2010年11月23日火曜日

ノイズ

現代において、私たちは幸せでなければならない。
日本において、と遠慮がちに留めるとしても。

その圧によって私たちはどう生きざるを得ないかについて
僕はずっと考えていた。
おそらく僕たちひとつ前の世代は
その頑なな幸福に対し、皮肉な笑みを浮かべ
自演的な快楽に溺れることができたし
いかにその桎梏から逃れるかについての議論を
遊戯的に交わすこともできたのだと思う。

私たちは知的な先輩たちに憧れの視線を送りながら同時に
逃れられぬ呪縛、敗走に次ぐ敗走の現実を無視することもできずにいた。
行動は政治的であらざるを得なくなった。
早くに政治に絶望していた僕は-いまなお-可能性としての芸術に
小説というアプローチで臨むことにし、結果的に、
明らかな方向性を見出すことはできていない。
が、信じている。それ以外残されたていないという諦めも含めて。

幸せでなければならぬという事実に対し求られるのは、
であればこその現実的な重み、煌びやかでも慎ましくてもいい、
幸福の重量なのである。ずしりと腹に据えられるような。
未来に広がる茫漠とした不安を糧としての、
その責任を背負い込むことで生じる不幸への屈折した希望は
重量を求めることで紛れ込むノイズであるかのようだ。

生きることはできる、だがそうでしかありえない牢獄のなかで
発狂する、正常な者たちによる咆哮。嗚呼。
数十年程度の時間に、そう嘆く必要もなく、期待し過ぎるでもなかろうに。
そら陽が昇った、ややもすれば沈む。
ただそれだけのことだ。

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