最近、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を読む。
世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)
タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。
それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。
悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。
この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。
でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。

0 件のコメント:
コメントを投稿