スカイ・クロラを観る。
評価は二分というのが通説(というのも変な話だが)のようだが、
これを単に「終わりなき日常」(宮台)と捉えると、
それがそうだと思えば嘆息の賛同へと至り、
とはいえと求めることに急なら空虚を掴むことになる。
若者を描いて「終わりなき日常」が舞台となるのは
前提として受け止めたほうがよくて、そう思って観ると、
細かな仕掛けが良くできていて完成度は高いと思う。
たとえその一つ一つが、既に使い古されたものだとしてもだ。
そういう意味では、「終わりなき日常」は単に実際に生きるこの時間に
だけあるのではなくて、創造される作品の中にもあって、
何を書いても同じように見えてしまうという困難を拭いきれない。
なるほど作家の微力と切って捨てることはできるだろうが、
同様に自らの人生の凡庸を受容せざるを得ないことを思えば
それもいささか酷であるように思う。
スカイ・クロラについては色々言いたいこともあるが、
(いくら書籍を紹介しても誰も読んでくれないし!)
これは実際に見ていただいて、僕の記憶が鮮明なうちに
酒でも飲みながらあれやこれや感想を語り合いたいものだ。
この場では、中森明夫の「アイドルにっぽん」と合わせて
読むことでみえる応用編?についてメモしておきたい。
スカイ・クロラとアイドル論を同じ遡上で述べるのは、
無難すぎるほどであって、キルドレ(大人になれない子供たち)が、
大人たちの仕組んだゲームの中で刹那的に生きもし、
またティーチャー(本編では、Father と英語名で呼ばれるが)によって
にべもなく殺される様、そして死してなお・・・と余り言い過ぎると
結局内容に触れてしまいそうになる。
アイドル論に戻ろう。
中森は言う。(日本国憲法をもじっている。)
「価値なきものとして、偶像を生きること。それが『象徴』の宿命だった。自らに課せられたアンビバレントなその"宿命"を、いっそ今、"理想"として生き直すこと。積極的に選び取ること。それこそ、あるべき私たちの将来像 ― リアルな未来のヴィジョンではないか。」
アイドル論を語るときの困難は、「価値なきものとして、偶像を生きる」のが、
自分ではない、生身の人間でなくてはならないことであるにも関わらず、
積極的に選び取っているのは自分自身であるという位相のズレ、それを取り繕うように
多弁になる自分自身の欺瞞ではなかったか。
『象徴』は常に価値を持たず、その無価値に価値を見出す自分。
アイドルの刹那性、あるいは、自殺あるいは夭折した少女たちの神話、
常に永遠なる少女であることを強いる暴力として存在している。
キルドレが記憶を持ち得なかったのも、彼らが主体的に語り始めることを
恐れたからに他ならない。そうでなくてはキルドレは、平和の象徴たり得なかったろう。
しかし、今さら70年代、80年代について語るのはなぜだろうか。
このような話はインターネット以後のいわゆるオタク文化の内実を見渡せば、
容易に解するという以上の進化を見ることができるはずではないだろうか。
だが表面的な論駁は言いとしても内実にはほとんど進歩がないというのも
また真実なのだろうと思う。
中森がアイドルを語るのも、東浩紀がオタクを語るのも結局は同じことだ。
ぐるぐると彷徨いながら、また懐かしい死の顔がそこに浮かぶ。
旧知のなかとなってしまった、腐れ縁の死よ---
死の幻惑、死の夢見、死の超越、死の希望。
死から始まる物語がある。それが僕たちの生だ。
時を遡るようにして生きる僕たち。
ああ、そうだったのだ。僕はようやくスタート地点に立つ。
無価値を生きることにした僕たち。
それは死から始まる逆廻しのラブストーリーだ。
2009年6月4日木曜日
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2 件のコメント:
スカイクロラについて酒を飲みながら語り合うなら
自分でよければいつでもOKですが。。
先日NINTENDO WII のゲームソフト版の「スカイクロラ」も買ってしまいましたが。。
今週の土日あたり、うちにやりにきてもいいよ。
ゲームなんかあるんだね 笑
ま、当然か。
へーい。では土曜日に行こうかな。
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