2010年2月16日火曜日

突然の終幕

このブログは僕にとって3つ目だが、
その役目を終えてしまった。

一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。


2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
 とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」

このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。

そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。

最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)


「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。

実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。

そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。

洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。


それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。


(了)

2010年2月9日火曜日

何なりとは言え

今日はとてもたくさんのヒントをもらった。

忘れないうちにメモっておく。
(こういう書き方は僕にとって珍しい。)

1 想像できることは実現できる
1-1 たくさんの未来のビジョンを世に創りださなくてはいけない
1-1-1 時系列的に過去に生み出された未来の想像力は現在においても
   未来でありうる
1-1-2 未来のビジョンが必要なのは現在の幸せについて事後的に断ずる
   において、過去が暗くとも生に輝きを与えることができるとすれば
   それは未来であるからだ
1-2  未来のビジョンは想像力と自分が関与する人生によって示される
1-2-1 他人の幸せが自分の幸せであるというのは便宜的にそうなのではない
1-2-2 自分がどうであるかにかかわりなく人は幸福になり得る
2 現在は過去と未来を束ねている
3 芸術は未来のビジョンを示す一つの方法である
3-1 芸術が生み出されるのは幸福について考えがあるからだ
3-2 芸術に関与することによって自らの幸福をそれによって他人の幸福を
  それによって自らの幸福を再帰的に増大せしめることができる
3-2-1 未来のビジョンは排他性という暴力に病む事がある
3-2-2 新たな芸術は常に産みだされなければならない
4 愛こそ全てという言葉についてもう一度考えてみるといい
4-1  未来を信じるものでなければ芸術になりえない

2010年2月3日水曜日

水曜日、朝

おはようございます。

出立の直前というのは不思議とたゆたう海原が
穏やかに見えるものなのでしょうか。
実に粗末な小船に荷物を降ろして喫水線の位置を
確かめながら、不安だなあと思う。
行く先は水平線の向こうに見えず、
コンパスが狂うことはないと信じても、
風向きや潮の流れがどうであるかは漕ぎ出して
みなければわからぬ。
予報も希望もほどほどに斟酌しながら
そうして明日の航海を思い描いている。
ああ、いよいよだなとひとりごち、けれど
湧き上がるのは焦燥でなくして安堵であるというのは
いささか白痴的であるとすら感じる。
怯えがあるとすればその自身の厚顔に対してなのである。