ラベル 美術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 美術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年9月15日水曜日

演劇について

会社のブログに書きなぐるのは憚られる、生煮えの文章の行き先がなくて、記録用にこのブログを使っている。アート関連のことはまだ勉強中という気持ちが強くて公に発表するのは気が引けるのだ。気取らずに思いのまま書けばいいのだという気もするが。
ひとつ扇情的な文章もあって、それもこちらにまずは掲載しておこうかと思っている。

ひとまず今日は、演劇をやっている方に宛てた私信を転載する。
演劇という表現の可能性についてだ。

 * * *

私は小説が好きでよく読むのですが、松尾スズキ、宮沢章夫、本谷有希子、岡田利規といった劇作家出身の書き手から、面白く新鮮な表現が生まれてきたことっ気づき、最初に演劇という表現に興味を持ちました。(その後も劇団の方の小説を選んで読んでいますが、実際に劇場に行ったのは二度ほどです・・)

何故だろう、と考えた時。
小説は出版を前提とするので、無名であろうが、数万部を売れないと成り立ちません。ライトノベルや携帯小説的な表現が流行るのは、ひとつには万人に理解され共感される「わかりやすさ」が重視されるからです。(もちろんライトノベルが全部ダメだとか、良い小説家が全くいないというわけではないですが)
演劇出身の方の小説のおもしろさは、大げさな設定、非現実的なドラマ抜きに現代の日常生活を舞台に、高度に抽象的な表現を達成している点です。
それはおそらく、映画やアニメのように全くの仮想世界を作り出すことのできない劇場という限られた空間において、生身の人間が演じねばならぬという制約からくるのではないかと。
小説はたいてい数日かけて読まれます。電車に乗っている間の暇つぶしとか、寝る前のちょっとした息抜きに。であれば、展開はわかりやすいほうがいいし、紋切り型のストーリーで、容易なカタルシスを得ることのほうが余程娯楽的なのです。
一方で演劇は、数時間の間に集中してみれます。多少の急展開はあったほうがよいし、展開が見えやすいと逆に飽きてしまいます。演劇の作家さんの文章では、要所要所でコミカルな会話表現や描写が挿入されますが、あれもリアルタイムで観客に接する人たちの洗練された表現であるように感じます。
そして、劇場には多くて、数百人、少ないと数十人という若い人たちが訪れることが多いのではないでしょうか。属性の絞られた人たちに向けて発信できるので
抽象度高く、現代性の表現が成立するのではないかなと。

絵画と比べると、絵画作品として展示されているものは、すべて「過去につくられたもの」です。そして作家を抜きにして独り歩きしてしまいます。
その弱点を補うためにLittlefan.net では、観客が、アーティストの活動にリアルタイムに接し、活動の応援を通じて表現にコミットできるようにしたいと思っています。
役者抜きの演劇は考えられないし、観客はチケットを必ず購入してみにきます。そこには常に表現者への投資が含まれています。

とはいえ、演劇も演劇で大変なのだとは思いますが・・・。

 * * *

まあ、これもわかりやすい仮説のひとつでしかないが。

アートはデュシャンの便器で、音楽はジョン・ケージが作曲した無音の4分33秒で、表現が一回転した、と言われる。(ウィキペディアによると、ジョン・ケージは、ラウシェンバーグの白い絵に影響をうけたみたいですが。)

・・・書き続ける時間がないので、このあたりにしておく。

現代性は(いつの時代も)大きなテーマなのだ。

2009年12月13日日曜日

I am

新宿 BEAMS のギャラリーで開催中の「岡田敦 写真展」に行く。

本展の美しさもさることながら、2007年に出版されている
写真集「I am」を前に僕はまったく立ちすくんでしまい、
そして次に巨大な感情の波に襲われた。

僕は家に帰ってもう一度写真集のページをめくり
ゆっくりと眺めた。そして恐怖を振り払うように
込み上げる感情を言葉に変え、整理し、受け止めた。

そして言葉にできずに残ったいくつかの者たちが
僕に声ならぬ声を浴びせ、浮遊する身体で圧した。
何もかもがひとつになった。




# 普段使いのブログに貼り付けるには過激すぎるかな。。
# 別に、エロとは全く無縁だし、反道徳でもないです
# まあ見ればわかりますが・・・

2009年11月23日月曜日

Day One

今日晴天の馬車道にて、
絵描きの吉窪さんを囲んでの食事会を開催しました。

吉窪さんとはもう二年近くの付き合いになるだろうか。
昨年、はじめて彼女の個展を渋谷でみて
僕はもっと彼女の絵に歩み寄りたいと思った。
そうすることで僕の人生はもっと楽しくなるだろうと予感した。
絵画を身近なものとするための仕組みを
社会的なインフラとして提供したいと考えるに至ったのは
思えば、そのときの体験が元になっているのだった。

その後の一年で、僕自身かなり彼女の作品に対し近づけたと思う。
近づくというのは“理解した”などといったオコガマシイことではなく、
作品に向かい合うことを僕なりに楽しむことができるようになった、
というような、あくまで個人的な体験としてのことである。
絵画に関する知識が増えたのではなく、
その後、吉窪さんと何度か飲んだり話したりするなかで、
人間関係が形成されていくのと同じように少しずつ積みあがっていった何か。

作家と会って話すことができたら、
絵をもっと楽しめるんじゃないか。

簡単に言えば、そういうわかりやすい話なのかな。

みんなにもそんな体験をしてほしいと思っていたところ、
ちょうど今週、吉窪さんが個展を開催するという。
彼女の個展をはじめて観にきた人たちにも、
十二分に彼女の絵を楽しんでもらいたいと思い
彼女を囲んでの食事会を企画した、という経緯である。

10人くらいお集まりいただいた。
久しぶりにお会いする人もいて嬉しい。
個展会場で絵をしばし眺めてもらってから近くのカフェに行って食事。
何を話したかはみんなそれぞれ感じたところによるような気がする。

で、二時間後、個展会場に戻りまた作品の前に立ってみる。
「自分が感じたまま受け取ればいいんだと聞いて安心しました」
「作家さんと話せる場があってよかった」
というような声を複数の方からいただけて嬉しい。
吉窪さん自身も楽しんでくれたんじゃないかと思う。
(おそまつな進行は反省したほうがいいよ・・ > 自分)

こういう機会をもっともっとつくっていきたい。
会って話すのはいい、でもそれだけじゃなくて、
個展をみるのはいい、でもそれだけじゃなくて、
絵画はいい、でもそれだけじゃなくて。

スタートラインを超えて一歩目を小さく踏み出した、
二歩目をすばやく続けて三歩目は力強く。

ご期待ください。

本日ご参加の皆様へ
取り急ぎ、御礼まで。

2009年11月15日日曜日

存在について

おととい飲んでいながら右往左往する話題は
ふとシェイクスピアに及んだ。
たしか演劇について話ながら、その舞台の効用、
たとえばストーリーの展開に小説とはまったくちがった
方法論を持ち込むことができるのは何故かということについて、
戯曲を読みながら想像することの有意義があるにしても
いいや、生身の人間がそこに演じている存在感には
到底想像を超えるものがある。といようなことだ。

不思議なのは、演劇の存在感と言ったところで、
あくまでそれは舞台の上で演じられる遊戯に過ぎないということだ。
非現実の存在といえば、その困難がわかるだろうか。

映画は一個の仮想世界を作り上げる。
その仮想的な世界のなかでそれは完成されており確かに存在している。
World Trade Center がまさに崩壊しようとするときに
映画の一場面かと錯覚する理由はまさにそこにある。

中世の王子・王女の登場だから違和感があるのではなく
シェイクスピアの時代でも道具の精度からして
視覚的効果を期待してなかったろう。
能や狂言となるとさらに無知だがあれをみて現実的な存在感を
みる者が果たしているだろうか。

昨日ひさしぶりにオセローやリア王を読み返しながら、
それはあくまで記録写真を眺めているかのように感じられ、
こう結論すれば通俗的に過ぎるとは思いながら、
演劇のもつ非現実としての存在感は、四肢、発声、表情によって
成り立つ世界が持つ、生命力なのだという以外になかった。

あまり演劇について語ると襤褸がでるので話の向きを逸らす。

平野啓一郎の文章にこのような一節がある。

「彼は、先ほど父の死について思いを巡らせたのと丁度反対に、誕生と云うのは、あの一頭の魁然たる雌牛が、この世界に針の穴にも満たない小さな一点を得る事なのだと考えた。そしてそれは、緩やかな時の流れの中で、着実に内から外界を押し退け、その存在の場所を膨らませる。今、その外圧に耐える張力とは、駆け巡る鮮血に一瞬毎に潤う持続である。それは、再び跡形もなく口を閉ざすであろう世界が、束の間所を譲った、生と云う、脆弱ではあるが、容易に侵し難い現象である。」

まるで僕が書きそうな文章だが、悔しいかな僕には
できぬ巧みさがありちょっと舌打ちをする。

ちなみにこれは結びの、
「歩きながら、彼は初めて自分の激しい動悸に気がついた。そして、それを抑え兼ねる事に憮然としながらも、右手にちらつく夕映えの海に、時折見るともなく視線を投げかけていた。」
という一文につながる。(物語のなかでこの海は自死を示している。)

劇中、死を演じようが生を演じようがそこに存在があるのは
生身の他人がそこで科白を吐くからである。

最近、なんだろうとよく見ている絵画は演劇に似て
そこに他人の生命が息づいているのだと言えるだろうか。
私的な空間のなかに食い入る一点として。

他人の鼓動を聞き息づかいに触れることで
それに応じる自らの生命が自覚される。
教養としてではなく、生活として芸術があるというのは
そのようなことを謂うのではないだろうか。

2009年11月12日木曜日

夜の音が鳴りつづく

この深夜は屋根に跳ねた雨滴の音、樋を伝い流れる音の残存が
街を冷ます静けさとなり響いている。

人間はどこまでいっても天候に左右されて
あれだこれだと物思いにふけるのだと思う。

書くことによってしか僕は何かを為しえない。
どのような場で何を書くかは、まずもって基準ではなく
ただ書くということによってのみ為される何かがある、
という前提だけが横たわっている。
その何かを言い表すのは酷く困難に思える。

誤解を恐れずにいえば、描くことに対する僕の興味は、
そのような僕の、書くということに対する執着にのみ依る。
事業として成るどうかは極めて局所的な議論でしかなくて、
そもそも書く・描くことが僕たちが生きるにおいて
無視できなくなってきているということから出立する。

他人は僕のこの書くことへの執着について疑義を呈するに違いなく、
僕はいくらかの弁明を試みなければならないだろうと思う。
と同時にそれを億劫に思うことについて
僕の逃避なのか怠惰なのかと、これまで何度も自問してきたし
あるいはこの場所でも呆れるほど書いたのではないかと思う。
書くことについて書く、という迂遠な。生煮えの。
そうして一歩一歩確かめないではいない僕の臆病なのだ、
ということまでは知った。

「たくさんの人が、たぶん本当はもっと自然に分かり合いたい、
 話したいと感じていると思う。 」
とある人が言っていてこんなふうに素直に表現されることに
驚きや戸惑いを感じたのは何故だろうか。
分かり合うとは何だろう。
なぜ分かり合おうとするのだろう。
小説も絵画もそんな疑問に応えようとする努力の一つの形だ。

言葉が先に先に複雑にいりくんでいきよくわからなくなる。
すかっと晴れることを願いながら、明日の曇り空を見上げた。

2009年11月8日日曜日

あたたかい友を迎えて

今日、自宅に一幅の絵画が届いた。
絵のある生活を体験してもらおうという粋な計らいなのだった。

壁に掛けようというその瞬間の興奮は
買ってきた服を取り出して鏡の前で合わせてみるときのものと
同じで、そのポジティブな高揚は癖になる。
美術館のなかで眺める絵と生活のなかにある絵との歴然とした違いは、
美術館の中にいて異質なのは私であるが、
生活のなかにおいて異質なのは絵のほうである。
それで自然と絵に視線が留まりなんだろうと思う。
ああ、なんだこんなにあったかいヤツだったんだ、と気付く。
異質な私は環境から私を守ろうとするけれど、
生活の中にある私は豊かさのなかで異質を迎え入れることができる。
僕はいま意外とあったかいヤツだった無口なこいつを
眺め、夕食に何が食いたいんだと問うてみたりする。


「本のページに火がつき、燃え上がる温度・・・。」
という、いかした副題を従えた「華氏四五一度」。
名作中の名作といって過言でない、すばらしい作品であった。
そこは本を焼いて回る焚書官が活躍する世界で、
書籍を所有するインテリたちは排撃され屋根裏に隠された書物は
家ごと焼き払われる。内省はいらない、記憶はいらない、思い悩むことは何もない。
その代わりに人々は、一日中テレビと会話し意味もなく笑うのだが。

焚書官の仕事について所長のビーティはこう語る。

「おれたちの文明社会が、これだけ巨大なものに発達したために、かえって少数派を蠢動さすわけにいかなくなったのだ。きみ自身、その胸にきいてみるがいい。おれたちが欲しているものはなにかとな。幸福にくらすということだけだろう。・・・
・・・平穏無事が幸福の要領だよ、モンターグ。平和こそ人生なんだ、モンターグ。内心との戦いはぜったい禁物。争いごとは、外へむけろ。できれば、焼却炉へ投げこむことだ。・・・みんな忘れ去ってしまうこと。なにもかも焼いてしまうこと。あらゆるものを焼くことだ。火はあかるく、きれいにかがやいているんだぜ。」

芸術は娯楽である。芸術は生活必需品ではない。
可処分所得の多い富裕層が嗜好する贅沢品である。

先日も書いたがそういう言葉で逃げないことだ。
現実にある矮小な私という存在から目を逸らさないことだ。
諦めず語り続けることだ。――― 人によって様々なその方法で。

生活する私たちを勇気付けるプロジェクトがはじまる。
空間に鋭く切り込んでゆく絵画はその俊足で多くの人を魅了するだろう。