と書いたがもうひとつ忘れられないものがある。
新潟の米である。
平成の大合併で魚沼産と名乗れる地域が広がったという、
笑い話もあるが、宿泊した越後湯沢のあたりは
かつてより魚沼産コシヒカリを作るいわば名門である。
彼らもそれを誇りにしているから、
あちこちで本当に米をよく食べる旅になった。
食おうと思えば多少高価なのをよしとすれば
東京でも食える米である。
その土地の水を使って炊くことの大切さを語る人もいて、
なるほど東京の水道水ではどうということもあるまいと思うが、
僕は米の味を見極めるほどの食通でもないから、
僕とってこの米を旨く感じさせるのは、なにより新潟の大地なのである。
というところでまた話は、土地についてに戻る。
大地の芸術祭と名づけられた、この越後トリエンナーレには、
廃校や廃屋を利用した作品がたくさんある。
小学校も僕にとって新鮮なモチーフになった。
木造のいかにも古い校舎には、教室、体育館、理科室、図書室、
廊下に低く設置された水場、小さな机、黒板など、
どの小学校にも共通する要素が散りばめられていて、
校舎をぐるりとまわりながらあまりの懐旧に胸を打たれる。
だが、これは僕の母校ではない。
古いものだから懐かしむというのでもない。
雪国の廃屋は、新鮮さはあっても懐かしさはない。
暖かみがある、という程度なら言えるが、生活を感じない。
いっしょにまわっていた方が、
「photogenic」と言いながらはしゃいでいた。
要は、写真を撮りたくさせる作品ということで
光の当たり具合や、視点の位置によって色々な見え方をさせるものは、
撮影のしがいがあるということだろうか。
この楽しみは、撮影することにあるから、
撮った写真をあとで並べてみても「photogenic」な作品
とはなり得ない。
撮影することを通じて楽しむことができるのは、
実物を前にしているからで、写真には何も映されていないともいえる。
その倒錯というか、喜劇もまた面白く感じられた。
あとは音である。
音もまた写真には残らない。耳と眼で観た作品はより記憶に留まる。

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