2009年7月25日土曜日

ケントス!



昨日は新宿ケントスで、70's ミュージック・フィーバー。
八時に焼き鳥屋で軽く腹ごしらえをして
九時から、飲んで踊ってを4サイクル。最高に楽しい。
気がついたら一時を過ぎていた。
総勢5人いたが、2、3人でウォッカ一本飲み干した。
足りなくなって追加で酒を頼み、
ラストステージが終わったら歌舞伎町でさらに
テキーラトニックを二杯。
さすがに最後は寝ちゃいそうになってふらふら帰宅。

みんなありがとう。
軽い二日酔いだが全然問題なし!

今週、ブコウスキー「詩人と女たち」を読んでいたので、
飲まいでやってられるか、という感じだった。
そして飲み倒した。

Kさんと昨日話をしていて、
経済的にpoorじゃないと、芸術なんてできないじゃないか、
余裕が生まれると魂が入らなくなる、
表現とは自分を失い続けることだ、
失うのが怖くなると表現は曇る。
などと思う。

ブコウスキーは酒を飲み女を抱く毎日を送る
孤独な詩人(彼自身がモデルだ)に最大な敬意を払っている。
失い続け、求め続ける。

「わたしはバスルームに行って自分の顔を見つめた。ひどい面相だった。顎鬚や耳のあたりの髪の毛に混じった白髪を鋏で刈り込んだ。やあ、死よ。といっても、わたしはすでに六十年近くをものにしている。このわたしを鮮やかに仕留めるチャンスは何度も与えてきたはずで、とっくの昔におまえの掌中に落ちていても何の不思議もない。わたしは競馬場のそばに埋葬されたかった・・・そこでなら最後の直線コースでの追い込みの音を聞くことができる。」

僕には失うものなんてほんのわずかしかない。
ちょっとした見栄とへたれな傲慢さしかない。
ブコウスキー、あんたくそったれ最高だぜ。

2009年7月20日月曜日

クラクション

気付いたら今週は週5で飲み会だ。
いくらなんでもやりすぎだ。
半分は仕事だが。

ということで昨日はおとなしく家で料理した。
毎回同じようなものばかりだと上達しないなあ、
と思いながらうまいのよね。
セロリ、じゃが芋、玉ねぎ、ピーマン、
昨日安かった国産牛肉をホールトマトで煮る。

飯

冷めてもうまい。だらだら食いながら缶ビール三本と
ズブロッカを水で割って二杯飲む。

今日は昨日の残りのセロリとピーマンと玉ねぎとホールトマトに
オクラを加えてカレーをつくる。
クックパッド(マザーズに上場したね。)見てたら
豆板醤入れるって書いてあって真似してみたらうまかった。
辛味にコクがでてビールに良く合う。

晩飯

金原ひとみ「アッシュベイビー」あっと言う間に読む。
良い、というのが倫理的に憚られるグロテスクがある。
絶対映画化できないな、これ。
彼女の文章、好きだ。
淀みなく出てくる言葉は刺々しかったり弱々しかったり、
ヒステリックに凄んでみせたり、ほろりと泣いたりする。
猫の目のようにくるくると変転していくさまは
女の子らしいと思う。
でも女性は彼女の作品をどう読むのだろう。
意外と男趣味なのかもしれない。

主題については共感するところが多いが、
勢いで書いたんだろうな、と思う。
そのスピード感がいいとも思うし、
読後にはちょっと物足りなさも残る。
でも五年前の作品なのだからすごい。
21歳なら勢いに任せるしかないだろう。

2009年7月19日日曜日

熱夜

ちっとも書けない。
前書きばかりが長くて本論は間伐されない荒地の
痩せっぽちの杉のようだ。
物語はクライマックスを迎えないまま息絶えている。
屍が累々とあり、腐臭もないミイラのごとく
ただ風景の一部として横たわっている。

他人の書いた文章を延々と読み、酒を飲み煙草を吸って
朦朧とした意識のなかに無理やりに自分を押し込んで
寝入る意識もなく眠る。
これまでずっとそうだったし、これからもそうなのだろうかと思う。

いまなぜか友人のあいだで宮台が読まれていて
酷評されている。
彼らの批判はおそらく正しいのだろう。
(こういう言い方は嫌味に聞こえるかもしれないが。)

彼のような教養主義的で貴族主義的なインテリが
僕は嫌いではない。
ネット社会の未来像」を読んでいると、
それが五年程前の議論だから余計にそうなのだろうが、
戦中に「近代の超克」について議論していたような
無力さと、それゆえの高邁を感じてしまう。

趣味の問題といってしまえばそれまでだが、
書くことの困難が常態化してしまった者からすれば、
非常な嫉妬をおぼえる。

何だろう。もう何もない。

2009年7月18日土曜日

表現における衝動と公共性

今日、田口ランディが「アール・ブリュット」について
話すというので、軽い二日酔いのなか
大崎にあるO美術館に出かけた。
最近飲みだすと止まらない。
回数はそれほど多くないが一回が重い。
昨夜もがぶがぶと行儀悪しく飲んでいたが、
一緒に飲んでいたなかの素敵な大人の女性が
「そういうの好きよ。」というので素直に興じた。
その後はひどかったが・・・長時間飲んでいてよいことはない。

田口ランディについては以前紹介した「コンセント」「アンテナ」
二作を読んだだけで、あとはブログをみている。
話の内容は当然のことながら、
ブログで書かれていることと重なる部分が多く、
僕の想像していた通りのテンションの高い明け透けなおばちゃんが
愉快そうに話しているのを見るという楽しみ以上のものは少なかったが。
ただ過去について、特に作家になったきっかけについての話は
興味深かった。彼女がアール・ブリュットに関わるのも、
それが美術としてどうというより、創作する衝動に向けられていて、
それは作家である限り常にそうだと思うし、そういう意味で、
アール・ブリュットという世界は創作の衝動を端的に体現できる。

創作が衝動の吐露だということはわかる。無目的的に自分自身の暗闇をまさぐって引っ張り出すことによって、自らの生命が白日の下にさらされ、それが生きることのリアリティにつながる。わかりきった感情や合目的的な論理などまったく書くに値しない。ただ、表現のレベルに落とし込み、作品として他者の視線に触れることによって、作品は作品として自立する。批判も共感も取り込みながら作品は社会化されていく。作家は自身の未知を表現すること、それ自体によって少なからず社会化せざるを得ないというアンチノミーを常に宿している。
作家の、あるいは作品の公共性、意味、目的、なんと呼んでもいいが、創作する無意識的衝動とは別に、創作することを通じての目的を考えることは出来ないか?

こんな長ったらしくはないが、上記のようなことを僕は質問した。
(どうやって 笑)
アンテナで書かれていたように「目的と手段は違う」のだ。

彼女の回答はいたってシンプルで、
「意味なんてないよ。生きていること自体に意味がないだから。」
というようなものだった。
でもどうせ生きるなら楽しく豊かに生きたい、と。

生きることに意味がないことなんて言われなくたって
わかっている。その次を誰かに語ってほしかったのだ。
笑ってごまかすには、生きることはあまりにも深刻過ぎる。

さて今日もこれから飲みに行く・・・。

2009年7月11日土曜日

自由か幸福か

十代の頃、といえばもう随分前のことになってしまったが、
書くことに対して、なるべく誠実でありたいと思っていた。
誠実さとは何か。自分が感じたままのことを素直に表現すること、
それだけでなく、自分が感じたいと願ったこと、感じ得なかったこと、
伝えたいこと、その背景にある動機、そういう諸々の複雑を
受け入れることから始める。
書き進めるに従い複雑な全体は解体され行き、
要素があちこちに転がり、転がりが結合を生み全体は再生される。
その瞬間の純粋さ。誠実さを表現しようとすれば例えばこうだ。

いまでも誠実でありたいと思う気持ちに変わりはない。
しかし、誠実であろうとすることで抱え込む弱さも、
同時に感じている。

「しかし、現実の問題としては、どうってことにもならなかったろうね。」
「じゃ、やっちまわなかったことをどうして後悔するの?」
「消極性よりも積極性を好むと言う理由だけからさ。いま僕たちの演じているゲームでは、僕たちの勝利というのはありっこない。ある種の敗北のほうがましだという、たったそれだけのことさ。」

小説「1984年」のなかで、主人公の二人が交わす会話である。
この作品で諷刺される諸悪に対し、僕たちが実際に生きている社会は、
いくつかのアイデアを示し、取り組んできていると思う。
本質的なところでは、けっして勝利に至ってはいないにしてもだ。
言ってしまえばもはや、本質など重要でないのだ。

「・・・私たちの生きている間に眼に見えるような変化が起こる可能性は全くありません。私たちは生ける屍なんです。私たちにとって唯一の真の人生があるとすれば、それは未来にこそあります。・・・」

書き手として、あるいは、若者として、
この社会にどう向き合っていけばいいのか。
僕たちの目の前に歴然と幸・不幸があり、
出来ることがあり、出来ないことがあり、
時は流れ、世界は動いているのであるとすれば。
物事はそんなに簡単じゃない。と思うのもひとつの考え方に過ぎない。
簡単に考えられる人はすごいと思う。
僕にはそれはできない。
ある種の人格障害のようなものだ。

「・・・民衆はか弱く、卑屈な人種であって自由に耐えられなし、真実を直視し得ないから、彼らよりも強力な集団によって支配し、組織的にだまされねばならないこと、人間にとっての選択は自由か幸福かであり、その大多数にとって幸福が遥かにましなこと・・・」

この社会はどこに向かうのか。
考えようが考えまいが何かしらになるし、どうしようもない。
じゃあ死ねばいい、ということになる。
さもありなんと思う。
だからといって地平は晴れぬ。

引用ばかりの手抜きの感想文。お粗末でした。

2009年7月6日月曜日

悦びに咲く花

明日、
目覚めたら梅雨空の湿った空気が鼻先に届いていて、
カーテンの隙間からは朝の透明な光が差している。
夜のうちに降った雨がこれから歩いてゆくアスファルトを
なめらかに覆っていて、きらきらとまばゆい。
記憶の中で笑う君はこれまでみたことがないほどの
純粋の水のなかで飛沫をあげて遊んでいて、
私はそれを遠くから眺めている。
笑い声がする。薄い白い皮膚にふくよかな血を淀みなく流す
年端もいかぬ少女が、アスファルトの岸辺を泳いでいる。
アイスコーヒーの注がれた透明なグラスを伝う水滴が、
裸の太腿に落ちて冷たかった。

夏は元気に泣いていた。
私は熟練した産婆のように夏を、高らかにすくい上げ、
泣きじゃくる子に微かな接吻をした。

世界はそこからゆっくりとひらき、
私は満足のいく朝食を食べた。
綺麗なブルーのネクタイをして、磨いたばかりの革靴の紐を締めた。

また別のところから笑い声が聞こえた。
それは数軒先の若い夫婦の笑いだったろうか。
定かではない茫洋とした世界のなかにその笑いは溶けていった。
燃え尽きた蚊取り線香の灰がベランダで風に吹かれ舞った。
玄関の扉を開けるとぬるい街の空気が遠慮なく私を包み込み、
後ろ手に扉を閉めると私は一歩踏み出して、
また違う笑い声と誰かの足音を聞いた。
私の足音がそれに混じった。
夏に包まれた私の呼吸音は何よりも私の耳に響き跳ねた。

2009年7月1日水曜日

脱稿

みんなで希望をテーマに小説を書き、
読み比べてみようという話になった。
一ヶ月ほど前の話である。

それでどうということもないのに、
締め切りが近づいてくると自然と書こうという気も起こる。
プロとアマの差にについて語れる身分でもないが、
あぶさんという漫画でそれについて語っていたことは憶えている。
語っていたと言うよりも、態度で示すと言うことを
これ以上になく表現していた。
幼い頃あぶさんを読み、僕の心にそのシーンが
痛切に残っている。言葉ではなく、風景として。

できあがった小説はひどく希望のないものだった。
それが必然であるというつもりはないが結果はそうなった。
今ここで披露するのもやぶさかではないがそれで解決するというものでもないだろう。
暗闇を外に放り出せば、陽の内に出されたそれは明るさを手に入れられる
というような単純なものではなく、では、読めばわかるとしても
堂々巡りにもなるが。

僕自身がそれを強く要望していたというのも当たらないし、
小説を書く人が全員同じように語ることそのままに、
登場人物がそのように筆を運ばせるのである。
それが言葉遊びに聞こえるのは間違いでないと思う。

とはいえ書き手自身にとってそれが自由のうちにあったかというと、
それもまた誤りであるのだが。
結局自分が思うほどに自分をコントロールすることはできない。
そういえば皆、ひとつやふたつそれの傍証を見出すことができると思う。

田口ランディがいつもいいことを書く。
上記の文脈に特に関連があるわけでもなく、
また以前にも触れた話題であるが、繰り返し紹介しておく。