い・・犬や鼠、虫たちのお墓をつくることである。
穴を掘り遺体を埋め、十字架を飾り、祈りを捧げる。
弔いの遊戯は・・次の遺体を求める、無邪気な、罪のない遊戯・・・
大人たちは喜劇的な争い事と日々の糧に追われ、
意志のない戦争というひとつの環境の中で暮らしている。

ここでレヴィナスを引くことは、レヴィナスの経歴・活躍した時代を
考慮してそう過ちではないだろう。
しかし、ややこしくなりそうなのでやめる。

<他者>と戯れること・・・他者の死に他性を見出し、
その<死>と<私>との間に横たわる、差異と戯れること・・・
“禁じられた遊び”は、<私たち>の中に歪みをつくりだし、
<私たち>に潜む、<私たち>の中の他性を浮き彫りにする・・・
大人たちは、不安、諦め、怠惰によってかそれを禁じようとする。
しかし、そもそも<死>の他性は<私たち>という幻想の中にしか、
ないのではないか・・・牛馬の死に私たちは他性を見たりはしない。
「無境界」―ひとつの有機体― という概念が実効性を持ち得ないのは、
そのような理由による。

これを観て何を思うかは人それぞれ・・というと元も子もないが、
僕としては、<私>の幸福について、思わないではいないのである・・。

2009年2月16日月曜日

ユーモア

風邪を引いたようでもないがくしゃみが出る。
コンタクトが合わないわけでもないだろうが、目が痒い。

と言葉で書いたのをみると、完全に花粉症じゃないか。
僕は認めない! 花粉症だなんて真っ平だ! 金比羅だ! 金平だ!

随分前に勧めてもらっていた映画「カッコーの巣の上で」を見る。

1975年の作品で、主演はジャック・ニコルソン。

感想を簡潔に述べるのは難しい。
行き場のないリフレインは映画の終局に、突然のアクシデントを迎え止む。
それは映画を終えるためだけに用意されたような仕掛けにも
見えるし、初めからそれ以外にありえなかった末路へと向かう道を、
右往左往していただけのようにも見える。
見事な演技の中で鳴る悲しげなリズムはストーリーとは無縁に
常に胸を打ち続ける。
時々挿入されるユーモアは、場を和ませる、幕の間の箸休めではなく、
むしろユーモアこそがこの映画の本筋ではなかったかと思う。

ユーモアとは何だろうか。これまで考えたことはなかった。

2008年12月21日日曜日

ピリリとしない週末

なんだか引っ込みがつかなくなって、
TSUTAYAで『式日』借りようと思ったけど、
レンタル中でした。

それで映画を二本借りてその間小説一冊を読むが、
どれもいまいちオススメできるものでもなくて、
感想書こうと思ったけど、読んだって結局、
たいしたことないと思います。ってことだから何とも無益。

なんだかなあ。ピリッとしないぞ。

この二日間、仕事しながら映画観ながらの合間に、
年末大掃除を少しずつ進めているが、
こちらはいたって順調です。
キッチンぴかぴか!

2008年12月14日日曜日

さして寒くないのに寒さを言い訳にする日には

餃子作った。
一人で何やってんだと思うだろうか、
とにかく腹いっぱい餃子食ってビール飲んで、
何が悪い。

ときどき「料理うまいんだね」とか言われるけど、
そんなことはない。餃子うまくなかった。
白菜はもうちょっと細かく切らないといけないし、
誰かパリっとうまく焼く方法を教えてくれ。

大量に焼き杉。
互いの皮が引っ付いちゃって食べようとすると破れる。
せっかくきれいに包んだのに、何やってんだか。



ま、いいさ。全然大丈夫。

平野啓一郎の『日蝕』は、amazon の書評ではすこぶる評判悪い。
ま、松尾スズキの言葉を借りれば、「文章ブス」の集まりってところだろうか。
ま、俺もその類だったりするか。

ひさしぶりに映画見る。
できればもうちょっと頻繁に見たいところだがなぁ。



荒川良々がなんかいい。
あんまり大丈夫でない人々が、たいして大丈夫でもない日々を送っているが、
底抜けの明るさというのでもなく、なんともどうとも言いづらい映画ではあった。
どうしようもなくなったときに、
お前は何かに本気になったことあるか、死ぬ気で頑張ったことあるか、
と焚きつけられて、一念発起するもすぐに挫折して、
挫折した後悔もすぐに薄れて、ある女性に恋するも、他の男に取られてしまい、
その恋心すら、すぐに忘れるというような展開とも呼べぬ展開で、
奈良公園で鹿に餌をやるというどうでもいいラストシーンを迎える。

あんまり書きすぎるといけない。
暇があれば見てほしい。

2008年11月1日土曜日

How to

デザイナーズウィークはじまりましたね。
今年はいかないだろうなあ。
業界はなれると、途端にあまり魅力を感じないTDW・・・。
知った人に会いに行くぐらいしかモチベーションを感じません。
もうちょっと金があると探したいものもあるのだろうか知らない。

昨日は会社の交流会でアクティブな方々にお会いして
非常に刺激を受けた。
皆さん僕より年上なわけであるが、いつからああやって
アクティブに取り組まれているのであろう。
僕も追いつけ追い越せでがんばりたいものだ。

入社して一ヶ月。あっという間だった。

昨日聞いた言葉のなかで、すごい人ってのは
「自分を甘やかさない」
「言葉を選び言葉に責任を持つ」
「人を楽しませるが自分も楽しめる」
ってことができる。
これだけ書くと自己啓発ハウツーみたいだが、
いまの自分にはこれがとても沁みる。

* * *

映画「恋する幼虫」を観る。
荒川良々と松尾スズキが出ているということだけで
借りたがやっぱりなんだかすごいことになっている。
バカすぎる・・・。
誰しもが抱える心の傷とその交流、事故、共鳴であったりとか、
そういうふうに解釈を論じることもできるが、
そんなことしたってこの作品のおもしろみは伝わらないだけである。
特典としてメイキングの風景があってそれがおもしろい。
くだらないくせに、神妙な面持ちで演じられるその舞台裏が少し観れる。

映画を観たくなったが特に借りたいものもないしシリアスなのでどーんと
衝撃をうけるつもりも、中身のないコメディで笑ってすっきりするつもりも
ないときには、これを選んでみてください。
あとこの映画を好んで観るとすれば、寄生虫好きぐらいしかいない。