小説を読んでいると、あるいはその批評となった途端、
時流のなかでの位置づけ、時代の気分が表徴されているかのような
言い回しに向かうことがある。
例えば「この作品は80年代の・・・バブル崩壊後の・・・9.11以後の・・・」
といった具合にだ。
あるいは「○○は××の問題意識をさらに押し広げ・・」といったように
間接的にだが時系列に並べることで、小説世界の発展を見通したりする。
何度か言及したと思うがおそらく大江健三郎の文章で
どこでいつ読んだのかしらないか印象的な話がある。
科学技術は蓄積のなかで進歩していく。
しかし小説はちがう。ドストエフスキーが今の自分に最も必要であったり
ウィトゲンシュタインに影響を受けて90年代らしい作品が生まれたりする。
雑然と並べられた本棚をイメージするとわかりやすい。
書物の知恵は時系列に関係なく同時多発的に「生まれ」るのだ。
あとから時系列に整理して傾向が浮かんで見えるのは
人は環境に大いに影響を受けるという当然のことを
ただ示しているにすぎず、実は退屈な議論なのである。
だからこそ、張りぼての神様と物語のない日常しかない現代において
共時的、実践的、対話的に現前し意味世界をつくる芸術的なるものが
いまあらためて必要とされるのだろうと思う。
思いのほか前置きが長くなった。
G.ガルシア=マルケスである。
『百年の孤独』はいつかの楽しみにとってあって今回は、
短編集『エレンディラ』を読む。
彼の作品には時間が流れていない。
それを、南アの時間の全く外にいる僕自身の問題でもあるとか
この作品が童話的であるということからして、
時間が流れていないように感じるのだと明確に結論付けたって構わない。
しかし、激しい雨の降る蒸し暑い路傍に横たわる老いた天使、
バラの香りを放つ海の底で日曜日の朝十一時に水没した村、
エレンディラが勤める砂漠の真ん中にあるテントに長く伸びる男たちの列、
そういうひとつひとつの情景が絵画のように鮮やかに描かれていて
その時は永遠である。
永遠を描くことが文学にとって唯一とも最上とも思わないが
この手の作品に親しむことができればもっと豊かに安らかに
人生をとらえることができようにと思っている。
文学あるいは芸術の価値について今更、再構築しようというつもりもないが
その魅力に心酔し生ある限り関わっていけたらと思っている。
※「エレンディラ」を二冊買ってしまったので読みたい方いれば無料で差し上げます。ご連絡ください
2010年1月10日日曜日
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