絵画の世界を覗いてみる。
そこに一歩足を踏み出そうとする動作に
恐れとも歓びともわからぬ
素直な敬意というものがあって
結局のところ何者でもない無知の頭にしても
だからこそ誘われる未知があるのだと思っている。
絵を鼻先につきつけられて、それでどうだといわれても困る。
ぼんやり向き合っていればいいんだ、逃げ出さないでいることサ
そうひらきなおるのが良いか悪いか。
なんでも良し悪しで判断しなければならないと思い込むのも
空しいことにちがいない、でも豊かであるのか貧しいのか
知らずに生きるのも、いや知ろうとしないで視野を狭めることも
なかろうと思う。
それで鼻先の絵に対し、ぬいっと抜き出す刃のひとつやふたつは
懐紙に包んでおいたほうがいいし、咄嗟の動きが景色を変えると思う。
「現代美術と対極の美意識には感情と感動があるが、現代美術には観念と論理があるだけではないだろうか。・・・芸術を知的に分析して認識するだけで理解しているとすれば、それは芸術の本来の機能としての魂の向上と救済には無関心の立場を取っているのではないかと思う。」(『ARTのパワースポット』横尾忠則)
と横尾忠則は91年に書いているが、いまはどちらかといえば、
感情の吐露と表現すれば安いが、
直感的で視覚的な芸術のほうが流行であるような気がする。
では果たしてそれで救われることになったかというとどうだろうか。
イヤ、横尾の言う救済とは作家自身においてのことを言うのかナ、
であればむしろ、観念による救済もあってほしいと願うものだが。
「世代が今少しずつ交代の時期に入ろうとしている。言語的世界は論理的肉体的であるが、視覚的世界は非論理的非合理的非肉体的である。極論すれば宇宙的である。人間は本来宇宙的存在である。したがって後者のあり方が正しいに決まっている。」(同)
宇宙的であるということを直覚するならいまはいい時代であると思う。
具象的なものを頼みにするのもバカらしいのであれば
全てを抱合し自らもそこに融解させ宇宙であると言い切ってしまう
すがすがしさは他にない。
「絵画が人間のための絵画から、絵画のための絵画に移ってから絵画の真の感情が失われて・・・われわれを知的満足感の檻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。
感情や想像力に代って経済が魂を解放するとでも思って期待しているとすればこんな恐怖はない。経済の力が芸術の感情さえコントロールし、押し殺しているとすれば、われわれは芸術に一体何を求めればいいというのだ。」(同)
これは90年の文章である。
経済が感情をコントロールしていると危惧するほど
経済が強い時代だったのだろう。
80年代前半からこの頃の話は滅法おもしろいのだが
書き出すと長くなるからやめておく。
しかし、経済が芸術、いや、私たちの宇宙の無限を定めているという
気持ちは今でも崩れずにあり、
であるから相変わらず芸術のどうこうという話をするときに
そもそものスタートがビジネスとしてどうこうということになってしまう。
他に打ち手があるわけでもなく致し方なしとはいえ、
芸術に一体何を求めるのだという問いかけに逃げずに向き合わねばなるまい。
2009年11月2日月曜日
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2 件のコメント:
逃げ出さないでいることサ
そうね。がっぷり四つだね。
個展楽しみにしてるね。がんばって逃げ出さないでいるから。
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