2011年12月31日土曜日

空港にて

半年ぶりにブログを更新しようと思い至ったのは
毎年、似たような質問を受けるからで、毎度相応に回答するけれど
自分としても一度その問いについてきちんと考えをまとめて
おきたいと思ったからである。

大晦日の今日を僕は和歌山で過ごしている。
十二月の中頃から連日の忘年会続きで、
幾人もの人と「良いお年を」と挨拶を交わしたわけだが、
たいてい正月をどう過ごすかという話になり、帰省すると言えば、
おのずと郷里について尋ねられ、和歌山ですと答える。

和歌山が大阪の南に位置していることぐらいはわかっても
その地に足を踏み入れた者は少なく遠く感じられるのかどうか
「どのような手段で和歌山に帰るのか」と会話は続く。
僕が毎年回答せねばならず、またいま書き留めておこうとしているのは
かような取るに足らない質問への回答なのだ。

東京から大阪へはたいてい新幹線のぞみを使う。
だが、新大阪駅は淀川よりさらに北に位置し和歌山からは遠すぎる。
そこで帰省には飛行機が便利で、羽田から関西国際空港へ飛ぶ。

関西国際空港は1994年、僕が11歳の頃に開港した。
大阪湾上に浮かぶ人口島に建設された巨大空港は
世界と日本を結ぶ西の玄関口として当時、大いに喧伝されもしたし
地域住民の期待もずいぶんと大きかったものと記憶する。
国土の矮小さにコンプレックスを感じながら千年生きてきた日本人が、
さらに小さい東京に詰め込まれる窮屈を恥じ
国土の全体を有効利用せんとするのは当然の心理であって
関西も東京に匹敵する政治経済の街にしたいのはもちろんだが
京都・奈良を軍勢として率いているのであるから、
海外からの観光客を招きいれ、いわく国際化でありグローバリゼーション
であるところの一流の世界都市に成長したいという志向が、
24時間営業の国際空港を国策として建設せしめたのであった。
いま取り沙汰されている大阪都構想まで、その意志は地続だ。

関空ができた背景にはもうひとつの論点がある。
大阪・兵庫・京都のちょうど中央に伊丹空港(大阪国際空港)があり
戦時中、空軍基地としてはじまって以来、長く関西の空の玄関口であった。
だが市街地を飛ぶため長く騒音問題に悩まされており
だからこそ関西国際空港は海に浮かぶ必要があった。
関空が開港したならば、伊丹空港の発着数を漸減させ、
国際便はすべて関空に移行させることになっていた。

ところが、関西国際空港は京阪の人々からは遠すぎ、
思うように移行は進まなかった。
東京で言えば羽田から成田に全ての便を移行するというに近い。
開港の華やかさも過ぎ、徐々に暗澹たる空気に包まれてきた関空は
文字通り地盤沈下を起こし、毎年数センチメートル海底に沈んでいることが
発覚したあたりで、もはやグローバル化にせよ騒音問題にせよ、
関空に何かが成せると信じる者はいなくなった。
国をさらに繁栄させてくれる健康聡明な嫡子を求めていた武家が
蜻蛉がごとき子供を授かってしまったようなもので
愛情は空中分解して萎えてしまったのだ。

便数を減らしつつあった伊丹空港はこの数年で逆に便数を増やし
往時の活性を取り戻してしまった。愛されぬ悲しみを抱え成長した
関西国際空港を、僕はわびしく感じながら利用している。
けれど和歌山の利便性を高めるために関空は生まれたのでは決してない。
僕たちは心を通わすでもなく無言ですれ違い、ただ胸に募る孤独を
いったい何の糧にして次に進めばよいのかと逡巡する。

関空という場所を図体はでかいが出来の悪い弟と言い表したくなるとは
ちょっと不思議な感じがするけれど、年の暮れ、郷里へと帰る道すがら
関空に会うことを僕はやめることができない。

帰省にどのような手段を用いるかと問われれば
僕はかような話を思い浮かべながら、ただ手短に、
「飛行機で関空へ」と不肖の弟の名を呼ぶのである。

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