2009年8月31日月曜日

冷たい八月

八月末日は夏が既に壊死していたのを知らしめるがごとく、
冷たい風雨にさらされていた。
今年は特に夏らしいという空でもなく、
また季節を感じさせる催しにも私的に興じることはなかったので、
余計に夏の過ぎゆく流れのなかに私の時間はなかった。

さて、二冊だけ本の紹介をしておこうと思う。
ボロボロになった人へ」リリー・フランキー
九つの物語」J・D・サリンジャー

短編集には長編小説にはない趣がある。
むろん両者に明確な境界はないし、
一方で価値が長さに左右されるわけもないのが、
単にどちらもよいといっているのではなく
両者には性質に違いがあると思う。
その違いは爽やかである。

例えていうなら、緑と黄のちがいであり、
夏と秋のちがいであり、
巨乳と美乳のちがいである。とは何のことだ。

それぞれから気に入りの短編を選び、
その一部を引用しよう。

「それは突然だ。/ 唐突に、瞬間的に、すべてがどうでもよくなる時がある。/ それが、今の俺だ。/ 仕事、周囲の環境、人間関係、恋愛、家族、親、大切に思っていたこと、少しずつ築きあげてきたもの、誇り、しがらみ、慈しみ、喜び、悲しみ・・・。」(『おさびし島』ボロボロになった人へ)

「エズメよ、彼は本当に眠たくなったのだよ。本当に眠たくなって眠れば、彼はそのうちに精神と体のありとあらゆる能力が無事な人間に戻ることができるのだよ。」
(『エズメのために』九つの物語)

前者は書き出しの一文であり、後者は結びの一文である。

唐突にはじまり断ち切れるように終わる。
満たされない感情は残る。言葉厚くして語り続ければ、
それが堂々巡りに思えるほど書き続ければ、
やがて主張の輪郭は奥行きをもった立体物へと変わることがある。

しかし、私たちの毎日の思考は、
ふとしたきっかけで頭の中をめぐり、知らぬうちに忘れている、
というようなものだ。

何ヶ月も悩んだ思考の蓄積のなかから選択することはなくて、
直感的に、感覚的に、曖昧に生きている。
それでも何十年かの経験から帰納的に処理しているのだとも言えて、
それが非論理だというつもりも無論ない。

ただ季節が同じように巡りそして去り行くのが
時々侘しく感じられるように、
分断された自らの刹那的な思惟が、
とはいえ日常の私自身の顔つきのままで
風に吹かれ転がるのを切なく思うことがある。
それで短編でも書こうかという気にもなる。

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