昨日携帯電話を落水させたのは、江ノ島の磯だった。
干潮の時にはよい釣り場になるでこぼこした岩場を
走っているときにポケットからこぼれ、
窪みに残る海水の溜まりに落ちた。
すぐに取り出したが電源はつかなかった。
初めに思ったのは、失くすべき過去もあるということだった。
先日誕生日を迎えたとき、僕は過去について書いた。
この文章の論理は読み返してみてよくわかならないが、
「見る」という行為を自意識さらには自尊心にひきつけ、
その根拠を過去の記憶に求めるというものだった。
これの念頭には、三島由紀夫の「豊饒の海」最終巻『天人五衰』があった。
三島由紀夫について書こうとするのはかなり荷が重いが・・。
少し長いが引用する。
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老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。(中略)あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてきたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。(中略)
『いや、俺には、時を止めるのに、「この時を措いては」というほどのときはなかった。(中略)自分には青春の絶頂というべきものがなかったから、止めるべき時がなかった。(中略)絶頂を見極める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。(中略)
強靭な意志が宿命を阻んで来たからだ、と言うのは易しい。本当にそうだったろうか。意志とは、宿命の残り滓ではないだろうか。自由意志と決定論のあいだには、印度のカーストのような、生まれついた貴賤の別があるのではなかろうか。もちろん賤しいのは意志のほうだ。・・・』
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宿命が記憶から来るというのは、実際的な体験としての過去だけでなく、民族や国家、宗教、血縁、土地、歴史といった超越的過去も含んでのことである。それで自意識という言葉がわかりよいという気もする。
本多や透の目は、意志の目である。それは篠山も同様である。
篠山に自尊心を感じるのは僕の誤解だった。
確かに篠山の目は、写真の目は過去を見ている。
それがアイドルであればなおさらだ。
しかしそれは自らの宿命のなさへの嘆きであり、いうなればカーストの低いものが、カーストの高いものへ示す盲目的な畏敬といってもよくて、それで視界はなおのこと晴れた。
篠山が見る過去には、篠山自身が不在だ。
篠山はあくまで客体として「所有」することに楽しみがあるのである。
(これの前のブログだが)第三巻「暁の寺」の読後に一年前の僕はこう記している。
『青春が永遠の時にあるのとは反対に、老いは流れる時の中にある。青春の余りに短命な、花火の燃えるような時間は、それが瞬間的な燃焼の中にあるからこそ、逆説的に、その当事者は神秘的な永久不変の世界へと溶け込み、自らが世界であるという実感をその胸の中に抱くことができる。一方、老いとは、刻々と過ぎ行く時の流れに乗って彷徨う、刹那的な儚さの中に再起し続ける。』
この文章に全て書きつくされているように思うのは、
僕の成長のなさの堂々巡りを示しているとでも言うだろうか。
兎も角、『記憶の喪失は自尊心の喪失と同義だった。』という結論には変わりがない。
そして、その記憶喪失が自らの手によって戦略的に遂行されたのであるということも。
僕たちは過去の記憶を敢えて失くすことで、
宿命から逃れ、現在という永遠のなかへ溶け込もうと企図した。
自尊心という問題を棚上げして・・。
僕たちの世代の"モラトリアム"の字義的な端境期を越えて、合目的的に操作されたかにすらみえる「自分探し」の意味はここにある。
・・・
釣りの記録は友力本願に任せておく。非常に楽しかった。いい企画だったなあ。
(写真をみると4:3のちょっとした合コン企画にもみえるが、3カップル+僕である・・嘆かわしや!)
携帯電話のメモリはまだ復旧の目処はないが
ドコモショップが言うには五分五分ということだった。
前に使っていた携帯からメモリを拾い出せるということを聞いて、
五年くらい前に使っていた携帯(一つ前の携帯は全くダメになって捨てた)
を取り出してみたが、そこにあるのは消えてもいいと願った過去ばかりだった。
結局今からでも再構築できる現在進行形のメモリはあるにせよ、
取り戻すべき過去は消し去りたい過去だけなのかもしれない。
あるいは過去とは消し去るべきものであるというほうが適切だろうか・・。
# また今日も長いな・・
2009年6月15日月曜日
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