2010年1月5日火曜日

君へ  ― 青春

年末年始に読んだ本が溜まっているから
ご紹介しておかねばならん。義務感がある。
妙な使命感だ。
それに動かされるというのは実はとても当人にとっては
容易で気楽なものなのである。

「僕は運動おんち」枡野浩一 である。
彼の小説については二年(!)以上前に紹介している

この小説を一言で分類すれば青春小説である。
舞台は高校であるし、片思いの遠い存在の女の子がいて、
それ以上に重大で近しい友人がいる。
空想だけは長大に広がりつつも眼前の自分は全くの無力である。
しかしこれは単純なビルディングス・ロマンとは違う。

彼は成長を志向しないのだ。
「運動おんち」の主人公は一見、クラスからバカにされているように見えるが
それはムードメーカー的に"ネタ"にされているだけであって、
イジメと呼べるほどのものでもなく、クラスで一番の腕白少年が、
他の友人には吐露し得ない内面を唯一打ち明けられる心の友として、
主人公が描かれるように、
彼には自らの欠陥を卑下する幾ばくの恐怖も存在しないのだ。
かわいい妹からは「お兄さま」と慕われ、親との葛藤は皆無だ。
これが青春の不在を意味することは論を待たないだろう。
(青春とは何かについて議論し出すと長くなるが。)
主人公が自殺をほのめかすのは「安全に痛い」ポーズでしかなく
本質的な選択肢ではないのだ。

そういえば正月のあいだ実家で読んでいたNARUTOだが
「人はそれぞれの正義をかかげながら争い続けるしかない」
というゼロ年代の思考に対し、「人はわかり合えると信じている」
とナルトが強く応えるシーンがある。
これからどういうふうにストーリーが展開するか知らないが、
わかり合える結末を描くなら、ナルトが他を超越する圧倒的な力を
手に入れて、「争いは好まない」という自省を前提とした
自己正当化のもとに悪を滅ぼすことでわかるものだけが残る世界をつくるか、
例えば、サスケとわかり合うという局所的な和解によって
万事解決とするのかのどちらかの道しかないと思う。
つまり「人は基本的にわかり合えない。しかし対個人レベルの局所的な
関係においては稀にわかり合える場合がある」というリアリズムこそが
希望なのである。

君に会いに行くために
ヘアスタイルをととのえる
オゾン層を破壊しながら
かっこいい俺が誕生する

と「運動おんち」の主人公が歌うとき、
彼は世界との対話を諦めている。
柔道では負けない、泳ぐのが速い、ギターが演奏できる、
などといった単純な指標で理解してもらうことは最早できない。
それらすべてに「おんち」であるからこそ、彼はそのことに気付いた。

彼は「髪を切る」ことでクラスの人気者になる。
しかしそれはあくまでその小さなクラスで通じる言語であり
プロの目からすれば「センスはあるけれどドシロウト」の
レベルでしかなく、その自覚は当人だけでなくその周囲にも
通じている。にも関わらず彼が人気者になるのは、
彼が学園に属する内部の人間であり、
仲の良い者だけが無料で切ってもらえる秘密であり、
彼が「運動おんち」であることの前提を共有しているからだ。

「とにかくこの文章は遺書のつもりで書く。
 だれにも読まれないかもしれないけれど、いつの日にか君が読むかもしれないと意識しながら書く。
 君はだれなのかは、わからない。」

という十七歳の希望であり絶望。

僕はかつて「青春以外に書きたいテーマはない」と言っていたし、
今でもそう思っている。
この小説はユーモアにあふれているし、
あいまに挿入される詩もいい(それが本業だろうし)。
でも青春じゃあない。
どこかの誰かではない、
目の前にいる君のために書かれた言葉がもつ美しさを
僕はいまだ信じている。

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