昨日もひどく飲んで何も憶えていない。
二日酔いで気分が悪い。
とても楽しいクリスマスだった。
飲みすぎなければ、
記憶のない時間に僕は、誰彼に暴言を吐いたり、困らせたり、
嫌われたりしたのではないかと脅えたりしなくてもよくなり、
二日酔いもなくすっきりとした朝を迎えられるはずであるのに
あえて飲むのは何故だろう。
もうこれまで幾度となく問うたけれど結局ほとんど進歩がない。
W.バロウズの『ジャンキー』を読む。
ビートを探って今さら何かを見出すことができるだろうか。
僕は、ビートに底流する生きるうえでの態度から
ひとつの知恵を吸収できればと思っている。
それは、不可解な自分、逃れようのない自分に対し
向き合うための合理性とでもいったものだ。
この作品のラストを引用しよう。
「快楽とは物事を特別な角度からながめることだ。快楽とは、次第に老いぼれていく、用心深く、口やかましく、いつもびくびくしている肉体の束縛から、ほんの少しのあいだ解放されることだ。たぶん、おれは、麻薬やマリファナやコカインのなかに捜し求めていたものをヤーヘのなかに見出すだろう。ヤーヘこそ最後の物になるかもしれない。」
(ヤーヘとはアマゾンの原住民が使っている薬らしい。)
麻薬によって細胞の一粒一粒が立ちあがる。
それを統合するものとして自分がいる。
今にもばらばらになりそうな自分という曖昧の弱さを理解し、
適切な安堵感を与えながらも、実に禁欲的に自分というものに向き合い、
最低限のところで自分を支えている。
自己嫌悪は起こる。
不可侵の前提、絶対的な不自由、幸福な未来に対する原初的裏切り者
として自分はいる。ある対象に無関心でいられないとすれば、
愛憎どちらが勝るにしても嫌悪は芽生える。
話だすと長くなるが、ゼロ年代を終えて、
ますます「自分」というものの存在が大きくなると思う。
そのときにいかに自己嫌悪と向き合うべきかという
現実的な処方箋が必要とされるに違いない。
ビートの禁欲的快楽主義はその確かなヒントとして再認識し得るかもしれない。
2009年12月26日土曜日
2009年12月24日木曜日
サンタクロースの群れ
2009年12月18日金曜日
暮れ
酒を飲んで酔いに溺れ、周囲の人に対してする
数々の無礼や自らの醜態について、
反省しきって弱りきりしばらく控えようと思いながら、
また自然と元に戻りつつある回復の途上で、
あのときのおまえは酷かったと言わずもがなの過去について
あらためて問われるのはとてもツライ。
そうなのです悪かったです。
でもちっとも記憶にはない。
黒ずんだ空間の向こうには知りたくもない自分の愚挙がたくさん詰まっていて、
できればそのまま蓋をして、地中深く埋めてしまいたい、
そも、記憶にない過去など、なかったことしてしまえば
そうしたことすらすぐに忘れてしまうに違いないのだから。
しかし人に迷惑をかけた以上、その責任として事実を知っておかねば
謝ることもできないのだからしかたなく、
実際のところ、どこまで酷かったのだろうと尋ねてしまう、
いや、本当にごめんなさい。
たいていそんなふうに酔うのは楽しさが過ぎるからで、
またそういう人たちとは飲みたいものなのだ。
迷惑と言われても、そう言わないでまた軽く、と念をおして
同じことを繰り返すのもしばしば。
いったいこの深夜に何を書きとめておきたかったのか。
いいわけと責任逃れの、非生産的な言葉に違いない。
いや、年末まで続く忘年会でまた過ちをおかすことを
酷く恐れていて、その恐怖が僕に書かせるのだ。
恐怖はいつも後悔のあとにあり、あまり役には立たないけれど。
ひとまず今日はシラフです。お母さん僕は無事です。
数々の無礼や自らの醜態について、
反省しきって弱りきりしばらく控えようと思いながら、
また自然と元に戻りつつある回復の途上で、
あのときのおまえは酷かったと言わずもがなの過去について
あらためて問われるのはとてもツライ。
そうなのです悪かったです。
でもちっとも記憶にはない。
黒ずんだ空間の向こうには知りたくもない自分の愚挙がたくさん詰まっていて、
できればそのまま蓋をして、地中深く埋めてしまいたい、
そも、記憶にない過去など、なかったことしてしまえば
そうしたことすらすぐに忘れてしまうに違いないのだから。
しかし人に迷惑をかけた以上、その責任として事実を知っておかねば
謝ることもできないのだからしかたなく、
実際のところ、どこまで酷かったのだろうと尋ねてしまう、
いや、本当にごめんなさい。
たいていそんなふうに酔うのは楽しさが過ぎるからで、
またそういう人たちとは飲みたいものなのだ。
迷惑と言われても、そう言わないでまた軽く、と念をおして
同じことを繰り返すのもしばしば。
いったいこの深夜に何を書きとめておきたかったのか。
いいわけと責任逃れの、非生産的な言葉に違いない。
いや、年末まで続く忘年会でまた過ちをおかすことを
酷く恐れていて、その恐怖が僕に書かせるのだ。
恐怖はいつも後悔のあとにあり、あまり役には立たないけれど。
ひとまず今日はシラフです。お母さん僕は無事です。
2009年12月17日木曜日
オリオンの物語
東京の空がこんなにも明るいことに、明け透けに驚きを感じることができるようになったのは、いつからだろう。東京の空はいつもこういうふうだったろうし、僕はその下でいくつもの言葉を並べ、聞いてくれる誰かがいたのだから、この孤独な東京にあってそれは恵まれ過ぎていることであったに違いない。僕はそのことにとても感謝している。
そう思いながら空を見上げていた。新宿のネオンの照り返しなのか、はっきりとわからないけれど、明るい空の下だ。それは東京を象徴していると思う。田舎育ちの人間で、上京してからも長く埼玉県狭山市にいたから気付かなかったことがたくさんあったのだと思う。
思う、と言えることが最近減りつつあるのではないかと今ふと気を病んだ。日常で出合う事々について、いくつのことを思っただろうか、それは過ぎし日にあってはとうに遅すぎる小さな出来事であったろうけれども、僕の人生がどうであったかという段になると、そういう小さなことが大切に思われぬでもないと、思わぬこともない。
そして空をもう一度見上げた。
僕はあまりに薄弱にして、空を見上げてわかることといえば、カシオペア座とオリオン座の二つに過ぎない。しかし、いま冬の空にあって、オリオン座の確かに光るその空の、明るさの下の曖昧な不安のなかにいて、その確からしさに幾度となく勇気付けられたことを僕は忘れたことはなかった。だからいまこうしてオリオン座の光るのを見上げながら、その足下にある自分の確からしさについて、二、三の世迷言を語らぬでもないわけだ。
オリオン座に対する僕の執着は、深く根をおろしている。
それで明日も立派に生活をして、また夜にオリオン座が灯るだとしたら、曇り空の向こうに明るく輝く強靭なそれ、たゆまなく連綿と悠久と続く時間、そういう永遠に僕は憧れる。叶わぬ願いならば願わぬほうが幸せであったろうと言うだろうか。僕は連綿と続くそのものに対し、僕自身を負わせて、僕は意識の空虚に逃れ出で、一つの雫が湖に溶けるように消え入ることを終に望みとして捨て得ないでいるだろうか、いや、明瞭な論理のなかに落としいれてしまえばいいと願う気持ちもわからぬではない、としても、それでも放つ志向に、未来はあるのだする信仰が、オリオン座に勝るとも劣らぬ輝きを発していて燦然と輝いている。僕が望むのはそれだ。強く、強く、僕はあらねばならない。強さが力なのだ。
そう思いながら空を見上げていた。新宿のネオンの照り返しなのか、はっきりとわからないけれど、明るい空の下だ。それは東京を象徴していると思う。田舎育ちの人間で、上京してからも長く埼玉県狭山市にいたから気付かなかったことがたくさんあったのだと思う。
思う、と言えることが最近減りつつあるのではないかと今ふと気を病んだ。日常で出合う事々について、いくつのことを思っただろうか、それは過ぎし日にあってはとうに遅すぎる小さな出来事であったろうけれども、僕の人生がどうであったかという段になると、そういう小さなことが大切に思われぬでもないと、思わぬこともない。
そして空をもう一度見上げた。
僕はあまりに薄弱にして、空を見上げてわかることといえば、カシオペア座とオリオン座の二つに過ぎない。しかし、いま冬の空にあって、オリオン座の確かに光るその空の、明るさの下の曖昧な不安のなかにいて、その確からしさに幾度となく勇気付けられたことを僕は忘れたことはなかった。だからいまこうしてオリオン座の光るのを見上げながら、その足下にある自分の確からしさについて、二、三の世迷言を語らぬでもないわけだ。
オリオン座に対する僕の執着は、深く根をおろしている。
それで明日も立派に生活をして、また夜にオリオン座が灯るだとしたら、曇り空の向こうに明るく輝く強靭なそれ、たゆまなく連綿と悠久と続く時間、そういう永遠に僕は憧れる。叶わぬ願いならば願わぬほうが幸せであったろうと言うだろうか。僕は連綿と続くそのものに対し、僕自身を負わせて、僕は意識の空虚に逃れ出で、一つの雫が湖に溶けるように消え入ることを終に望みとして捨て得ないでいるだろうか、いや、明瞭な論理のなかに落としいれてしまえばいいと願う気持ちもわからぬではない、としても、それでも放つ志向に、未来はあるのだする信仰が、オリオン座に勝るとも劣らぬ輝きを発していて燦然と輝いている。僕が望むのはそれだ。強く、強く、僕はあらねばならない。強さが力なのだ。
2009年12月13日日曜日
I am
新宿 BEAMS のギャラリーで開催中の「岡田敦 写真展 」に行く。
本展の美しさもさることながら、2007年に出版されている
写真集「I am」を前に僕はまったく立ちすくんでしまい、
そして次に巨大な感情の波に襲われた。
僕は家に帰ってもう一度写真集のページをめくり
ゆっくりと眺めた。そして恐怖を振り払うように
込み上げる感情を言葉に変え、整理し、受け止めた。
そして言葉にできずに残ったいくつかの者たちが
僕に声ならぬ声を浴びせ、浮遊する身体で圧した。
何もかもがひとつになった。
# 普段使いのブログに貼り付けるには過激すぎるかな。。
# 別に、エロとは全く無縁だし、反道徳でもないです
# まあ見ればわかりますが・・・
本展の美しさもさることながら、2007年に出版されている
写真集「I am」を前に僕はまったく立ちすくんでしまい、
そして次に巨大な感情の波に襲われた。
僕は家に帰ってもう一度写真集のページをめくり
ゆっくりと眺めた。そして恐怖を振り払うように
込み上げる感情を言葉に変え、整理し、受け止めた。
そして言葉にできずに残ったいくつかの者たちが
僕に声ならぬ声を浴びせ、浮遊する身体で圧した。
何もかもがひとつになった。
# 普段使いのブログに貼り付けるには過激すぎるかな。。
# 別に、エロとは全く無縁だし、反道徳でもないです
# まあ見ればわかりますが・・・
2009年12月12日土曜日
具体と抽象
昨晩は、Jazz Singer とSax Player とプロダクトデザイナー
で集まって、異業種アーティスト会? を開催。
(焼肉食べながら騒いでるだけだけど 笑)
これが実に面白くて感動する。
でも後半、何を話したか記憶が定かでない・・・。
深夜二時半まで飲んで何故か新宿から歩いて帰ろうと思い
ふらふら歩いていたらどこにいるのかわからなくなって
結局タクシーに乗って帰宅。
朝起きて財布をみるとお札が一枚もなくて!
一体どうしたことだろうと愕然とする。
その理由はまだ明らかでないのだが。
軽い二日酔いのなか十二時過ぎに表参道でビールを三杯ほど飲み、
頭のなかの鈍痛が重みをましているころ、
昨日いっしょに飲んでたPORE 根本さんとまた合流し、
表参道 LOTUSへ。
さすが洒落た店を知ってらっしゃる。
そこで随分話し込んだけれど、僕が改めて強く感じたことの一つは、
「未来のビジョンについてもっと発信すべき」であるということだ。
先日、オペラシティの「ヴェルナー・パントン展」を観たときに、
その圧倒的な色彩や突飛な家具のデザインに驚いた。
もう何十年も前に作られたものだが、そこにはっきりと未来への意志を
感じ取ることができるし、そのような未来は結局実現していないにしても、
忘れさられることなく「もう一つの未来」として私たちの記憶に残るのである。
それと似て、恐れている未来に対する警告と希求する未来に対する情熱を
描いているSF小説が好きだ。ちっとも Scientific でないことが多い。
そのような未来をどうやってつくり上げるのかと問う前に、
まずビジョンを提示することが大切であると思う。
僕たちは具体化する作業にはとても慣れていて、
概念を分析的に解釈し、論理的に組み立てることを好む。
目標地点と現在地を定め、人員・予算・時間などの制約を元に
そこに至る戦略を立て、方法を選別し、リスクを予測し対策を練る。
たとえばそういうことだ。
日本の教育について語るときに、教育そのものについて語るよりも、
子供の人口統計、税収予測、国際社会での優位性、義務教育過程の改革、
といった具体論に落とし込もうとする。
どのような椅子が欲しいかというときに、コスト、耐久性、他社商品との差別化、
ターゲットユーザーの嗜好性、プロモーション戦略と細分化しようとする。
それらの手法が間違っているわけではもちろんないが、
そういう具体化の作業からは圧倒的なビジョンは生まれ得ない。
あくまで抽象的な思考のなかにだけ存在し、
具体化する過程で消えてしまうエネルギーがあるのだ。
抽象的なものを抽象的なまま受け止めるのにはパワーがいるし怖い。
具体化し、理解の範囲に収めると安心できるというのはわかるが、
抽象的なものから逃げない訓練もしたほうがいい。
抽象的な事物は、好き嫌い、善悪、良し悪しといった、
よりパーソナルな判断を求めてくるから、
実は、そういう事物に自然に接することができるようになると、
生きるのがより楽になるのではないだろうかと思う。
根拠を求め原因を洗い確実性を予見し、という具体化の作業の果てには
空漠が広がるのみ、ということが多いからだ。
絵画を初めとする芸術は、私たちの生活の抽象と具体のバランスを
是正するという大切な役割を果たせるのではないかと思う。
で集まって、異業種アーティスト会? を開催。
(焼肉食べながら騒いでるだけだけど 笑)
これが実に面白くて感動する。
でも後半、何を話したか記憶が定かでない・・・。
深夜二時半まで飲んで何故か新宿から歩いて帰ろうと思い
ふらふら歩いていたらどこにいるのかわからなくなって
結局タクシーに乗って帰宅。
朝起きて財布をみるとお札が一枚もなくて!
一体どうしたことだろうと愕然とする。
その理由はまだ明らかでないのだが。
軽い二日酔いのなか十二時過ぎに表参道でビールを三杯ほど飲み、
頭のなかの鈍痛が重みをましているころ、
昨日いっしょに飲んでたPORE 根本さんとまた合流し、
表参道 LOTUSへ。
さすが洒落た店を知ってらっしゃる。
そこで随分話し込んだけれど、僕が改めて強く感じたことの一つは、
「未来のビジョンについてもっと発信すべき」であるということだ。
先日、オペラシティの「ヴェルナー・パントン展」を観たときに、
その圧倒的な色彩や突飛な家具のデザインに驚いた。
もう何十年も前に作られたものだが、そこにはっきりと未来への意志を
感じ取ることができるし、そのような未来は結局実現していないにしても、
忘れさられることなく「もう一つの未来」として私たちの記憶に残るのである。
それと似て、恐れている未来に対する警告と希求する未来に対する情熱を
描いているSF小説が好きだ。ちっとも Scientific でないことが多い。
そのような未来をどうやってつくり上げるのかと問う前に、
まずビジョンを提示することが大切であると思う。
僕たちは具体化する作業にはとても慣れていて、
概念を分析的に解釈し、論理的に組み立てることを好む。
目標地点と現在地を定め、人員・予算・時間などの制約を元に
そこに至る戦略を立て、方法を選別し、リスクを予測し対策を練る。
たとえばそういうことだ。
日本の教育について語るときに、教育そのものについて語るよりも、
子供の人口統計、税収予測、国際社会での優位性、義務教育過程の改革、
といった具体論に落とし込もうとする。
どのような椅子が欲しいかというときに、コスト、耐久性、他社商品との差別化、
ターゲットユーザーの嗜好性、プロモーション戦略と細分化しようとする。
それらの手法が間違っているわけではもちろんないが、
そういう具体化の作業からは圧倒的なビジョンは生まれ得ない。
あくまで抽象的な思考のなかにだけ存在し、
具体化する過程で消えてしまうエネルギーがあるのだ。
抽象的なものを抽象的なまま受け止めるのにはパワーがいるし怖い。
具体化し、理解の範囲に収めると安心できるというのはわかるが、
抽象的なものから逃げない訓練もしたほうがいい。
抽象的な事物は、好き嫌い、善悪、良し悪しといった、
よりパーソナルな判断を求めてくるから、
実は、そういう事物に自然に接することができるようになると、
生きるのがより楽になるのではないだろうかと思う。
根拠を求め原因を洗い確実性を予見し、という具体化の作業の果てには
空漠が広がるのみ、ということが多いからだ。
絵画を初めとする芸術は、私たちの生活の抽象と具体のバランスを
是正するという大切な役割を果たせるのではないかと思う。
2009年12月9日水曜日
2009年12月6日日曜日
Happy Wedding
12月4日にG氏の結婚を祝し、盛大に飲み歌う。
大学時代の仲間を中心に入れ替わり立ち代りしながら
20名近くが参加してくれた。
圧倒的なテンションのまま午前五時を迎え、
昨日は一日中意識は朦朧とし咽喉は痛いし・・・すごいなあ。
結婚という出来事にいまの僕たちは多くの期待を寄せているし、
これがG氏のものだからということはあるにしても
純粋な歓びにあふれているのだった。

この三ヶ月のうちに三人の友人から結婚の知らせが届いた。
急になんだというのだろう? 世界が一変してしまったかのようだ!
このペースで幸せな結婚が増えていけばあっと言う間に、
僕たちの未来はその存在の色を濃くし、祝福の歌は夜ごと響くことだろう。
財布の中身は空っぽで、そして僕はひとりぼっちだ。
日本の教育を変えるにはどうすればいいかという問いに
中学生が自ら集団登校拒否をすればいいと村上龍は答え、
実際そのような小説を書きもしたが、
若者たちが幸福な未来を信じ強く生きていくにはどうすればよいか、
という問いには、全員即刻、幸せな結婚ができればいい。
でもそんな仮定は集団登校拒否以上に現実的でなく妄想の域にも達しないから
いまここにあるひとつひとつの結婚を大いに祝福し、
その永遠を願い、応援し、メッセージを伝える。
それにしても年末、地元で二夜連続の結婚祝いだ。
死んじゃうかもしれない。
大学時代の仲間を中心に入れ替わり立ち代りしながら
20名近くが参加してくれた。
圧倒的なテンションのまま午前五時を迎え、
昨日は一日中意識は朦朧とし咽喉は痛いし・・・すごいなあ。
結婚という出来事にいまの僕たちは多くの期待を寄せているし、
これがG氏のものだからということはあるにしても
純粋な歓びにあふれているのだった。
この三ヶ月のうちに三人の友人から結婚の知らせが届いた。
急になんだというのだろう? 世界が一変してしまったかのようだ!
このペースで幸せな結婚が増えていけばあっと言う間に、
僕たちの未来はその存在の色を濃くし、祝福の歌は夜ごと響くことだろう。
日本の教育を変えるにはどうすればいいかという問いに
中学生が自ら集団登校拒否をすればいいと村上龍は答え、
実際そのような小説を書きもしたが、
若者たちが幸福な未来を信じ強く生きていくにはどうすればよいか、
という問いには、全員即刻、幸せな結婚ができればいい。
でもそんな仮定は集団登校拒否以上に現実的でなく妄想の域にも達しないから
いまここにあるひとつひとつの結婚を大いに祝福し、
その永遠を願い、応援し、メッセージを伝える。
それにしても年末、地元で二夜連続の結婚祝いだ。
死んじゃうかもしれない。
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