2009年9月23日水曜日

僕たちの戦争

あまり計画性もなく、
慌しく突入したシルバーウィークだったが、
充実した連休になった。

だいたいシルバーウィークという名前が気に食わない。
敬老の日を含むから老人臭くていいのかもしれないが、
ゴールデンウィークとのつながりで単に名づけられたのだとすれば
安易にもほどがある。まったく。



サマーウォーズを観る。
なかなかよくできた映画でエンドロールで流れる山下達郎もいい。
(思わず iTunes で買ってしまった。)


田舎の家族に囲まれた日常世界と、
Ozと呼ばれるシステムが作り出すネット上の世界、
世界の存亡を賭けた事件に巻き込まれていく非日常、
これら三つが重なり合い並行し合い、
踊らされるように立ち向かうように暮らしている。

リアリティ、という言葉を持ち出すと
途端に禍々しく聞こえるが、
映画のなかでこれら三つの世界は重大に扱われることもなくて
ファジーな輪郭のなかで右に揺れ左に揺れしている。

この映画自体がひとつの大きな心象風景(この言葉自体は受け売りだが)を
描いていて、過ぎし夏の思い出、というセンチメンタルな表現がぴったりくる、
それがこの映画を観たあとの最初の印象だった。

一つの恋が世界を揺るがす大事件にもなるし、
一人の家族の死によって世界の見え方が180度変わることもある。
ネット上のコミュニティが何よりも勇気をくれることもあるだろうし、
家族の愛情が何よりも幸福を与えてくれたりする。
一歩外に出ればひとつひとつは全く取るに足らない些事によって
あるいはありふれた現象をなぞるようにして、
僕たちの世界は構成されているし、それ以上は望むべくもない。
一人の人間のキャパシティは、訓練によって多少の拡がりを
持たせることができるのだとしても、
身長の大小に似てその違いは印象の違いを生むことはあっても
実質的な変異をもたらすわけではない。
そのことをとてもポジティブに笑っているような爽やかさが、
この映画にはあって、夏にすごした青春のひとときを思い出させる。

もうすぐ公開は終了すると思うが、まだ映画館は満員だった。
この映画が大ヒットするというのはいいことだと思う。
花札! によって家族をひいては世界を救おうとする少女を、
世界中の人たちがネットを通じて応援したように
この映画を観て感動する僕たちは見知らぬ誰かの幸福を願う寛容に
無条件の賛同を示していたのではないだろうか。

2009年9月19日土曜日

続・越後のこと

まず山里の風景があり、アートはその次にあった、
と書いたがもうひとつ忘れられないものがある。

新潟の米である。



平成の大合併で魚沼産と名乗れる地域が広がったという、
笑い話もあるが、宿泊した越後湯沢のあたりは
かつてより魚沼産コシヒカリを作るいわば名門である。
彼らもそれを誇りにしているから、
あちこちで本当に米をよく食べる旅になった。

食おうと思えば多少高価なのをよしとすれば
東京でも食える米である。
その土地の水を使って炊くことの大切さを語る人もいて、
なるほど東京の水道水ではどうということもあるまいと思うが、
僕は米の味を見極めるほどの食通でもないから、
僕とってこの米を旨く感じさせるのは、なにより新潟の大地なのである。
というところでまた話は、土地についてに戻る。



大地の芸術祭と名づけられた、この越後トリエンナーレには、
廃校や廃屋を利用した作品がたくさんある。

小学校も僕にとって新鮮なモチーフになった。
木造のいかにも古い校舎には、教室、体育館、理科室、図書室、
廊下に低く設置された水場、小さな机、黒板など、
どの小学校にも共通する要素が散りばめられていて、
校舎をぐるりとまわりながらあまりの懐旧に胸を打たれる。
だが、これは僕の母校ではない。
古いものだから懐かしむというのでもない。
雪国の廃屋は、新鮮さはあっても懐かしさはない。
暖かみがある、という程度なら言えるが、生活を感じない。



いっしょにまわっていた方が、
「photogenic」と言いながらはしゃいでいた。
要は、写真を撮りたくさせる作品ということで
光の当たり具合や、視点の位置によって色々な見え方をさせるものは、
撮影のしがいがあるということだろうか。
この楽しみは、撮影することにあるから、
撮った写真をあとで並べてみても「photogenic」な作品
とはなり得ない。
撮影することを通じて楽しむことができるのは、
実物を前にしているからで、写真には何も映されていないともいえる。
その倒錯というか、喜劇もまた面白く感じられた。

あとは音である。
音もまた写真には残らない。耳と眼で観た作品はより記憶に留まる。

2009年9月16日水曜日

越後

土日で越後妻有オリエンナーレ「大地の芸術祭」に行ってきた。

無論、アートの祭典なわけだが、
何にもまして書き記しておきたいのは山里の風景である。



「故郷」というのは考えるに値するテーマである。
僕の生まれ育った和歌山は総体としては熊野古道があり高野山があり
林業の盛んな土地であるが、故郷と限って思えば
和歌浦、そして加太の海が浮かぶ。
潮の香りと波の音に郷愁がある。

そんなことを今更書かねばならぬほどまず海だった。



僕はあまり旅行をしないからそういうことに
酷くセンシティブなのかもしれない。

越後湯沢駅で下車すると風の冷たいのがすぐにわかる。
住宅の玄関は通りから階段を通じてあり二階から入るようになっている。
雪が積もれば一階は埋まる。
山道を走れば棚田があり山の向こうにはまた山がある。
和歌山なら山の向こうには海が見えたと思う。
刈り入れの近い田んぼは黄で森の緑の中に映える。
穂の重みで倒れた稲は風に吹かれ櫛を通した頭髪のように撫でつけられている。



山里の風景は新鮮だった。
アートはその次にあった。

2009年9月12日土曜日

複雑

マグネット(山田詠美)」を読んでいる途中に
枕元に残したメモに僕はこう書いている。

* *

この小説はつまらないと感じる。
山田詠美の他の作品で感じた密やかな歓びというのがない。
しかしふと、男として未熟がゆえこの小説のおもしろさが
わからないのではないかと虚を突かれた思いになる。
男に自らの未熟さを感じさせることに
この小説の目的があったのだとすれば、
これを読み男が不快になることでまさにそれは達せられたのである。
そしてそんな女の意図を感じ取ったとき男はその女を愛おしいと思う。
この小説に書き表されているのはそのような複雑さだ。

* *

今日から新潟のトリエンナーレに行く。
一泊二日。
旅行らしい旅行は何年ぶりだろう?
半分仕事とはいいながら。

複雑怪奇なのは男女だけではないにしても、
全てどうでもよくなってやけっぱちな気持ちにさせるのは、
それが合法の範囲というと女と酒以外に思いつかない。

しかしいくらやけっぱちになっても、
中途半端な理性は回帰する。
酔いのさめて頭痛にうなされる朝がそうであるように、
女のいなくなった部屋に取り残されたときがそうであるように。
その複雑さに耐え切れなくなって、小説という形で吐き出す。

時間がないので端折るが、単純に言えば、
小説を書くのはそのような自己保存のための営為であって、
そうしないではいられないからそうする。
誰かが言っていたが、小説に書いてしまえば、
どのような不幸も、その作品の誕生する契機となったと思えば済む。
ドラマの筋書きをみるように、人生を一つのドラマとして
客観視できるというわけだ。
しかし、あるところで書くことが目的に摩り替わる。
そうすると、あえて不幸に挑むようになる。
作家の人生がそれほど幸せそうでないのは
おさえきれない死への願望にある。

本当に時間がない。
どのようなアートに出会えるか、楽しみにしている。

2009年9月6日日曜日

風が吹いた。投石が始まる

夏はすでに終わってしまったが、
その風物詩の一つとして怪談がある。

押井守「獣たちの夜」がホラーであるというのは、
これが角川ホラー文庫だからという以上の手がかりもないが、
映像化されたら、半ば以降の長たらしい歴史講釈は割愛され、
純然たる娯楽、分類するならばホラーになるのだとう思う。

しかしこの作品の面白さはその長たらしい歴史講釈にある。
いや、正確には、1969年安保闘争を舞台で語られる、
人類の歴史の、壮大なようで卑俗でしかない活動が、
"過激派"高校生が脇役に配されることでさらに戯画的になり、
人の生死の巡り合せが、いかに幸・不幸を演じたところで、
祟りや呪いといったホラー映画の超越的な生殺与奪と
同列にみえてしまうことの悲哀である。


誤解を恐れずに言えば、僕は成人してこの方、
選挙に行ったことがない。
日本国に何も期待していないし、頼るつもりもない。
ただ法律は守り税金は納めている。
それで決められた範囲での自由を得ている。

責任と自由が表裏であるように、権利と闘争も表裏である。

選挙は国民としての最大の権利であるとか、
この権利を得るために先人達がどれだけの苦労をしたかと言う人がいる。
偶さか仮の住まいを定めた土地に割り振られた選挙区の
自民党のA氏であるか、民主党のB氏であるかを選ぶのが、
権利と思えばそうであるし、それ以外の選択肢を奪われた疎外
であると思えばそうにもなる。
郵送されてきた整理券にしたがって選挙という手続きを完了して、
それで何かを為したと思うなら、ただ愚昧である。
しかし、闘争を意志すれば権利にもなる。

とまれ選挙もひとつの手段でしかない。
選挙という権利によって隠蔽された様々な疎外がある。
それで主題は闘争ということに移る。

「このまま終わらせるわけにはいかない ― いや、このまま終わるわけがないと零は密かな怨念と危機感を胸に高校に皆勤した。」

何がどうなって、"過激派"高校生の挫折が高校に皆勤する決意に変わるのか、
もはや喜劇でしかないが、多かれ少なかれ人はそんなふうに
折り合いをつけながら諦めながら築き上げながら生き延びるのかもしれない。

夏にホラーを観るのはストーリーに魅かれるからではなく、
単に暑さを紛らわせるからである。
だが政治を倦怠を晴らすために利用する悪趣味には辟易する。
それで僕が選挙にいかないことの理由をいささかも正当化するものではないが。