別に本の紹介を目的にブログを書いているわけではなくて
ただ本を通じて言葉を綴るのが書きやすいからというに過ぎない。
ダン・ローズの「Don't Tell Me the Truth About Love」。
七つの短編がおさめられていて邦題にはその末尾を飾る一遍、
「コンスエラ」が与えられている。
いずれの短編にも愛おしい恋人たちが登場するが、
二人は ―― いや女はあくまで気高く、むしろ男だけは! ――
最上の喜びへと続く階段を踏み外し墜落していく。
作品の冒頭にイアーゴ(オセローに登場する悪役の策士)の
「さあ、しっかりしろ。わが身を海に沈めるだと!
沈めるなら猫か、目の見えぬ子犬にでもしておけ。」
という台詞が掲げられており、いかにも暗示的である。
これに続くイアーゴの台詞をたどってみる。
(僕の手元にあるのは福田恆存の訳文なので少し調子が違うが。)
「・・・熱しやすきはなんとやら、見ているがいい、それだけ逆にすぐにひびも入る・・・神妙らしく取り交わした夫婦の契りが、このおれの才覚と加うるに地獄の悪魔総出の加勢をもってして、なお打ち破れぬということはあるまい。」
七編で繰り広げられる愛は、あまりに悲劇的な結末を迎えるのだけれど
その顛末について、どうしても日常と呼ぶべきものであるとしか思えぬのである。
こうではなかった幸福な恋の行方を思い浮かべ、
イアーゴーの預言的に響く台詞に憎しみを抱いたところで、
事実、舞台の上には、かの二人しかいない。
悪魔は、男も女も知らぬうちにその間に
産み落とされている、招かざる我が子であった。
「・・・彼の涙管は大きく開いた。この塩辛い水はいったいどこから出てくるんだろうと思い、自分の目の裏側で貯水池が氾濫するところを創造した。その水面をマリアが歩いていた。小さな足を少しも濡らさずに。」
女はあまりに完全で気高い。
いや、男はそう信じたいのである。
まあ、いい。
「弓が弦に触れたとたん、騒々しい高波のようなホンダのバイクのエンジン音は消え去り、耳に聞こえるのは自分がぼろぼろのチェロで奏でる音だけになった。一曲弾き終えると騒音がもどってくるが、ゴックの耳にそれは大きなコンサートホールの喝采のように聞こえた。」
この短編では、音楽がとても効果的に配置されている。
次の美しい一文もそうだ。
「毎晩、夕食に降りていくまえに、彼女が全裸でハープの前に座り、そっと弦をつまびくと、夫は彼女の後ろに座って濡れた髪をとかしてやり、彼女の背中が演奏につれてそっと波打つのをながめて、音楽の一音一音を愛した。愛し合ったあとにはよく、コンスエラがニ短調のもの悲しい曲を弾いて、ペリコがじっと耳を傾け、彼女を見つめていることがあった。
この幸せな日々のあいだ、その曲だけが、ふたりの生活のなかでの悲しいものだった。」
小説には音も色もなくて、それが小説家の負い目であると言えるだろうか。
身体を用いることによっていまここに生み出され現前する物の質量に対し、
疎外された感覚があり、ふと不安になる。
田口ランディの言葉を借りれば、
「面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と」いうことである。
それで、文章によって風景を立ち上がらせ、
美しい女を、抱擁する熱を、潮騒を、オーケストラを、
経験を超える究極として書き及んだときに、
してやったりと思うのである。
とにかく日経新聞だけじゃなくて、たまにはこういうのも読んでみてよ。
2009年11月21日土曜日
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