希望という言葉に臆病になったのはいつからだろう。
気付けばそこにあって、永遠に付き合っていかなければならない
ホクロに対峙しているかのような、脱力的な諦観。
希望に対する、この根源的遅れを、悔いるようになった。
社会に責任転嫁したところで解決にならないどころか、
追い詰められたような気分にしかならないのは、
希望が、結局は個人的な体験であるからだ。
村上龍が「この国には何でもある。・・・だが、希望だけがない」
と書いたのは、ちょうど十年ぐらい前だった。
宮台信司はそれより少し前の1995年に「終わりなき日常を生きろ」
と題し、これを書いているのだが、オウム真理教の事件を受けてのことだった。
明確な悪があると、「日常」をそれに抗して象ることができる。
しかし、宮台自身も書いているように、
オウムという悪は「あっと言う間に風化」した。
東京から遠く離れた(地下鉄すら存在しない)田舎にいた僕は、
その巨悪に怯むことはあってもリアリティはなかった。
それは単に無知の問題かもしれない。
話を本書に戻すと、ブルセラ少女の「終わりなき日常」と、
60年代SFの「ハルマゲドン後の新たな精神文明」を対比しながらの
考察は、非常にすっきりとしているし面白いし、
僕自身(理系男子)核戦争後の日常を書いたこともあって(最近だけど)、
素直に理解できる。
しかし宮台は「終わりなき日常」を受容せず希望の光を求めることの
逆説的な危険性を指摘しながらも、肝心の「終わりなき日常」を生きるキツさ
を乗り越える知恵については、本当にそれを具して生きるに足るものを
まったく提示できていないように思う。
宮台が繰り返し強調する「コミュニケーション・スキル」とは
いったい何のことなのか。僕にはちっともわからない。
(「宗教のオンブズマン」は理解できなくもないが冗談としか思えない。)
もっと正確に言えば、希望のない世界には期待せず「まったりと」生きなさい、
というのが、本書の結論といえば結論なのである。
とはいえ、最近のビジネス系ハウツー本や占い本も含めて一切合財の
コミュニケーション力ハウツーの流行は、宮台の議論の延長線上かも知れなくて
機会があれば、それについて考えてみるのも面白いと思う。
しかし、根本のところで、僕たちの希望は店晒しのままであって、
それを救済しない限りにおいて、少しの議論も不毛であると僕は感じている。
(いま宮台が何を書いているのか知らないことを断っておく。)
日常が終わらなかろうが、生は終わりに向かって刻々と流れているし、
刻々と選択をし続けていかなければならないのは変わらないからだ。
といっても、僕にも答えはなくて、答えがないということを知りながら
そう言ってしまうのだから、困ったものなのである。
本書で、宗教も危ういし「恋愛」であればと、少し書いてある。
僕も落としどころは「恋愛」くらいかなあ、と思わないでもなくて、
まあそれで、他人の恋の話や、デートノウハウに興味津々の
最近のメディアの姿勢は、世相なのだと妙に納得したりはするが。
2009年5月6日水曜日
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