2009年5月24日日曜日

ためらい橋

築地で朝から仕事というと妙な響きである。

実際には、セミナーを主催しているというだけで、
鮨をみんなで食おうとか、冷酒をいっぱいやりながらとか、
そんなウマい話はない。

ただ昼飯は、築地で食う。
築地で朝からセミナーは二回目だったが、両日とも蕎麦を食った。
一回目は穴子天そばであり、
二回目の昨日は桜海老のかき揚げ天もりである。
少々贅沢な昼飯だが、築地にはそうしないではいられない響きがある。

住まいの場所によるが、これが勝どきで朝から仕事だと響くものもなくて
ただビル風が吹き抜けていく。だが、清澄白河と言われれば
悪い気のしないのはなんだろうか。
六本木一丁目とか四谷三丁目とか曖昧な場所では寝覚めが悪く、
鶯谷、青物横丁、西馬込に至っては何でそんなことになってしまったのか、
朝から悩ましいことになってしまう。

築地で一日仕事をした後、夜は月島でもんじゃを食う。
もんじゃなどはお好み焼きの出来損ないくらいに考えていたが、
月島で食べるもんじゃはうまかった。というより、
焼き方の問題なのである。
単純に言えば、初めに具を焼き土手を作ってそこにあれを流し込むわけだが、
旨さを分かつ手つきはもっと複雑で、店員さんに焼いて頂くのをみながら、
そうして、もんじゃのモチモチと旨いのを初めて知ったのである。
しかし、もんじゃと言えば、餅明太チーズである。
この組み合わせの妙は、賞賛に値する。
というような話にはほとんど意味がない。

書きたかったのは、ある人にすすめられたカズオ・イシグロについてで、
両親は日本人だが彼はイギリス人と言ってよくて小説も英語で書かれている。
浮世の画家」を読んだが、この作品に漂う日本的なるものとは何だろうか。
舞台は戦後の日本であるし、その出生から作者に日本人の遺志を見出すことも
できるかもしれない。しかし、僕自身が日本的なるものを所有しておらず、
汎用的な世界観の中にいるがための共感であるように思った。

最近長々と書き過ぎるので、もう結びにしてしまうが、
そもそも「浮世」で揺れ動くのを絵画という形であろうがなかろうが、
いまここに生きているからというだけの理由で、
キャプチャーしようとするのは、そもそも無謀なのであって、
しかしどうしたって、いまここでしかありえないのは、
超越者たらざる人間の不具なのである。
その不具に対して自覚的であっても、世界から何かを掴みとろうと
するのは、もはや人間の本能と諦める以外ないのかもしれない。

この作品ではそれらの迷いを深く嘆くのでもなく、
端々にユーモアを交えていくのに生真面目である。
昼の戦時の社会から、夜の浮世の飲み屋街へとつながる入口が、
「ためらい橋」であったり、行きつけの飲み屋の店名が「みぎひだり」
だったり、いちいち可笑しい。

最後にどうしても付け加えないでいられないのは、
日本語訳が素晴らしいということだ。
翻訳でここまでの文章がかけるなら、
母語とは一体何だろうかとすら思うのであった。

0 件のコメント: