2009年12月26日土曜日

ワインを浴びて

昨日もひどく飲んで何も憶えていない。
二日酔いで気分が悪い。

とても楽しいクリスマスだった。
飲みすぎなければ、
記憶のない時間に僕は、誰彼に暴言を吐いたり、困らせたり、
嫌われたりしたのではないかと脅えたりしなくてもよくなり、
二日酔いもなくすっきりとした朝を迎えられるはずであるのに
あえて飲むのは何故だろう。
もうこれまで幾度となく問うたけれど結局ほとんど進歩がない。

W.バロウズの『ジャンキー』を読む。

ビートを探って今さら何かを見出すことができるだろうか。
僕は、ビートに底流する生きるうえでの態度から
ひとつの知恵を吸収できればと思っている。
それは、不可解な自分、逃れようのない自分に対し
向き合うための合理性とでもいったものだ。

この作品のラストを引用しよう。
「快楽とは物事を特別な角度からながめることだ。快楽とは、次第に老いぼれていく、用心深く、口やかましく、いつもびくびくしている肉体の束縛から、ほんの少しのあいだ解放されることだ。たぶん、おれは、麻薬やマリファナやコカインのなかに捜し求めていたものをヤーヘのなかに見出すだろう。ヤーヘこそ最後の物になるかもしれない。」
(ヤーヘとはアマゾンの原住民が使っている薬らしい。)

麻薬によって細胞の一粒一粒が立ちあがる。
それを統合するものとして自分がいる。
今にもばらばらになりそうな自分という曖昧の弱さを理解し、
適切な安堵感を与えながらも、実に禁欲的に自分というものに向き合い、
最低限のところで自分を支えている。

自己嫌悪は起こる。
不可侵の前提、絶対的な不自由、幸福な未来に対する原初的裏切り者
として自分はいる。ある対象に無関心でいられないとすれば、
愛憎どちらが勝るにしても嫌悪は芽生える。

話だすと長くなるが、ゼロ年代を終えて、
ますます「自分」というものの存在が大きくなると思う。
そのときにいかに自己嫌悪と向き合うべきかという
現実的な処方箋が必要とされるに違いない。
ビートの禁欲的快楽主義はその確かなヒントとして再認識し得るかもしれない。

0 件のコメント: