2009年4月29日水曜日

dreamed a dream

言葉にならない。

最近はやりのスーザン・ボイルの歌なのであるが、
埋め込みが無効なので、YouTube側でみてほしい。

歌がはじまって数秒で僕は涙を流していたし、
それは何度見ても同じだった。

彼女の歌声の、あるいはこの映像の何がそこまで
僕に感応したのか、正確に言葉にすることはできない。

けれど、全世界で何万回と視聴されたであろう彼女の歌声は、
果たして僕だけに感応したわけではなくて、
何かではなくて全てだった。

直接的に言及するに至れず、迂遠にその輪郭をたどろうとすれば、
まさにYou Tube の本領であったと思う。
ここには意志が感じられる。
インターネットの可能性というと、もはや胡乱な印象しかないが、
真摯に向き合う意味のある対象であるにはちがいないし、
それに関わるのならば、意志に照らされた道を歩むことだ。


泣きはらした心がまだじくじくと濡れたままになっていて、
言葉にならない。
あるいは、言葉にすることの不毛にたじろんでいるのかもしれない。

2009年4月28日火曜日

様酔い

Ben Folds を聴きながら。

もしもピアノが弾けたなら、
僕は君の、君の、隣にいるわけでもない君の、
どこか遠くにいる君の、君の、希美の、キミにむけて
歌を唄うだろうにね。

あてどない、キミ宛の、言ってしまってよければ、
愛の歌を唄うだろうに。

そんなこと、他人事に想って忘れ去るのは、
キミも僕も同じだってことにしておくから。

そういえば、もうすぐ連休だってさ。

残っているものと言えば、数え切れるようになってしまった。

それはきみのせいだろう?

頭痛い。Clebrate、Celebrate

五月はテキーラが似合うって、書いたのはもう一年も前だっけか。

それからくらべれば、僕もずいぶんと変わったろうか。

きみは何も気付かないから。
僕もさとられはしないから。

One Night I hope though I am.

そっと

でも

つまらないから、僕はきみの名を呼ぶ。
きみはそれを、風鈴の音に例えるかもしれない。

届かないからって、僕がきみの名を間違たことにはならないだろう?

きみはいまそこにいるのだから。

Ben Folds !

2009年4月26日日曜日

わけがわからないぐらいに

日に日にせわしなさが募る。

英語を真面目にやろうと思ったが、それが三日だろうが、
三週間だろうが関係なくて、坊主になれば意味がない。
三月中にパスポートを取得して、
ゴールデンウィークにはイリノイにいる友人に
会いに行きたいなあと思ってはいたこともあったが、
ゴールデンウィークが目前に迫っても、
パスポートどころか、予定の一つもないままである。

仕事云々を抜きにしても、いくつか原因はある。

ひとつには、以前書いたように、ある事業の立ち上げを
目論んでいて、これも大層骨を折りながら遅々として
整った姿にならない憂鬱がある。
少しずつ勉強を進めていて、そういう意味では読書量も増えた。

もうひとつには、思うところあって書き始めているものの、
こちらも先が見えずに一進一退というところであるが、
勢いが大事であったりするので、途中でやめることは難しい。


そういえば、草なぎ君の勇姿について書いておこうと
思ったのだった。

「僕はたくさんお酒を飲みまして、
 自分でもわけがわからないぐらいになってしまいまして、
 大人として恥ずかしい行動を起こしてしまいました。
 とても反省しています。」

見事なスピーチだ! こんなことを真面目な顔で言わなきゃ
いけないことは、さらに恥ずかしいことだろう。

警察に連行されていくところを記事にされていて、
逮捕という惨事に対し憔悴しきった表情であるというような
解説がされていたが、そんなことよりも、
とにかく二日酔いで頭が痛いことのほうが、耐え難かったろうと思う。
それは、事件直後、
「憶えてないけど反省してます」と言っていたのに続いて、
「留置所で少し眠って落ち着きました」とコメントしていたのと同じ、
本心であると思う。

総務大臣だがか何かを言っていたが、まさか中川昭一の醜態を
忘れてしまったわけでもあるまい。

そういえば、さらに以前、プロ野球選手だった、
伊良部が酒を飲んで暴れて逮捕されたが、
生ビールを中ジョッキで20杯とか、ありえない量だったと思う。
一杯500MLとして、10リットルだ。10kgだ。


草なぎ君について何を書き留めようとしたのだったか。

2009年4月19日日曜日

推薦図書

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

この作品に出会うきっかけになったのは、
TSUTAYAのレンタルDVDコーナーだった。
タイトルからしてセンスを感じてはいたのだが、
映画 → 小説よりも、小説 → 映画 のほうが楽しめる
ように思っていて、それで放っていた。

現在の作家(同世代とも言えないが)の中では、
久しぶりに良い人に出会った。

なんだかいま疲れていて熱く書きとめる気力がないのだが、
田舎という舞台で演出されることによって際立つ都市性に
非常な印象をうけた。
浅ましい身勝手な人々は、互いを嫌悪しながら離れられずにいる。
寄り添いあい、傷つけあい生きている。

小難しく分解する気をおこさせない、
一つの塊として厚みをもっている作品は完成度が高い。
と思う。

演劇に最近興味がある。(みてないけど)

2009年4月12日日曜日

六本木モダン

今日は、国立新美術館に行って「アーティスト・ファイル2009」を観る。

9名のアーティスト(8名は日本人)が参加していて、絵画、立体、映像と
幅広くある。作家の年齢は、若くても30半ばといったところで、
やはりこういう場に20代が参加するのは難しいのだろうか。

 * * *

夢があるならまず言葉にして人に話せ、そうすれば運が向いてくる

と言われた。

それで言葉にしていたら、口だけじゃなく動かないと、
となる。そのことは本人が痛切に感じている。

 * * *

アート(僕の捉える範疇は学芸全般だが)の世界で
最も貢献できるとできることは、何だろうかと思う。
いまは“プレゼンテーション”ではないかと思っている。
これは村上隆の一部受け売りだが、アートは本来、外見だけで把握される
ものではなく、きちんと作品としてプレゼンテーションし、
伝えようという努力と、それ以前の、創作にあたっての強いメッセージと
それをどう表現するかという戦略性が必要なのである。
デュシャンが差し出した便器は、何の文脈もなければただの便器であるし、
学生の思いつきで留まってもやはり便器である。
美術という場を明晰に理解した上で、デュシャンほどの人物が
確信犯的に実行したからこそ、便器は芸術になり得た。
いまの(日本の)アートはプレゼンテーションがしょぼい。
その責任の所在が、作家にあるのかキュレーターなど周縁にあるのか、
メディアなのか、日本という市場なのか、
あるいは僕自身の勘違いなのか、まだ判然としていない。

きれいだとかかわいいだとかの表面的な感覚で処理されてしまってよし
とするなら、身内で楽しむ趣味レベルにして、小手先の技をみがけばいい。
しかし、そんなものは長続きしないし、受け手の心を揺さぶることなどできまい。
伝えようとする努力を怠るのは作家の弱さ、自信のなさの顕れである。

事業はもちろん、映画や音楽でも、プロジェクトで成果を出すなら、
適切なチームをつくることが大切だろう。
作家がチームを組むのことを恐れるなら、それは作家の保身以外の何物でもない。
単独で始末をつけなければ、主体性が脅かされるのではないかという恐れだ。

 * * *

動物化するポストモダン」を読む。
この書物で示唆していることは、一つには作品の組み立てであると思う。
(示唆的であるというのは読み手の意図によってある。 
 テクスト読解とはそのようなものだと今更ながら思う)

ここでは、ポストモダン以前(ややこしい言い方だが、1970年ごろより前)は、

超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことはだれもが知っているが、
しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、おおきな物語の見かけを・・・
信じなければならなかった時代


とまとめられる。つまり、

生は無意味だが、無意味であるがゆえに生きる、という逆説

なのである。

そしてポストモダンとは、平たくいえば、その逆説を逆説とせず、
生の無意味さを前提としながら、それとは別に今ある自らの生を捉え、
流れる時間を充足していく乖離的併存関係にある。

生は無意味だとしても、生きていることには変わらない

というある種の諦念を、動物化と呼んだのだと思う。

ここでの議論はまだ有効であると思う。

ただそろそろ10年を経とうとしたころに、
10年若い世代が主張するとするならば、

生は無意味であるにもかかわらず、生きなければならない

という二重の不毛に対する強い自覚と主体性であると思う。

それはもちろん芸術のあり方にも影響するに違いない。
次の世代の芸術は、作家からではなく、受け手からもたらされるだろう。

2009年4月9日木曜日

伝説1、2

スティーブ・ジョブスの演説。
すごいよなあ。
僕の感想なんかいいよね。


2009年4月5日日曜日

これから先どうなるかわからないことが次の一歩を踏み出す理由として素直に受け入れられる日に君と出会った

書き出すと長くなるので詳細には触れないことにするが、
アートをビジネスにしようと思っている。
これは結果論である。
端緒はもっとプリミティブに学芸活動全般に対する敬意があるし、
それは僕自身が小説を(片手間になりながら真剣に)書いているということにもある。
ともかく今はここまでに留める。

それで少しずつマーケットの状況を調べ始めていて、
自分の頭の中で描かれつつあるモデルの必要性、妥当性、発展性に
ついて、より具体的に考えるようにしている。

今日は、ART FAIR TOKYO という国内で最大らしいアートフェアに行った。



道中、このアートフェアにも出展していたギャラリスト・吉井仁実(男だった)の
現代アートバブル」を読む。

アートフェアには国内から100を超えるギャラリーが集まっていて、
アーティスト本人も何人か来ているようだった。

僕は美術について、知識も触れた体験も皆無に近く、
もちろん絵を描く技術もなければ、絵描きもと会う機会もほとんどない。
自分自身、絵を買ったこともない。
絵の価値 - もちろんMarket があれば、Priceもあり、単なる感覚ではなく、
経済学がある - について全くの無知の人間が、飛び込んでいっても、
買い手にも売り手にも全く相手にされないのではないか・・・
という不安がよぎる。その不安は当然のものだし、
居直っても仕方がない、明白なWeekness である。

しかし、アートフェアを異邦として探索しながら、だからこそ、
僕だからこそできる、アート・マーケットでのビジネスがあるように思い始め、
「現代アートバブル」はその直感を後押ししてくれた。

僕が空想しているものと類似のサービスはないこともないが、
どれもまだ真新しく、明確に成功しているものはなさそうだし、
何よりアートをわかる人間がわかる人間に対し提供する
クローズドなサービスであるに留まっていると思う。

ま、新参者だから新しいことができるなんていう甘っちょろい妄想は、
底の浅さと完成度の低さが露呈して、評価を受ける前に自滅する
というのが常ですけれど。

詳しくはまた別の機会に。
「現代アートバブル」は面白かったのでご興味ある方は一度ごらんになって。

2009年4月1日水曜日

April Fool

四月一日は雨の降る日だった。

今日入社式を迎えた方々、
短い学生生活を終えて、社会に押し出された方、
長い学生生活を終えて、終に企業に勤めることになった方、
みんなおめでとう。
あと何十年と生きていかなくてはいけない、世界へ。
(ようこそ、と胸を張って言えるほどの身分ではないけれど。)
そんなときに誕生日を迎えた方、
これまでの誕生日もこれまでの誕生日も、
社会中のばたばたに埋もれてしまったかもしれませんが、
ほんとうにおめでとう。

僕は嘘をつくのがめっぽう苦手で、
嘘の楽しい話を書こうと思ったけれど、
フィクションを書いても本心になってしまうのはどうしたものだろう?

裏表はないけど、裏も表もよく見えない。
一方で、そうなのかもしれない。


こんなことばかり書いててもよくないな。
だからといって、ユービックを読んだという話にしてもな。
フィリップ・K・ディックは大好きな作家だ。
ジャンルではSFだが、ちっともScience はない。
先日ある人と飲んでたときにどんな小説を書いてるんだ、
というので、SFと言った。
現実と思うものにゆさぶりをかける、現実と幻想がない混ぜになる。
幻想も現実であると知れる。次の一歩は目の前にあって、
次の一歩を踏み出すことで見える世界は、踏み出すことでしか、
たち現れることのない、永遠なる未来、不在としての存在としてあって、
幸福を志向することに素直になったとき、その不在を希望と呼ぶ。

True or not ?