2008年12月13日土曜日

孤独なる飛翔

ああもう死んじゃいたい、と何度か呟いてみるが、
状況はいっこうに変わってく気配がない。
そりゃそうか。

昼間からビール飲みながら『日蝕』の感想書く。

大学生のころに書いたという平野啓一郎の
筆力に驚く。
清朝にて編纂された『康煕字典』を愛用、
って何なんだこいつ。

それで内容の話に移ると、
わかったような、わからぬような話である。
そのことを平野は、主人公の声を借りてこう書く。


私は、自身の体験を能う限り有りの儘に叙することに因って、何等かの答えらしきものが見出しえるかも知れぬと、私(ひそ)かに期する所が有った。しかし、終に、両性具有者の一貫した像を形造ることは出来なかった。或いは私が、より強くそれを求めむと意識しながら筆を進めていれば、然るべき成果は得られていたであろうか。私はそうは思わない。そうした努力は仍虚しいものであったろう。
『日蝕』


太陽と月の重なり、男と女の重なり(両性具有者の其)、正と邪の重なり、創造と破壊の重なり、それら矛盾するものたちの重なりの中に、平野は、自己と世界を同一にせしめる契機をみようとする。見る者は見られ、見られる者は見ており、他者は自らとなり、自らは他者となっている。

私は世界の渾てを一つ所に眺め、それに触れた。世界は私と親しかった。私は世界を抱擁し、世界は私を包んだ。内界は外界と陸続きになった。同じ海になった。世界が失われて私が有り、私が失われて世界があり、両つながらに失われ、両つながらに存在した。唯一存在した!
『日蝕』


世界を一元論的に捉えることの本旨は(私にもその動機がある)、
世界を再構築する夢を描くことよって、
それへの主体性を取り戻すことにある。
その主体性は、(本書で錬金術に象徴されるように)永遠なる過程の中
にしか存在し得ず、結末への予感を期すれば瞬く間に崩壊する。
行為の中で衰弱し磨耗する意志においては果たしえない
孤独なる飛翔を『日蝕』の中に私は見ることができた。

文学に、言葉にまだ意味があるとすれば、書くという行為以外にない
と不図思って煩わしくなる。
死ぬことの解放を否定することができるだろうか?

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