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2010年7月26日月曜日

可能性

最近、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を読む。

世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)

タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。

それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。

悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。

この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。

でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。

2010年2月16日火曜日

突然の終幕

このブログは僕にとって3つ目だが、
その役目を終えてしまった。

一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。


2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
 とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」

このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。

そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。

最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)


「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。

実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。

そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。

洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。


それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。


(了)

2010年1月17日日曜日

一里塚

これからの10年をどう生きるか、
僕にっていまそれが最大の関心事である。
もちろん先のことなどわからないというのが
絶対的にあるけれどもね。

「ゼロ年代の想像力」は今後を考える上で非常に役立つ一冊であると思う。
大学受験に向けて和歌山で必死に勉強していた頃、
受験戦争に勝ち抜き上京して一旗あげようと夢見ていた頃、
黒煙をあげるWorld Trade Center の映像が突然テレビに映し出され
そうして僕のゼロ年代は始まった。
東京で見るあらゆるものを吸収し、反発し、嫌悪し、憧れ、誓い、諦め、
慎重にゆっくりと、でも何かに急き立てられるような焦りのなかで
僕はまるで早足で歩くみたいにゼロ年代を過ごした。

テレビドラマ批評という僕にとって馴染みのないアプローチであるが、
本書は、気付いたらゼロ年代の渦中にいた僕が無意識のうちに
感じていたこと、何とか言葉にしようとしてブログで書いていたことを
きれいに整理してくれている。

その上でこれからの歩み方を示唆してくれるのは
何もテレビドラマだけではない。
本書ではほとんど相手にされなかった金原ひとみや松尾スズキの作品に
それを見出すことができるし、本谷有希子、枡野浩一、岩井俊二だっている。
小説において同世代の作家となると寂しい気持ちは確かにあるけれど、
僕が寡聞であるだけで実は大勢の新しい想像力が
生み出されていることだろうと思う。
それに過去の作品からも僕たちは未来を学ぶことができるし、
何故か本書で全く言及されなかった海外の作品からも
僕たちは新しい想像力を培うことができる。

視野を広げて映画や絵画、学問といったところからも
栄養を摂ることができれば、さらに世界の奥行きは広がる。

こうでなければならないということはもはやない。
多様であっていい。
宇野の告白に共感する。
これからの十年はもっと自由になる。
僕たちはその責任を引き受けなければならないのだ。
僕はそのこと自体を悲観するつもりはない。
とにかく前進すること、そして幸せになることだ。

2010年1月10日日曜日

永遠を探して

小説を読んでいると、あるいはその批評となった途端、
時流のなかでの位置づけ、時代の気分が表徴されているかのような
言い回しに向かうことがある。
例えば「この作品は80年代の・・・バブル崩壊後の・・・9.11以後の・・・」
といった具合にだ。
あるいは「○○は××の問題意識をさらに押し広げ・・」といったように
間接的にだが時系列に並べることで、小説世界の発展を見通したりする。

何度か言及したと思うがおそらく大江健三郎の文章で
どこでいつ読んだのかしらないか印象的な話がある。
科学技術は蓄積のなかで進歩していく。
しかし小説はちがう。ドストエフスキーが今の自分に最も必要であったり
ウィトゲンシュタインに影響を受けて90年代らしい作品が生まれたりする。
雑然と並べられた本棚をイメージするとわかりやすい。
書物の知恵は時系列に関係なく同時多発的に「生まれ」るのだ。
あとから時系列に整理して傾向が浮かんで見えるのは
人は環境に大いに影響を受けるという当然のことを
ただ示しているにすぎず、実は退屈な議論なのである。
だからこそ、張りぼての神様と物語のない日常しかない現代において
共時的、実践的、対話的に現前し意味世界をつくる芸術的なるものが
いまあらためて必要とされるのだろうと思う。

思いのほか前置きが長くなった。

G.ガルシア=マルケスである。
『百年の孤独』はいつかの楽しみにとってあって今回は、
短編集『エレンディラ』を読む。
彼の作品には時間が流れていない。
それを、南アの時間の全く外にいる僕自身の問題でもあるとか
この作品が童話的であるということからして、
時間が流れていないように感じるのだと明確に結論付けたって構わない。

しかし、激しい雨の降る蒸し暑い路傍に横たわる老いた天使、
バラの香りを放つ海の底で日曜日の朝十一時に水没した村、
エレンディラが勤める砂漠の真ん中にあるテントに長く伸びる男たちの列、
そういうひとつひとつの情景が絵画のように鮮やかに描かれていて
その時は永遠である。

永遠を描くことが文学にとって唯一とも最上とも思わないが
この手の作品に親しむことができればもっと豊かに安らかに
人生をとらえることができようにと思っている。

文学あるいは芸術の価値について今更、再構築しようというつもりもないが
その魅力に心酔し生ある限り関わっていけたらと思っている。



※「エレンディラ」を二冊買ってしまったので読みたい方いれば無料で差し上げます。ご連絡ください

2010年1月5日火曜日

君へ  ― 青春

年末年始に読んだ本が溜まっているから
ご紹介しておかねばならん。義務感がある。
妙な使命感だ。
それに動かされるというのは実はとても当人にとっては
容易で気楽なものなのである。

「僕は運動おんち」枡野浩一 である。
彼の小説については二年(!)以上前に紹介している。

この小説を一言で分類すれば青春小説である。
舞台は高校であるし、片思いの遠い存在の女の子がいて、
それ以上に重大で近しい友人がいる。
空想だけは長大に広がりつつも眼前の自分は全くの無力である。
しかしこれは単純なビルディングス・ロマンとは違う。

彼は成長を志向しないのだ。
「運動おんち」の主人公は一見、クラスからバカにされているように見えるが
それはムードメーカー的に"ネタ"にされているだけであって、
イジメと呼べるほどのものでもなく、クラスで一番の腕白少年が、
他の友人には吐露し得ない内面を唯一打ち明けられる心の友として、
主人公が描かれるように、
彼には自らの欠陥を卑下する幾ばくの恐怖も存在しないのだ。
かわいい妹からは「お兄さま」と慕われ、親との葛藤は皆無だ。
これが青春の不在を意味することは論を待たないだろう。
(青春とは何かについて議論し出すと長くなるが。)
主人公が自殺をほのめかすのは「安全に痛い」ポーズでしかなく
本質的な選択肢ではないのだ。

そういえば正月のあいだ実家で読んでいたNARUTOだが
「人はそれぞれの正義をかかげながら争い続けるしかない」
というゼロ年代の思考に対し、「人はわかり合えると信じている」
とナルトが強く応えるシーンがある。
これからどういうふうにストーリーが展開するか知らないが、
わかり合える結末を描くなら、ナルトが他を超越する圧倒的な力を
手に入れて、「争いは好まない」という自省を前提とした
自己正当化のもとに悪を滅ぼすことでわかるものだけが残る世界をつくるか、
例えば、サスケとわかり合うという局所的な和解によって
万事解決とするのかのどちらかの道しかないと思う。
つまり「人は基本的にわかり合えない。しかし対個人レベルの局所的な
関係においては稀にわかり合える場合がある」というリアリズムこそが
希望なのである。

君に会いに行くために
ヘアスタイルをととのえる
オゾン層を破壊しながら
かっこいい俺が誕生する

と「運動おんち」の主人公が歌うとき、
彼は世界との対話を諦めている。
柔道では負けない、泳ぐのが速い、ギターが演奏できる、
などといった単純な指標で理解してもらうことは最早できない。
それらすべてに「おんち」であるからこそ、彼はそのことに気付いた。

彼は「髪を切る」ことでクラスの人気者になる。
しかしそれはあくまでその小さなクラスで通じる言語であり
プロの目からすれば「センスはあるけれどドシロウト」の
レベルでしかなく、その自覚は当人だけでなくその周囲にも
通じている。にも関わらず彼が人気者になるのは、
彼が学園に属する内部の人間であり、
仲の良い者だけが無料で切ってもらえる秘密であり、
彼が「運動おんち」であることの前提を共有しているからだ。

「とにかくこの文章は遺書のつもりで書く。
 だれにも読まれないかもしれないけれど、いつの日にか君が読むかもしれないと意識しながら書く。
 君はだれなのかは、わからない。」

という十七歳の希望であり絶望。

僕はかつて「青春以外に書きたいテーマはない」と言っていたし、
今でもそう思っている。
この小説はユーモアにあふれているし、
あいまに挿入される詩もいい(それが本業だろうし)。
でも青春じゃあない。
どこかの誰かではない、
目の前にいる君のために書かれた言葉がもつ美しさを
僕はいまだ信じている。

2009年12月26日土曜日

ワインを浴びて

昨日もひどく飲んで何も憶えていない。
二日酔いで気分が悪い。

とても楽しいクリスマスだった。
飲みすぎなければ、
記憶のない時間に僕は、誰彼に暴言を吐いたり、困らせたり、
嫌われたりしたのではないかと脅えたりしなくてもよくなり、
二日酔いもなくすっきりとした朝を迎えられるはずであるのに
あえて飲むのは何故だろう。
もうこれまで幾度となく問うたけれど結局ほとんど進歩がない。

W.バロウズの『ジャンキー』を読む。

ビートを探って今さら何かを見出すことができるだろうか。
僕は、ビートに底流する生きるうえでの態度から
ひとつの知恵を吸収できればと思っている。
それは、不可解な自分、逃れようのない自分に対し
向き合うための合理性とでもいったものだ。

この作品のラストを引用しよう。
「快楽とは物事を特別な角度からながめることだ。快楽とは、次第に老いぼれていく、用心深く、口やかましく、いつもびくびくしている肉体の束縛から、ほんの少しのあいだ解放されることだ。たぶん、おれは、麻薬やマリファナやコカインのなかに捜し求めていたものをヤーヘのなかに見出すだろう。ヤーヘこそ最後の物になるかもしれない。」
(ヤーヘとはアマゾンの原住民が使っている薬らしい。)

麻薬によって細胞の一粒一粒が立ちあがる。
それを統合するものとして自分がいる。
今にもばらばらになりそうな自分という曖昧の弱さを理解し、
適切な安堵感を与えながらも、実に禁欲的に自分というものに向き合い、
最低限のところで自分を支えている。

自己嫌悪は起こる。
不可侵の前提、絶対的な不自由、幸福な未来に対する原初的裏切り者
として自分はいる。ある対象に無関心でいられないとすれば、
愛憎どちらが勝るにしても嫌悪は芽生える。

話だすと長くなるが、ゼロ年代を終えて、
ますます「自分」というものの存在が大きくなると思う。
そのときにいかに自己嫌悪と向き合うべきかという
現実的な処方箋が必要とされるに違いない。
ビートの禁欲的快楽主義はその確かなヒントとして再認識し得るかもしれない。

2009年11月21日土曜日

悪魔

別に本の紹介を目的にブログを書いているわけではなくて
ただ本を通じて言葉を綴るのが書きやすいからというに過ぎない。

ダン・ローズの「Don't Tell Me the Truth About Love」。
七つの短編がおさめられていて邦題にはその末尾を飾る一遍、
「コンスエラ」が与えられている。
いずれの短編にも愛おしい恋人たちが登場するが、
二人は ―― いや女はあくまで気高く、むしろ男だけは! ――
最上の喜びへと続く階段を踏み外し墜落していく。

作品の冒頭にイアーゴ(オセローに登場する悪役の策士)の
「さあ、しっかりしろ。わが身を海に沈めるだと!
沈めるなら猫か、目の見えぬ子犬にでもしておけ。」
という台詞が掲げられており、いかにも暗示的である。
これに続くイアーゴの台詞をたどってみる。
(僕の手元にあるのは福田恆存の訳文なので少し調子が違うが。)
「・・・熱しやすきはなんとやら、見ているがいい、それだけ逆にすぐにひびも入る・・・神妙らしく取り交わした夫婦の契りが、このおれの才覚と加うるに地獄の悪魔総出の加勢をもってして、なお打ち破れぬということはあるまい。」

七編で繰り広げられる愛は、あまりに悲劇的な結末を迎えるのだけれど
その顛末について、どうしても日常と呼ぶべきものであるとしか思えぬのである。
こうではなかった幸福な恋の行方を思い浮かべ、
イアーゴーの預言的に響く台詞に憎しみを抱いたところで、
事実、舞台の上には、かの二人しかいない。
悪魔は、男も女も知らぬうちにその間に
産み落とされている、招かざる我が子であった。

「・・・彼の涙管は大きく開いた。この塩辛い水はいったいどこから出てくるんだろうと思い、自分の目の裏側で貯水池が氾濫するところを創造した。その水面をマリアが歩いていた。小さな足を少しも濡らさずに。」

女はあまりに完全で気高い。
いや、男はそう信じたいのである。

まあ、いい。

「弓が弦に触れたとたん、騒々しい高波のようなホンダのバイクのエンジン音は消え去り、耳に聞こえるのは自分がぼろぼろのチェロで奏でる音だけになった。一曲弾き終えると騒音がもどってくるが、ゴックの耳にそれは大きなコンサートホールの喝采のように聞こえた。」

この短編では、音楽がとても効果的に配置されている。

次の美しい一文もそうだ。

「毎晩、夕食に降りていくまえに、彼女が全裸でハープの前に座り、そっと弦をつまびくと、夫は彼女の後ろに座って濡れた髪をとかしてやり、彼女の背中が演奏につれてそっと波打つのをながめて、音楽の一音一音を愛した。愛し合ったあとにはよく、コンスエラがニ短調のもの悲しい曲を弾いて、ペリコがじっと耳を傾け、彼女を見つめていることがあった。
 この幸せな日々のあいだ、その曲だけが、ふたりの生活のなかでの悲しいものだった。」

小説には音も色もなくて、それが小説家の負い目であると言えるだろうか。
身体を用いることによっていまここに生み出され現前する物の質量に対し、
疎外された感覚があり、ふと不安になる。
田口ランディの言葉を借りれば、
「面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と」いうことである。

それで、文章によって風景を立ち上がらせ、
美しい女を、抱擁する熱を、潮騒を、オーケストラを、
経験を超える究極として書き及んだときに、
してやったりと思うのである。

とにかく日経新聞だけじゃなくて、たまにはこういうのも読んでみてよ。

2009年11月15日日曜日

存在について

おととい飲んでいながら右往左往する話題は
ふとシェイクスピアに及んだ。
たしか演劇について話ながら、その舞台の効用、
たとえばストーリーの展開に小説とはまったくちがった
方法論を持ち込むことができるのは何故かということについて、
戯曲を読みながら想像することの有意義があるにしても
いいや、生身の人間がそこに演じている存在感には
到底想像を超えるものがある。といようなことだ。

不思議なのは、演劇の存在感と言ったところで、
あくまでそれは舞台の上で演じられる遊戯に過ぎないということだ。
非現実の存在といえば、その困難がわかるだろうか。

映画は一個の仮想世界を作り上げる。
その仮想的な世界のなかでそれは完成されており確かに存在している。
World Trade Center がまさに崩壊しようとするときに
映画の一場面かと錯覚する理由はまさにそこにある。

中世の王子・王女の登場だから違和感があるのではなく
シェイクスピアの時代でも道具の精度からして
視覚的効果を期待してなかったろう。
能や狂言となるとさらに無知だがあれをみて現実的な存在感を
みる者が果たしているだろうか。

昨日ひさしぶりにオセローやリア王を読み返しながら、
それはあくまで記録写真を眺めているかのように感じられ、
こう結論すれば通俗的に過ぎるとは思いながら、
演劇のもつ非現実としての存在感は、四肢、発声、表情によって
成り立つ世界が持つ、生命力なのだという以外になかった。

あまり演劇について語ると襤褸がでるので話の向きを逸らす。

平野啓一郎の文章にこのような一節がある。

「彼は、先ほど父の死について思いを巡らせたのと丁度反対に、誕生と云うのは、あの一頭の魁然たる雌牛が、この世界に針の穴にも満たない小さな一点を得る事なのだと考えた。そしてそれは、緩やかな時の流れの中で、着実に内から外界を押し退け、その存在の場所を膨らませる。今、その外圧に耐える張力とは、駆け巡る鮮血に一瞬毎に潤う持続である。それは、再び跡形もなく口を閉ざすであろう世界が、束の間所を譲った、生と云う、脆弱ではあるが、容易に侵し難い現象である。」

まるで僕が書きそうな文章だが、悔しいかな僕には
できぬ巧みさがありちょっと舌打ちをする。

ちなみにこれは結びの、
「歩きながら、彼は初めて自分の激しい動悸に気がついた。そして、それを抑え兼ねる事に憮然としながらも、右手にちらつく夕映えの海に、時折見るともなく視線を投げかけていた。」
という一文につながる。(物語のなかでこの海は自死を示している。)

劇中、死を演じようが生を演じようがそこに存在があるのは
生身の他人がそこで科白を吐くからである。

最近、なんだろうとよく見ている絵画は演劇に似て
そこに他人の生命が息づいているのだと言えるだろうか。
私的な空間のなかに食い入る一点として。

他人の鼓動を聞き息づかいに触れることで
それに応じる自らの生命が自覚される。
教養としてではなく、生活として芸術があるというのは
そのようなことを謂うのではないだろうか。

2009年11月8日日曜日

あたたかい友を迎えて

今日、自宅に一幅の絵画が届いた。
絵のある生活を体験してもらおうという粋な計らいなのだった。

壁に掛けようというその瞬間の興奮は
買ってきた服を取り出して鏡の前で合わせてみるときのものと
同じで、そのポジティブな高揚は癖になる。
美術館のなかで眺める絵と生活のなかにある絵との歴然とした違いは、
美術館の中にいて異質なのは私であるが、
生活のなかにおいて異質なのは絵のほうである。
それで自然と絵に視線が留まりなんだろうと思う。
ああ、なんだこんなにあったかいヤツだったんだ、と気付く。
異質な私は環境から私を守ろうとするけれど、
生活の中にある私は豊かさのなかで異質を迎え入れることができる。
僕はいま意外とあったかいヤツだった無口なこいつを
眺め、夕食に何が食いたいんだと問うてみたりする。


「本のページに火がつき、燃え上がる温度・・・。」
という、いかした副題を従えた「華氏四五一度」。
名作中の名作といって過言でない、すばらしい作品であった。
そこは本を焼いて回る焚書官が活躍する世界で、
書籍を所有するインテリたちは排撃され屋根裏に隠された書物は
家ごと焼き払われる。内省はいらない、記憶はいらない、思い悩むことは何もない。
その代わりに人々は、一日中テレビと会話し意味もなく笑うのだが。

焚書官の仕事について所長のビーティはこう語る。

「おれたちの文明社会が、これだけ巨大なものに発達したために、かえって少数派を蠢動さすわけにいかなくなったのだ。きみ自身、その胸にきいてみるがいい。おれたちが欲しているものはなにかとな。幸福にくらすということだけだろう。・・・
・・・平穏無事が幸福の要領だよ、モンターグ。平和こそ人生なんだ、モンターグ。内心との戦いはぜったい禁物。争いごとは、外へむけろ。できれば、焼却炉へ投げこむことだ。・・・みんな忘れ去ってしまうこと。なにもかも焼いてしまうこと。あらゆるものを焼くことだ。火はあかるく、きれいにかがやいているんだぜ。」

芸術は娯楽である。芸術は生活必需品ではない。
可処分所得の多い富裕層が嗜好する贅沢品である。

先日も書いたがそういう言葉で逃げないことだ。
現実にある矮小な私という存在から目を逸らさないことだ。
諦めず語り続けることだ。――― 人によって様々なその方法で。

生活する私たちを勇気付けるプロジェクトがはじまる。
空間に鋭く切り込んでゆく絵画はその俊足で多くの人を魅了するだろう。

2009年11月2日月曜日

絵画のこと

絵画の世界を覗いてみる。
そこに一歩足を踏み出そうとする動作に
恐れとも歓びともわからぬ
素直な敬意というものがあって
結局のところ何者でもない無知の頭にしても
だからこそ誘われる未知があるのだと思っている。

絵を鼻先につきつけられて、それでどうだといわれても困る。
ぼんやり向き合っていればいいんだ、逃げ出さないでいることサ
そうひらきなおるのが良いか悪いか。
なんでも良し悪しで判断しなければならないと思い込むのも
空しいことにちがいない、でも豊かであるのか貧しいのか
知らずに生きるのも、いや知ろうとしないで視野を狭めることも
なかろうと思う。
それで鼻先の絵に対し、ぬいっと抜き出す刃のひとつやふたつは
懐紙に包んでおいたほうがいいし、咄嗟の動きが景色を変えると思う。

「現代美術と対極の美意識には感情と感動があるが、現代美術には観念と論理があるだけではないだろうか。・・・芸術を知的に分析して認識するだけで理解しているとすれば、それは芸術の本来の機能としての魂の向上と救済には無関心の立場を取っているのではないかと思う。」(『ARTのパワースポット』横尾忠則)

と横尾忠則は91年に書いているが、いまはどちらかといえば、
感情の吐露と表現すれば安いが、
直感的で視覚的な芸術のほうが流行であるような気がする。

では果たしてそれで救われることになったかというとどうだろうか。
イヤ、横尾の言う救済とは作家自身においてのことを言うのかナ、
であればむしろ、観念による救済もあってほしいと願うものだが。

「世代が今少しずつ交代の時期に入ろうとしている。言語的世界は論理的肉体的であるが、視覚的世界は非論理的非合理的非肉体的である。極論すれば宇宙的である。人間は本来宇宙的存在である。したがって後者のあり方が正しいに決まっている。」(同)

宇宙的であるということを直覚するならいまはいい時代であると思う。
具象的なものを頼みにするのもバカらしいのであれば
全てを抱合し自らもそこに融解させ宇宙であると言い切ってしまう
すがすがしさは他にない。

「絵画が人間のための絵画から、絵画のための絵画に移ってから絵画の真の感情が失われて・・・われわれを知的満足感の檻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。
 感情や想像力に代って経済が魂を解放するとでも思って期待しているとすればこんな恐怖はない。経済の力が芸術の感情さえコントロールし、押し殺しているとすれば、われわれは芸術に一体何を求めればいいというのだ。」(同)

これは90年の文章である。
経済が感情をコントロールしていると危惧するほど
経済が強い時代だったのだろう。
80年代前半からこの頃の話は滅法おもしろいのだが
書き出すと長くなるからやめておく。
しかし、経済が芸術、いや、私たちの宇宙の無限を定めているという
気持ちは今でも崩れずにあり、
であるから相変わらず芸術のどうこうという話をするときに
そもそものスタートがビジネスとしてどうこうということになってしまう。
他に打ち手があるわけでもなく致し方なしとはいえ、
芸術に一体何を求めるのだという問いかけに逃げずに向き合わねばなるまい。

2009年10月25日日曜日

スワロウテイル

土日だけ、たまに料理をつくる。
あくまで自分で食べるだけのものだから、
たいした手間をかけるわけではないが、
よく言われるように買い物から調理、片付けまでを含む
食事の一連の支度と、またそれを味わうというシーンのなかで
脳は非常にプリミティブな領野において活動しており、
それが心地よくもあるのだった。



こちらは獅子唐と茄子の炒め煮でこれが実に旨い。
油揚が入っているがこれもまたよい選択だった。



手羽先はまあどうでもよくて脇にあるアボガドサラダ。
うーん、華がある。



これは豚の生姜焼き。写真がちょっとまずいが。
生姜焼きなんぞただ炒めるだけだが、
生姜を買うのは多分初めてだったし、
それをおろして、という行為に実は経験の中心がある。
そしてこういう単純なのは失敗しない。うまい。


何となく岩井俊二「スワロウテイル」を手にとった。
彼の映画が好きで、「リリィ・シュシュのすべて」は原作も読んでいる。
もう何年も前のことだ。
映画の詳細を憶えてはいないけれど、
映画「スワロウテイル」を想い出して浮かぶ感覚は、
さしてうまくもまずくもないないが自作の料理と
それを囲む仲間たちとがあって、そういうなかで
自覚的に強く保たれる幸福感である。

湯気のたちのぼるテントに向かい歩いてゆくと
身体の芯に伝わりくる温もりにつつまれて
それで自分の居場所であるということがわかる。
原作を読みながらまた彼の映画を観たいと思った。
Chara のことが印象的に思い出される。

2009年10月18日日曜日

無気力

久しぶりに本の紹介。

最近、現代の外国文学が気になる。
とはいえ寡聞にして何から読めばいいのかよくわからない。

マルグリット・デュラス「愛人(ラマン)」
ジャン=フィリップ・トゥーサン「浴室」

の二冊読む。

前者は1984年の作品だがデュラス1914年の生まれだから
それほど新しいというのでもない、トゥーサンはまだ存命である。

「愛人」は力強い筆致と幻想的な描写の印象的だが
内容についてはわかったようなわからぬような、ただ、
女心を書いているといえばわからなくて当然と逃げることもできるか。

引用して済ませる。

「男は自分の娘でも抱くようにして、この娘を抱く。自分の娘ならこれと同じようにして抱くだろう。自分の娘の身体と戯れる。(略)と、突然、娘は男にせがむ、何をとは言わない、すると男は、黙れ、と娘にどなる、もう欲しくないんだ、もうおまえを楽しみたくないんだ、とどなる、とたちまちふたりはまたもたがいにしがみつき、激しい不安のうちにふたりだけのなかに閉じこもる、そしてたちまち、この激しい不安はまたもほどけ、ふたりはまたもそれに屈服して、涙のなかへ、絶望のなかへ、幸福のなかへ落ちてゆく。」

後者は、多分に実験的な臭いのする短編だった。
なかなかよい。もう少し彼の作品を読んでみようと思う。

*

しっかり感想を書こうという気力がない。

2009年9月12日土曜日

複雑

「マグネット(山田詠美)」を読んでいる途中に
枕元に残したメモに僕はこう書いている。

* *

この小説はつまらないと感じる。
山田詠美の他の作品で感じた密やかな歓びというのがない。
しかしふと、男として未熟がゆえこの小説のおもしろさが
わからないのではないかと虚を突かれた思いになる。
男に自らの未熟さを感じさせることに
この小説の目的があったのだとすれば、
これを読み男が不快になることでまさにそれは達せられたのである。
そしてそんな女の意図を感じ取ったとき男はその女を愛おしいと思う。
この小説に書き表されているのはそのような複雑さだ。

* *

今日から新潟のトリエンナーレに行く。
一泊二日。
旅行らしい旅行は何年ぶりだろう?
半分仕事とはいいながら。

複雑怪奇なのは男女だけではないにしても、
全てどうでもよくなってやけっぱちな気持ちにさせるのは、
それが合法の範囲というと女と酒以外に思いつかない。

しかしいくらやけっぱちになっても、
中途半端な理性は回帰する。
酔いのさめて頭痛にうなされる朝がそうであるように、
女のいなくなった部屋に取り残されたときがそうであるように。
その複雑さに耐え切れなくなって、小説という形で吐き出す。

時間がないので端折るが、単純に言えば、
小説を書くのはそのような自己保存のための営為であって、
そうしないではいられないからそうする。
誰かが言っていたが、小説に書いてしまえば、
どのような不幸も、その作品の誕生する契機となったと思えば済む。
ドラマの筋書きをみるように、人生を一つのドラマとして
客観視できるというわけだ。
しかし、あるところで書くことが目的に摩り替わる。
そうすると、あえて不幸に挑むようになる。
作家の人生がそれほど幸せそうでないのは
おさえきれない死への願望にある。

本当に時間がない。
どのようなアートに出会えるか、楽しみにしている。

2009年9月6日日曜日

風が吹いた。投石が始まる

夏はすでに終わってしまったが、
その風物詩の一つとして怪談がある。

押井守「獣たちの夜」がホラーであるというのは、
これが角川ホラー文庫だからという以上の手がかりもないが、
映像化されたら、半ば以降の長たらしい歴史講釈は割愛され、
純然たる娯楽、分類するならばホラーになるのだとう思う。

しかしこの作品の面白さはその長たらしい歴史講釈にある。
いや、正確には、1969年安保闘争を舞台で語られる、
人類の歴史の、壮大なようで卑俗でしかない活動が、
"過激派"高校生が脇役に配されることでさらに戯画的になり、
人の生死の巡り合せが、いかに幸・不幸を演じたところで、
祟りや呪いといったホラー映画の超越的な生殺与奪と
同列にみえてしまうことの悲哀である。


誤解を恐れずに言えば、僕は成人してこの方、
選挙に行ったことがない。
日本国に何も期待していないし、頼るつもりもない。
ただ法律は守り税金は納めている。
それで決められた範囲での自由を得ている。

責任と自由が表裏であるように、権利と闘争も表裏である。

選挙は国民としての最大の権利であるとか、
この権利を得るために先人達がどれだけの苦労をしたかと言う人がいる。
偶さか仮の住まいを定めた土地に割り振られた選挙区の
自民党のA氏であるか、民主党のB氏であるかを選ぶのが、
権利と思えばそうであるし、それ以外の選択肢を奪われた疎外
であると思えばそうにもなる。
郵送されてきた整理券にしたがって選挙という手続きを完了して、
それで何かを為したと思うなら、ただ愚昧である。
しかし、闘争を意志すれば権利にもなる。

とまれ選挙もひとつの手段でしかない。
選挙という権利によって隠蔽された様々な疎外がある。
それで主題は闘争ということに移る。

「このまま終わらせるわけにはいかない ― いや、このまま終わるわけがないと零は密かな怨念と危機感を胸に高校に皆勤した。」

何がどうなって、"過激派"高校生の挫折が高校に皆勤する決意に変わるのか、
もはや喜劇でしかないが、多かれ少なかれ人はそんなふうに
折り合いをつけながら諦めながら築き上げながら生き延びるのかもしれない。

夏にホラーを観るのはストーリーに魅かれるからではなく、
単に暑さを紛らわせるからである。
だが政治を倦怠を晴らすために利用する悪趣味には辟易する。
それで僕が選挙にいかないことの理由をいささかも正当化するものではないが。

2009年8月31日月曜日

冷たい八月

八月末日は夏が既に壊死していたのを知らしめるがごとく、
冷たい風雨にさらされていた。
今年は特に夏らしいという空でもなく、
また季節を感じさせる催しにも私的に興じることはなかったので、
余計に夏の過ぎゆく流れのなかに私の時間はなかった。

さて、二冊だけ本の紹介をしておこうと思う。
「ボロボロになった人へ」リリー・フランキー
「九つの物語」J・D・サリンジャー

短編集には長編小説にはない趣がある。
むろん両者に明確な境界はないし、
一方で価値が長さに左右されるわけもないのが、
単にどちらもよいといっているのではなく
両者には性質に違いがあると思う。
その違いは爽やかである。

例えていうなら、緑と黄のちがいであり、
夏と秋のちがいであり、
巨乳と美乳のちがいである。とは何のことだ。

それぞれから気に入りの短編を選び、
その一部を引用しよう。

「それは突然だ。/ 唐突に、瞬間的に、すべてがどうでもよくなる時がある。/ それが、今の俺だ。/ 仕事、周囲の環境、人間関係、恋愛、家族、親、大切に思っていたこと、少しずつ築きあげてきたもの、誇り、しがらみ、慈しみ、喜び、悲しみ・・・。」(『おさびし島』ボロボロになった人へ)

「エズメよ、彼は本当に眠たくなったのだよ。本当に眠たくなって眠れば、彼はそのうちに精神と体のありとあらゆる能力が無事な人間に戻ることができるのだよ。」
(『エズメのために』九つの物語)

前者は書き出しの一文であり、後者は結びの一文である。

唐突にはじまり断ち切れるように終わる。
満たされない感情は残る。言葉厚くして語り続ければ、
それが堂々巡りに思えるほど書き続ければ、
やがて主張の輪郭は奥行きをもった立体物へと変わることがある。

しかし、私たちの毎日の思考は、
ふとしたきっかけで頭の中をめぐり、知らぬうちに忘れている、
というようなものだ。

何ヶ月も悩んだ思考の蓄積のなかから選択することはなくて、
直感的に、感覚的に、曖昧に生きている。
それでも何十年かの経験から帰納的に処理しているのだとも言えて、
それが非論理だというつもりも無論ない。

ただ季節が同じように巡りそして去り行くのが
時々侘しく感じられるように、
分断された自らの刹那的な思惟が、
とはいえ日常の私自身の顔つきのままで
風に吹かれ転がるのを切なく思うことがある。
それで短編でも書こうかという気にもなる。

2009年7月25日土曜日

ケントス!



昨日は新宿ケントスで、70's ミュージック・フィーバー。
八時に焼き鳥屋で軽く腹ごしらえをして
九時から、飲んで踊ってを4サイクル。最高に楽しい。
気がついたら一時を過ぎていた。
総勢5人いたが、2、3人でウォッカ一本飲み干した。
足りなくなって追加で酒を頼み、
ラストステージが終わったら歌舞伎町でさらに
テキーラトニックを二杯。
さすがに最後は寝ちゃいそうになってふらふら帰宅。

みんなありがとう。
軽い二日酔いだが全然問題なし!

今週、ブコウスキー「詩人と女たち」を読んでいたので、
飲まいでやってられるか、という感じだった。
そして飲み倒した。

Kさんと昨日話をしていて、
経済的にpoorじゃないと、芸術なんてできないじゃないか、
余裕が生まれると魂が入らなくなる、
表現とは自分を失い続けることだ、
失うのが怖くなると表現は曇る。
などと思う。

ブコウスキーは酒を飲み女を抱く毎日を送る
孤独な詩人(彼自身がモデルだ)に最大な敬意を払っている。
失い続け、求め続ける。

「わたしはバスルームに行って自分の顔を見つめた。ひどい面相だった。顎鬚や耳のあたりの髪の毛に混じった白髪を鋏で刈り込んだ。やあ、死よ。といっても、わたしはすでに六十年近くをものにしている。このわたしを鮮やかに仕留めるチャンスは何度も与えてきたはずで、とっくの昔におまえの掌中に落ちていても何の不思議もない。わたしは競馬場のそばに埋葬されたかった・・・そこでなら最後の直線コースでの追い込みの音を聞くことができる。」

僕には失うものなんてほんのわずかしかない。
ちょっとした見栄とへたれな傲慢さしかない。
ブコウスキー、あんたくそったれ最高だぜ。

2009年7月20日月曜日

クラクション

気付いたら今週は週5で飲み会だ。
いくらなんでもやりすぎだ。
半分は仕事だが。

ということで昨日はおとなしく家で料理した。
毎回同じようなものばかりだと上達しないなあ、
と思いながらうまいのよね。
セロリ、じゃが芋、玉ねぎ、ピーマン、
昨日安かった国産牛肉をホールトマトで煮る。

飯

冷めてもうまい。だらだら食いながら缶ビール三本と
ズブロッカを水で割って二杯飲む。

今日は昨日の残りのセロリとピーマンと玉ねぎとホールトマトに
オクラを加えてカレーをつくる。
クックパッド(マザーズに上場したね。)見てたら
豆板醤入れるって書いてあって真似してみたらうまかった。
辛味にコクがでてビールに良く合う。

晩飯

金原ひとみ「アッシュベイビー」あっと言う間に読む。
良い、というのが倫理的に憚られるグロテスクがある。
絶対映画化できないな、これ。
彼女の文章、好きだ。
淀みなく出てくる言葉は刺々しかったり弱々しかったり、
ヒステリックに凄んでみせたり、ほろりと泣いたりする。
猫の目のようにくるくると変転していくさまは
女の子らしいと思う。
でも女性は彼女の作品をどう読むのだろう。
意外と男趣味なのかもしれない。

主題については共感するところが多いが、
勢いで書いたんだろうな、と思う。
そのスピード感がいいとも思うし、
読後にはちょっと物足りなさも残る。
でも五年前の作品なのだからすごい。
21歳なら勢いに任せるしかないだろう。

2009年7月19日日曜日

熱夜

ちっとも書けない。
前書きばかりが長くて本論は間伐されない荒地の
痩せっぽちの杉のようだ。
物語はクライマックスを迎えないまま息絶えている。
屍が累々とあり、腐臭もないミイラのごとく
ただ風景の一部として横たわっている。

他人の書いた文章を延々と読み、酒を飲み煙草を吸って
朦朧とした意識のなかに無理やりに自分を押し込んで
寝入る意識もなく眠る。
これまでずっとそうだったし、これからもそうなのだろうかと思う。

いまなぜか友人のあいだで宮台が読まれていて
酷評されている。
彼らの批判はおそらく正しいのだろう。
(こういう言い方は嫌味に聞こえるかもしれないが。)

彼のような教養主義的で貴族主義的なインテリが
僕は嫌いではない。
「ネット社会の未来像」を読んでいると、
それが五年程前の議論だから余計にそうなのだろうが、
戦中に「近代の超克」について議論していたような
無力さと、それゆえの高邁を感じてしまう。

趣味の問題といってしまえばそれまでだが、
書くことの困難が常態化してしまった者からすれば、
非常な嫉妬をおぼえる。

何だろう。もう何もない。

2009年7月18日土曜日

表現における衝動と公共性

今日、田口ランディが「アール・ブリュット」について
話すというので、軽い二日酔いのなか
大崎にあるO美術館に出かけた。
最近飲みだすと止まらない。
回数はそれほど多くないが一回が重い。
昨夜もがぶがぶと行儀悪しく飲んでいたが、
一緒に飲んでいたなかの素敵な大人の女性が
「そういうの好きよ。」というので素直に興じた。
その後はひどかったが・・・長時間飲んでいてよいことはない。

田口ランディについては以前紹介した「コンセント」と「アンテナ」の
二作を読んだだけで、あとはブログをみている。
話の内容は当然のことながら、
ブログで書かれていることと重なる部分が多く、
僕の想像していた通りのテンションの高い明け透けなおばちゃんが
愉快そうに話しているのを見るという楽しみ以上のものは少なかったが。
ただ過去について、特に作家になったきっかけについての話は
興味深かった。彼女がアール・ブリュットに関わるのも、
それが美術としてどうというより、創作する衝動に向けられていて、
それは作家である限り常にそうだと思うし、そういう意味で、
アール・ブリュットという世界は創作の衝動を端的に体現できる。

創作が衝動の吐露だということはわかる。無目的的に自分自身の暗闇をまさぐって引っ張り出すことによって、自らの生命が白日の下にさらされ、それが生きることのリアリティにつながる。わかりきった感情や合目的的な論理などまったく書くに値しない。ただ、表現のレベルに落とし込み、作品として他者の視線に触れることによって、作品は作品として自立する。批判も共感も取り込みながら作品は社会化されていく。作家は自身の未知を表現すること、それ自体によって少なからず社会化せざるを得ないというアンチノミーを常に宿している。
作家の、あるいは作品の公共性、意味、目的、なんと呼んでもいいが、創作する無意識的衝動とは別に、創作することを通じての目的を考えることは出来ないか?

こんな長ったらしくはないが、上記のようなことを僕は質問した。
(どうやって 笑)
アンテナで書かれていたように「目的と手段は違う」のだ。

彼女の回答はいたってシンプルで、
「意味なんてないよ。生きていること自体に意味がないだから。」
というようなものだった。
でもどうせ生きるなら楽しく豊かに生きたい、と。

生きることに意味がないことなんて言われなくたって
わかっている。その次を誰かに語ってほしかったのだ。
笑ってごまかすには、生きることはあまりにも深刻過ぎる。

さて今日もこれから飲みに行く・・・。

2009年6月15日月曜日

「僕らの世代」の原理的考察

昨日携帯電話を落水させたのは、江ノ島の磯だった。
干潮の時にはよい釣り場になるでこぼこした岩場を
走っているときにポケットからこぼれ、
窪みに残る海水の溜まりに落ちた。

すぐに取り出したが電源はつかなかった。
初めに思ったのは、失くすべき過去もあるということだった。

先日誕生日を迎えたとき、僕は過去について書いた。
この文章の論理は読み返してみてよくわかならないが、
「見る」という行為を自意識さらには自尊心にひきつけ、
その根拠を過去の記憶に求めるというものだった。
これの念頭には、三島由紀夫の「豊饒の海」最終巻『天人五衰』があった。

三島由紀夫について書こうとするのはかなり荷が重いが・・。
少し長いが引用する。
--
老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。(中略)あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてきたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。(中略)
『いや、俺には、時を止めるのに、「この時を措いては」というほどのときはなかった。(中略)自分には青春の絶頂というべきものがなかったから、止めるべき時がなかった。(中略)絶頂を見極める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。(中略)
 強靭な意志が宿命を阻んで来たからだ、と言うのは易しい。本当にそうだったろうか。意志とは、宿命の残り滓ではないだろうか。自由意志と決定論のあいだには、印度のカーストのような、生まれついた貴賤の別があるのではなかろうか。もちろん賤しいのは意志のほうだ。・・・』
--

宿命が記憶から来るというのは、実際的な体験としての過去だけでなく、民族や国家、宗教、血縁、土地、歴史といった超越的過去も含んでのことである。それで自意識という言葉がわかりよいという気もする。
本多や透の目は、意志の目である。それは篠山も同様である。
篠山に自尊心を感じるのは僕の誤解だった。
確かに篠山の目は、写真の目は過去を見ている。
それがアイドルであればなおさらだ。
しかしそれは自らの宿命のなさへの嘆きであり、いうなればカーストの低いものが、カーストの高いものへ示す盲目的な畏敬といってもよくて、それで視界はなおのこと晴れた。
篠山が見る過去には、篠山自身が不在だ。
篠山はあくまで客体として「所有」することに楽しみがあるのである。

(これの前のブログだが)第三巻「暁の寺」の読後に一年前の僕はこう記している。
『青春が永遠の時にあるのとは反対に、老いは流れる時の中にある。青春の余りに短命な、花火の燃えるような時間は、それが瞬間的な燃焼の中にあるからこそ、逆説的に、その当事者は神秘的な永久不変の世界へと溶け込み、自らが世界であるという実感をその胸の中に抱くことができる。一方、老いとは、刻々と過ぎ行く時の流れに乗って彷徨う、刹那的な儚さの中に再起し続ける。』

この文章に全て書きつくされているように思うのは、
僕の成長のなさの堂々巡りを示しているとでも言うだろうか。
兎も角、『記憶の喪失は自尊心の喪失と同義だった。』という結論には変わりがない。
そして、その記憶喪失が自らの手によって戦略的に遂行されたのであるということも。

僕たちは過去の記憶を敢えて失くすことで、
宿命から逃れ、現在という永遠のなかへ溶け込もうと企図した。
自尊心という問題を棚上げして・・。
僕たちの世代の"モラトリアム"の字義的な端境期を越えて、合目的的に操作されたかにすらみえる「自分探し」の意味はここにある。

・・・

釣りの記録は友力本願に任せておく。非常に楽しかった。いい企画だったなあ。
(写真をみると4:3のちょっとした合コン企画にもみえるが、3カップル+僕である・・嘆かわしや!)

携帯電話のメモリはまだ復旧の目処はないが
ドコモショップが言うには五分五分ということだった。
前に使っていた携帯からメモリを拾い出せるということを聞いて、
五年くらい前に使っていた携帯(一つ前の携帯は全くダメになって捨てた)
を取り出してみたが、そこにあるのは消えてもいいと願った過去ばかりだった。
結局今からでも再構築できる現在進行形のメモリはあるにせよ、
取り戻すべき過去は消し去りたい過去だけなのかもしれない。
あるいは過去とは消し去るべきものであるというほうが適切だろうか・・。

# また今日も長いな・・