同世代の作家の不在あるいは期待と言いながら、
僕は金原ひとみという存在を避けていたのだと思う。
二十歳に芥川賞を受賞という輝かしい実績は、
何よりも僕にとって早かった。
蜷川幸雄が映画化したというので読んだ。
むしろ蜷川幸雄を通じてはじめて僕は金原ひとみと
向き合うことができたのだと思う。
以下は、作品の内容に触れるし、
読んでいない方にもわかるようには書かない。
「蛇にピアス」をめぐる所有について、である。
所有という語は、小説をかなり忠実に再現したと言える映画の中で
より鮮明に表出される。
小説では、龍と麒麟の刺青を完成させた後、ルイがこう話す。
所有、というのはいい言葉だ。(略)やっぱり人は人間も物も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているのだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れる事はない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。
龍はアマの、麒麟はシバの身代わりである。ルイはそれを所有し、
かつ、アマ、そして、シバはともに、ルイを所有しているという、
共犯関係にある。瞳のない龍と麒麟は、ルイという舞台に閉じ込められ争う。
いや、それは、争いというよりも、ルイの血肉となって同居していたはずだった。
裏切りはルイから始まる。
それはなぜか? なぜ、念願の龍と麒麟の刺青を完成させた後、
生きる気力を失い、「しょっちゅう」死を、つまりは所有関係の解散を
願うようになるのか。スプリットタンに至ることへの焦り、
それは死への焦りに似てはいなかったか。
(解説での村上龍の問いの一つ目はこれだ。)
ところで、刺青が象徴するとはいえ、ルイ、アマ、シバにとっての
所有関係とは具体的にどのような関係であったろうか?
本名も年齢も職業も、何もしらない彼らの関係は、
果たして所有と呼べるほどのものだったろうか?
携帯の電源をOFFにして隣町に逃げ出せばそれで、
東京の人混みに紛れて終わる。例えばそういうことだ。
それを痛みという、この映画のキーセンテンスで説明してしまうのは
あまりにも容易だ。なるほど、ピアスや刺青に表される
肉体的痛みは、自分の生を確認する大切な手法だったに違いない。
アマの犯す第一の殺人、シバの犯す第二の殺人と、
横滑りしながらそれらの痛みを引き受けていくルイ。
SとMと言ってもいいが、傷つけあい痛みあう関係こそが、
彼らの所有感であって、幸福な家族が築く関係とは対極に位置していた。
シバがルイの本名を聞いたその日からシバは家族的な愛情を示すようになった。
例えば結婚という言葉が予期したように。
金原ひとみは、自らのスプリットタンや刺青に対する不思議な欲望を、
ルイに投影させることによって昇華した。
アマはルイの痛みをすべて引き受けて死んだ、とも言える。
しかし、この連鎖はいつまで続くのだろう?
そしてそのあまりにも過酷な連鎖に、人は耐えうるだろうか?
2003年、この年、僕は19歳、大学二年生だった。
SARSが流行して、六本木ヒルズがオープンし、
スーパーフリー事件がおこった。
僕は得体の知れぬ東京の波に飲まれ、四苦八苦していた。
いまも根本的には何も変わっていない、といえばそうだ。
むしろ追い詰められていくような閉塞感は増しているはずだ。
2009年5月3日日曜日
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