2012年11月19日月曜日

その後

たくさんの言葉が、僕のなかから消えていったんじゃないかって
失ったあとにはもう何も残らない、
燃え尽きた炭の重なりを探っても、それが何であったかを
知ることはできないように、ね。

であったにせよ、いや、取り返しのつかないことが
たくさんあったことはわかっている。
それでも熱がもしもまだ冷めないでいるのなら、
燃え尽きたものに思いをはせるよりは、
風向きをみて、火を、火をまた燃やす方法を思案することの
ほうが、この寒さを凌ぐため、いや次の糧を得るための
優良な方法にはちがいないんだ。

もうすでに若いとはいえなくなってしまった。
それがいつのころからそうだったのか、
いまとなってはもうわからない。

だから、いまさらになって僕は、もう一度
言葉をつむぎたいと、それだけは忘れてないんだって、
交通事故のあとに少女が生ぬるい自分の血液を
柔ららかな指にからめながらうつろに消える意識の中で
唱えるように、ちょっとロマンティックに、夢想的に、
でもいつでもそうあったように。

僕はもう何も約束できない。
どうしてか、いつのころからそうだったのか、
いまとなってはもう、振り返ることはできない。
ずっとそうだったんだって、そう断言することだって
負け犬の背中に水を浴びせるようなことも
できないではないんだ。

あてのない、あてのない、戯れを抱こうか。

2012年1月6日金曜日

早計

今年は少しずつでも書いていこうと思う。
以前にはこんな風に書いていたのだから。

僕はできる、やればできる! ということで。

新年あけましておめでとうございます。

昨年はいろいろありましたね。
ええ、昨年と呼ぶには近しい出来事が生々しく残っています。
震災も、無論ありました。私の大勢には影響ないですけれど。
(残念ながらスケールが小さすぎて!)

山椒魚戦争、読み終わりました。
SFの傑作全集に載りそうな、名作でございます。

チャペックはあのようなものを書いて、では自分が何をなせるのかについてどのように思っていたのでしょうか。
いまの私たちが思うほど、おそらく悲観的ではなかったはずだとして。

人生ってね、記憶で結果的に構成されるのでしょうけれど、
そう結果的にというところが大事なところですがひとまずそれは放っておきましょう、記憶というのは、密度×時間、つまり、数式できちんと表現しますと、密度という時間当たりの量という尺度に、時間をかけて成し遂げるのです。
で、長生きしたり早死にしたりしますけれど
同じ年月を生きたとしたら密度がパラメータとなりますよね。

ああ、こういうことおわかりですよね?

たぶんだから作家にあこがれるのだと思います。
時間を超越すること、その意味あるいは実践について
どれほどの人が問いかけてきたことでしょう。
それだけを切り取ってみるのもきっと有意義なのでしょうね。

普遍的といえば平坦すぎる、それは情熱でありきっと理想なのです。