2010年7月26日月曜日

可能性

最近、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を読む。

世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)

タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。

それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。

悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。

この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。

でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。

2010年7月3日土曜日

戯れ

まとまった文章を書かない期間がこれほど長いと
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。

もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。

質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。

何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。

言葉を先に進める。

そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。

最近、僕は本を読んでいない。