昨日現代アートビジネスのセミナーを聞きにいった。
私費でセミナーにいくのは思い返せば初めてのことかもしれない。
主戦場、という言葉を最近よく使うようになった。
僕にとっての主戦場をどこに築きあげるのか。
何を武器に、何の(誰の)ために、何を賭けて闘うのか。
どのような答えに至ろうとも、その戦いのすべては架空、
でっちあげられたものであることは確かである。
・・このようなエクスキューズはもはや不要だろう。
セミナーの話に戻るが僕にとっての主戦場は言葉であると解した。
より正確にいうなれば、言葉にならぬものを言葉にする、
その言語化の作業であると思った。
一つの武器はインターネットであるし、もう一つには事業化である。
僕は学者でもなければ、ジャーナリストでもない。
自分探し的なことに言葉を費やすのは非常に草臥れるわけで、
ただそれも今しばらくは必要な作業なのだと諦めている。
* * *
色々と読み漁っているが、あまり書くことはない。
2009年5月31日日曜日
2009年5月24日日曜日
ためらい橋
築地で朝から仕事というと妙な響きである。
実際には、セミナーを主催しているというだけで、
鮨をみんなで食おうとか、冷酒をいっぱいやりながらとか、
そんなウマい話はない。
ただ昼飯は、築地で食う。
築地で朝からセミナーは二回目だったが、両日とも蕎麦を食った。
一回目は穴子天そばであり、
二回目の昨日は桜海老のかき揚げ天もりである。
少々贅沢な昼飯だが、築地にはそうしないではいられない響きがある。
住まいの場所によるが、これが勝どきで朝から仕事だと響くものもなくて
ただビル風が吹き抜けていく。だが、清澄白河と言われれば
悪い気のしないのはなんだろうか。
六本木一丁目とか四谷三丁目とか曖昧な場所では寝覚めが悪く、
鶯谷、青物横丁、西馬込に至っては何でそんなことになってしまったのか、
朝から悩ましいことになってしまう。
築地で一日仕事をした後、夜は月島でもんじゃを食う。
もんじゃなどはお好み焼きの出来損ないくらいに考えていたが、
月島で食べるもんじゃはうまかった。というより、
焼き方の問題なのである。
単純に言えば、初めに具を焼き土手を作ってそこにあれを流し込むわけだが、
旨さを分かつ手つきはもっと複雑で、店員さんに焼いて頂くのをみながら、
そうして、もんじゃのモチモチと旨いのを初めて知ったのである。
しかし、もんじゃと言えば、餅明太チーズである。
この組み合わせの妙は、賞賛に値する。
というような話にはほとんど意味がない。
書きたかったのは、ある人にすすめられたカズオ・イシグロについてで、
両親は日本人だが彼はイギリス人と言ってよくて小説も英語で書かれている。
「浮世の画家」を読んだが、この作品に漂う日本的なるものとは何だろうか。
舞台は戦後の日本であるし、その出生から作者に日本人の遺志を見出すことも
できるかもしれない。しかし、僕自身が日本的なるものを所有しておらず、
汎用的な世界観の中にいるがための共感であるように思った。
最近長々と書き過ぎるので、もう結びにしてしまうが、
そもそも「浮世」で揺れ動くのを絵画という形であろうがなかろうが、
いまここに生きているからというだけの理由で、
キャプチャーしようとするのは、そもそも無謀なのであって、
しかしどうしたって、いまここでしかありえないのは、
超越者たらざる人間の不具なのである。
その不具に対して自覚的であっても、世界から何かを掴みとろうと
するのは、もはや人間の本能と諦める以外ないのかもしれない。
この作品ではそれらの迷いを深く嘆くのでもなく、
端々にユーモアを交えていくのに生真面目である。
昼の戦時の社会から、夜の浮世の飲み屋街へとつながる入口が、
「ためらい橋」であったり、行きつけの飲み屋の店名が「みぎひだり」
だったり、いちいち可笑しい。
最後にどうしても付け加えないでいられないのは、
日本語訳が素晴らしいということだ。
翻訳でここまでの文章がかけるなら、
母語とは一体何だろうかとすら思うのであった。
実際には、セミナーを主催しているというだけで、
鮨をみんなで食おうとか、冷酒をいっぱいやりながらとか、
そんなウマい話はない。
ただ昼飯は、築地で食う。
築地で朝からセミナーは二回目だったが、両日とも蕎麦を食った。
一回目は穴子天そばであり、
二回目の昨日は桜海老のかき揚げ天もりである。
少々贅沢な昼飯だが、築地にはそうしないではいられない響きがある。
住まいの場所によるが、これが勝どきで朝から仕事だと響くものもなくて
ただビル風が吹き抜けていく。だが、清澄白河と言われれば
悪い気のしないのはなんだろうか。
六本木一丁目とか四谷三丁目とか曖昧な場所では寝覚めが悪く、
鶯谷、青物横丁、西馬込に至っては何でそんなことになってしまったのか、
朝から悩ましいことになってしまう。
築地で一日仕事をした後、夜は月島でもんじゃを食う。
もんじゃなどはお好み焼きの出来損ないくらいに考えていたが、
月島で食べるもんじゃはうまかった。というより、
焼き方の問題なのである。
単純に言えば、初めに具を焼き土手を作ってそこにあれを流し込むわけだが、
旨さを分かつ手つきはもっと複雑で、店員さんに焼いて頂くのをみながら、
そうして、もんじゃのモチモチと旨いのを初めて知ったのである。
しかし、もんじゃと言えば、餅明太チーズである。
この組み合わせの妙は、賞賛に値する。
というような話にはほとんど意味がない。
書きたかったのは、ある人にすすめられたカズオ・イシグロについてで、
両親は日本人だが彼はイギリス人と言ってよくて小説も英語で書かれている。
「浮世の画家」を読んだが、この作品に漂う日本的なるものとは何だろうか。
舞台は戦後の日本であるし、その出生から作者に日本人の遺志を見出すことも
できるかもしれない。しかし、僕自身が日本的なるものを所有しておらず、
汎用的な世界観の中にいるがための共感であるように思った。
最近長々と書き過ぎるので、もう結びにしてしまうが、
そもそも「浮世」で揺れ動くのを絵画という形であろうがなかろうが、
いまここに生きているからというだけの理由で、
キャプチャーしようとするのは、そもそも無謀なのであって、
しかしどうしたって、いまここでしかありえないのは、
超越者たらざる人間の不具なのである。
その不具に対して自覚的であっても、世界から何かを掴みとろうと
するのは、もはや人間の本能と諦める以外ないのかもしれない。
この作品ではそれらの迷いを深く嘆くのでもなく、
端々にユーモアを交えていくのに生真面目である。
昼の戦時の社会から、夜の浮世の飲み屋街へとつながる入口が、
「ためらい橋」であったり、行きつけの飲み屋の店名が「みぎひだり」
だったり、いちいち可笑しい。
最後にどうしても付け加えないでいられないのは、
日本語訳が素晴らしいということだ。
翻訳でここまでの文章がかけるなら、
母語とは一体何だろうかとすら思うのであった。
2009年5月22日金曜日
アルコーリズムの宴
読書の感想ばかり書いているのも、
どうかと思わないでもないが、
これでニュースとやらを取り上げてみても、
余計なことにとらわれるばかりで、先行きの不透明は増す一方なのである。
「1日平均ビール大びん1本(日本酒1合)未満を飲み、頼れる人がいない人の脳卒中の発症率は、飲まない人に比べて、1.2倍高いことが分かった。2本未満で1.8倍、3本未満で1.9倍の差が生じた。一方、頼れる人がいる人は、2本未満まで0.7~0.8倍と、飲まない人より脳卒中になりにくく、それ以上の大量飲酒になると1.2倍前後に高まった。」
なんなんだ、この事実は。事実にしてこの曖昧さはなんだ。
頼れる人、である。
例えば、インフルエンザに罹ったとなればどうだろう。
親は心配してはくれるだろうが近くにはいないし、
友人がどうこうより、まずは医者だろう。
医者は頼りになる。近くに大きな病院もあるし一安心だ。
しかし「吉野家で会計をしようと思ったら財布がなかった」
という場合はどうだろうか。
300円である。300万円の借金なら頼れる人は少ないがゆえに顔が浮かぶが、
300円ならどうだろう。
隣の客に借りる。これは、かなり勇気がいる。
300円を持ってきて欲しいと友達に電話する。
なんてことだ。人に頼ると、空になった丼を見つめながら、
一時間は待たなければならないだろう。
やはり他人に頼るなんて間違っている。この世で頼れるのは自分と、お金だけだ。
違う。そんなことでもなかった。
酒を飲まなければいいのだった。
しかし、それ以上に酒に頼っているのである。
この調査はいったい何がいいたいのだろう。
厚生労働省研究班の調査、とある。
しかも、「全国5県の男性約1万9000人を10年間追跡し」
このどうしようもない事実を発見したらしい。
この執念はどこから燃え上がるのだ。そんな粘り強い精神があるなら、
保険料の未払いを追跡したほうが、彼ら自身もよっぽど気が楽なはずだ。
しかも気になるのは「5県」の内訳である。
もしかしたら、島根県、鳥取県、群馬県、大分県、岐阜県、かもしれない。
だとしたら、正直、どうだっていい。鳥取県が愛媛県だったり、
群馬県が福島県だったりするかもしれないが、どうでもいいレベルは変わらない。
さらに、意味がよくわからないのは、この「大発見」についての
大阪大学教授の言である。
「みんなで楽しく飲めばストレスを解消し、脳卒中予防に役立つのではないか」
そんなことでいいのかよ。それなら全然気にする必要はなかった。
楽しく飲めば、大量に飲もうが、脳卒中になる確率はたかだか1.2倍である。
もはやよくわからない。この曖昧さの前にいっこうに太刀打ちできない。
日本の官僚が国費で10年間調査したことである。
この国はどこへ向かっていくのだろう。
その前に、5県以外はどうなんだ。
東京都だと頼れる人がいると2.0倍で、
1000万円以上の貯金があると0.2倍かもしれない。
しかし、現代のセグメントの網の目の中ではこの事実を受け入れ、
「発見」として喜んで掲載する、メディアがあるのである。
米医学誌アルコーリズム6月号
アルコーリズムである。
この思想はなんだ。おそらく、会員は全員二日酔いかアルコール中毒で、
この医学誌を読んで今日も、楽しく飲みに行くのだろう。
もう飲まなきゃやってられない、ということだと結論しても、
あながち間違いではないだろう。
厚労省、よくやってくれた。
そして次の「中部電力:エビセン量産機を開発 乾燥時間50分を2分に」
というニュースを見て、また愕然とし、中部電力がエビセンに込める想いを、
思案して、今度ばかりは、途方にくれるのである。
どうかと思わないでもないが、
これでニュースとやらを取り上げてみても、
余計なことにとらわれるばかりで、先行きの不透明は増す一方なのである。
「1日平均ビール大びん1本(日本酒1合)未満を飲み、頼れる人がいない人の脳卒中の発症率は、飲まない人に比べて、1.2倍高いことが分かった。2本未満で1.8倍、3本未満で1.9倍の差が生じた。一方、頼れる人がいる人は、2本未満まで0.7~0.8倍と、飲まない人より脳卒中になりにくく、それ以上の大量飲酒になると1.2倍前後に高まった。」
なんなんだ、この事実は。事実にしてこの曖昧さはなんだ。
頼れる人、である。
例えば、インフルエンザに罹ったとなればどうだろう。
親は心配してはくれるだろうが近くにはいないし、
友人がどうこうより、まずは医者だろう。
医者は頼りになる。近くに大きな病院もあるし一安心だ。
しかし「吉野家で会計をしようと思ったら財布がなかった」
という場合はどうだろうか。
300円である。300万円の借金なら頼れる人は少ないがゆえに顔が浮かぶが、
300円ならどうだろう。
隣の客に借りる。これは、かなり勇気がいる。
300円を持ってきて欲しいと友達に電話する。
なんてことだ。人に頼ると、空になった丼を見つめながら、
一時間は待たなければならないだろう。
やはり他人に頼るなんて間違っている。この世で頼れるのは自分と、お金だけだ。
違う。そんなことでもなかった。
酒を飲まなければいいのだった。
しかし、それ以上に酒に頼っているのである。
この調査はいったい何がいいたいのだろう。
厚生労働省研究班の調査、とある。
しかも、「全国5県の男性約1万9000人を10年間追跡し」
このどうしようもない事実を発見したらしい。
この執念はどこから燃え上がるのだ。そんな粘り強い精神があるなら、
保険料の未払いを追跡したほうが、彼ら自身もよっぽど気が楽なはずだ。
しかも気になるのは「5県」の内訳である。
もしかしたら、島根県、鳥取県、群馬県、大分県、岐阜県、かもしれない。
だとしたら、正直、どうだっていい。鳥取県が愛媛県だったり、
群馬県が福島県だったりするかもしれないが、どうでもいいレベルは変わらない。
さらに、意味がよくわからないのは、この「大発見」についての
大阪大学教授の言である。
「みんなで楽しく飲めばストレスを解消し、脳卒中予防に役立つのではないか」
そんなことでいいのかよ。それなら全然気にする必要はなかった。
楽しく飲めば、大量に飲もうが、脳卒中になる確率はたかだか1.2倍である。
もはやよくわからない。この曖昧さの前にいっこうに太刀打ちできない。
日本の官僚が国費で10年間調査したことである。
この国はどこへ向かっていくのだろう。
その前に、5県以外はどうなんだ。
東京都だと頼れる人がいると2.0倍で、
1000万円以上の貯金があると0.2倍かもしれない。
しかし、現代のセグメントの網の目の中ではこの事実を受け入れ、
「発見」として喜んで掲載する、メディアがあるのである。
米医学誌アルコーリズム6月号
アルコーリズムである。
この思想はなんだ。おそらく、会員は全員二日酔いかアルコール中毒で、
この医学誌を読んで今日も、楽しく飲みに行くのだろう。
もう飲まなきゃやってられない、ということだと結論しても、
あながち間違いではないだろう。
厚労省、よくやってくれた。
そして次の「中部電力:エビセン量産機を開発 乾燥時間50分を2分に」
というニュースを見て、また愕然とし、中部電力がエビセンに込める想いを、
思案して、今度ばかりは、途方にくれるのである。
2009年5月19日火曜日
スポーツ刈り
今週、ちょっと忙しいです。
ここしばらく、うだうだ言ってた五月病と思われる憂鬱は収まった感じ。
でも油断大敵、豚インフルに気をつけようぜ。
でないと社会から排除されちゃうよ。この豚野郎って。
うだうだにお付き合い頂いた方、あいすみません。
土曜日散髪に行った。
ここ四年ぐらい代官山の同じ美容室に通い続けている。
今年で開業五年目を迎える、ということだった。
拡張工事によりバルコニーにあって髪を切られながら見える桜の木は、
初々しい気負いとともに、その面影すらとどめなくなってしまったが、
いまでは10名を超えたスタッフが、落着きと安心感を整えてくれている。
28歳の店長は、僕が相手だからそうなのだろうが、
手先に集中して寡黙である。時々、美容院の経営について話してくれるが、
おもしろい。そんな美容師は、他にいないだろう。
女みたいな男に、ヘアカタログを見せれて、「どんなイメージがいい?」
とか聞かれても、いかん、虫唾が走る。彼なら、そんな野暮はしない。
「今日もさっぱりで?」
「はい。前回とちょっと違うさっぱりでお願いします。」
すばらしく洗練されたコミュニケーション。
それでも今回「やたらバリカン使うぞ」と思っていたら、
仕上がりは、昔懐かしい、スポーツ刈りだった。
いいけど。スポーツマンって思ってもらえるならいいけど。
寡黙な彼の手先と鏡に移る自分の顔をぼんやりと見ながら、
考え事をしていると、いいアイデアが浮かぶ。
顔にタオルをかけて頭を洗ってもらいながら、急にポジティブに啓ける自分がいる。
それで帰りには、ワインでも買って帰ろうかと思う。
あれ、そういうのないですか?
話変わって、GW中、あるイベントで谷川俊太郎さんを至近距離に見た。
おじいちゃんだった。
宇宙連詩っていう、魅惑的なイベントが近日ある↓
http://iss.jaxa.jp/utiliz/renshi/symposium09.html
宇宙に、参加費用を取るなんていう、せせこましい考えもなければ、
月曜日がどうという感覚も、当然ない。
ここしばらく、うだうだ言ってた五月病と思われる憂鬱は収まった感じ。
でも油断大敵、豚インフルに気をつけようぜ。
でないと社会から排除されちゃうよ。この豚野郎って。
うだうだにお付き合い頂いた方、あいすみません。
土曜日散髪に行った。
ここ四年ぐらい代官山の同じ美容室に通い続けている。
今年で開業五年目を迎える、ということだった。
拡張工事によりバルコニーにあって髪を切られながら見える桜の木は、
初々しい気負いとともに、その面影すらとどめなくなってしまったが、
いまでは10名を超えたスタッフが、落着きと安心感を整えてくれている。
28歳の店長は、僕が相手だからそうなのだろうが、
手先に集中して寡黙である。時々、美容院の経営について話してくれるが、
おもしろい。そんな美容師は、他にいないだろう。
女みたいな男に、ヘアカタログを見せれて、「どんなイメージがいい?」
とか聞かれても、いかん、虫唾が走る。彼なら、そんな野暮はしない。
「今日もさっぱりで?」
「はい。前回とちょっと違うさっぱりでお願いします。」
すばらしく洗練されたコミュニケーション。
それでも今回「やたらバリカン使うぞ」と思っていたら、
仕上がりは、昔懐かしい、スポーツ刈りだった。
いいけど。スポーツマンって思ってもらえるならいいけど。
寡黙な彼の手先と鏡に移る自分の顔をぼんやりと見ながら、
考え事をしていると、いいアイデアが浮かぶ。
顔にタオルをかけて頭を洗ってもらいながら、急にポジティブに啓ける自分がいる。
それで帰りには、ワインでも買って帰ろうかと思う。
あれ、そういうのないですか?
話変わって、GW中、あるイベントで谷川俊太郎さんを至近距離に見た。
おじいちゃんだった。
宇宙連詩っていう、魅惑的なイベントが近日ある↓
http://iss.jaxa.jp/utiliz/renshi/symposium09.html
宇宙に、参加費用を取るなんていう、せせこましい考えもなければ、
月曜日がどうという感覚も、当然ない。
2009年5月16日土曜日
生命の賛歌
田口ランディのブログ、というのがあった。
少し読んでみたが、おもしろい。
松尾スズキのブログは不景気の影響で(!)終わっちゃったし、
代わりにというテイストでもないが、読んでみようと思う。
そこで書かれていたのが、上記のリンクの文章で、
一度目に読んだときは、そうだな、と得心した気もして、
二度目に読んだいまは、少し違うな、と思った。
『困難や責任などのめんどうなことは「今はない」のである。だけれども「先にはあるかもしれない」と思い、先のことを考えて「めんどくさく」なってしまうのである。』
と言う。似ているが少し違う。
先のことを考えて面倒になるのは、今ではなく、未来である。
その未来を実現するのが、大変だからではなくて、
どのような未来を実現しても結局は同じように、
『別にいいけどね』の範疇だから、
先のことを考えて、ではなく、先のことに、めんどくさくなる。
そのめんどくささは、全てに先んじてある。
『現実レベルから一歩も出ないような意識状態で未来を先取りすれば、その未来は当然ながら現実が矮小化したものにならざるえない。この現実に大満足ならそれでもいいが、意識による未来の先取りなどものすごくリスキーであると思う。』
というのはまさに真理で、そのリスクは痛いほど知っている。
リターンがないが。
このリスクは、めんどくささと通底している、根源的なものである。
例えるなら、一歩一歩階段を昇っているようなもので、
一段ごとに景色は変わるし、はじめから登りつめた先の景色を想像して
どうこういうのも、確かに詮無いような気もするが、登りつめたところで、
「同じように違う」景色があるだけで、また次の一歩を探して、
昇るか何かする現実しかないのであって、そのことも含めて面倒だと思う。
そう思って上の言葉をみると、やはり違う。
未来は、未来としてあるのではなくて、いつだって、現在として迎え入れられる。
迎え入れられない未来を想定しても、それは、「できることなら・・・」
といっているのとかわらなくて、それ以上の不毛はない。
現在となった未来は、いつだって卑小である。
田口は呪縛というが、その呪縛から解放された若者に何を望むのか、
よくわからない。
呪縛などいうものはなくてただ現実がある。
現実を呪縛というなら、未来もいずれは現実になるし、
というより、そもそもはじめから、未来は現実の一部なのである。
未来は確かに未知である。しかし、どこまで未知を広げたところで、
現実以外のものではない。
『「できることなら……したいが、しょせん死ぬのだからめんどくさい」ということはないであろう。』
というが、死を想定しようがしまいが、
面倒だといっているのは現実についてであって、
現実は死に脅かされない。
現実を打ち破る死は、他でもない自分の死でなければならない。
先取りした未来に想定される死ではなく、いまここの死、である。
しかし、それこそ、現実レベルを超えたいから、
現実の死へ至ろう、というのでもないだろう。
自殺はどこまでいっても「想定した死」以上のものではないから、
どうにもならない。
それで、死ぬために、死刑になるために、殺人をおかした若者のことを
思い出したが、こうやって引き合いに出すのは軽率に過ぎるだろうか。
いずれにしても、田口の困惑はよく理解できるが、困惑していても仕方がなくて、
なぜなら生きている。
あんまり書くとまた暗いと心配される(^^; が、
これは生命への賛歌である。
話は変わるが、中学生の頃、好きだった女の子に、
「ネクラだね」と言われたことがあって、
ネクラという言葉をその頃知らなかったけど、
語感で意味はわかる。
そりゃー、ショックでしたよ。
こちらは元気に校庭を走り回って先生に反抗して、
もちろん読書なんかしてなかったしねえ。
彼女の言霊が、俺を呪縛するのだ。
いたいけな少年の胸に突き刺さった、呪いの剣なのだ。
G・ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』
は、こう始まる。
「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。」
少し読んでみたが、おもしろい。
松尾スズキのブログは不景気の影響で(!)終わっちゃったし、
代わりにというテイストでもないが、読んでみようと思う。
そこで書かれていたのが、上記のリンクの文章で、
一度目に読んだときは、そうだな、と得心した気もして、
二度目に読んだいまは、少し違うな、と思った。
『困難や責任などのめんどうなことは「今はない」のである。だけれども「先にはあるかもしれない」と思い、先のことを考えて「めんどくさく」なってしまうのである。』
と言う。似ているが少し違う。
先のことを考えて面倒になるのは、今ではなく、未来である。
その未来を実現するのが、大変だからではなくて、
どのような未来を実現しても結局は同じように、
『別にいいけどね』の範疇だから、
先のことを考えて、ではなく、先のことに、めんどくさくなる。
そのめんどくささは、全てに先んじてある。
『現実レベルから一歩も出ないような意識状態で未来を先取りすれば、その未来は当然ながら現実が矮小化したものにならざるえない。この現実に大満足ならそれでもいいが、意識による未来の先取りなどものすごくリスキーであると思う。』
というのはまさに真理で、そのリスクは痛いほど知っている。
リターンがないが。
このリスクは、めんどくささと通底している、根源的なものである。
例えるなら、一歩一歩階段を昇っているようなもので、
一段ごとに景色は変わるし、はじめから登りつめた先の景色を想像して
どうこういうのも、確かに詮無いような気もするが、登りつめたところで、
「同じように違う」景色があるだけで、また次の一歩を探して、
昇るか何かする現実しかないのであって、そのことも含めて面倒だと思う。
そう思って上の言葉をみると、やはり違う。
未来は、未来としてあるのではなくて、いつだって、現在として迎え入れられる。
迎え入れられない未来を想定しても、それは、「できることなら・・・」
といっているのとかわらなくて、それ以上の不毛はない。
現在となった未来は、いつだって卑小である。
田口は呪縛というが、その呪縛から解放された若者に何を望むのか、
よくわからない。
呪縛などいうものはなくてただ現実がある。
現実を呪縛というなら、未来もいずれは現実になるし、
というより、そもそもはじめから、未来は現実の一部なのである。
未来は確かに未知である。しかし、どこまで未知を広げたところで、
現実以外のものではない。
『「できることなら……したいが、しょせん死ぬのだからめんどくさい」ということはないであろう。』
というが、死を想定しようがしまいが、
面倒だといっているのは現実についてであって、
現実は死に脅かされない。
現実を打ち破る死は、他でもない自分の死でなければならない。
先取りした未来に想定される死ではなく、いまここの死、である。
しかし、それこそ、現実レベルを超えたいから、
現実の死へ至ろう、というのでもないだろう。
自殺はどこまでいっても「想定した死」以上のものではないから、
どうにもならない。
それで、死ぬために、死刑になるために、殺人をおかした若者のことを
思い出したが、こうやって引き合いに出すのは軽率に過ぎるだろうか。
いずれにしても、田口の困惑はよく理解できるが、困惑していても仕方がなくて、
なぜなら生きている。
あんまり書くとまた暗いと心配される(^^; が、
これは生命への賛歌である。
話は変わるが、中学生の頃、好きだった女の子に、
「ネクラだね」と言われたことがあって、
ネクラという言葉をその頃知らなかったけど、
語感で意味はわかる。
そりゃー、ショックでしたよ。
こちらは元気に校庭を走り回って先生に反抗して、
もちろん読書なんかしてなかったしねえ。
彼女の言霊が、俺を呪縛するのだ。
いたいけな少年の胸に突き刺さった、呪いの剣なのだ。
G・ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』
は、こう始まる。
「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。」
2009年5月13日水曜日
生と死について
田口ランディの「コンセント」と、飯島愛の「PLATONIC SEX」を
続けて読んだのは全くの偶然であるとは言いながら、そこに、
僕の企図が透けて見えるのも認めざるを得ない。
「PLATNIC SEX」について、書くことをためらう。
この作品ついて書くことが、飯島愛の死に及ぶことに、
非常な恐怖と不安があるからだと思う。
あと10年もすれば、彼女の死は、この作品と結びつけるかたちで
いろいろな批評の対象とされるだろうし、
2000年代を象徴する、ひとつのトピックとなるだろう。
「コンセント」を読んでない人も多いだろうから、
どう言ったものかと思う。
確かにこのブログは「あなた」に向けられたものではないし、
言い切ってしまえば、僕自身の自己満足の謂いでしかない。
しかし、僕に向けられた言葉は、少なからず「あなた」にも向かう
だろうと僕は思っている。そうでなくては、本当に生きている意味がない。
あるいは、生と死の違いを失ってしまう。
「コンセント」と「PLATNIC SEX」をどう解釈していくかは、
置いておいてもいい。
それでもこれを通じて、考えてしまうことがあり、
それは、生きていることと死んでいることの違い、についてだと思う。
シンプルに言うならそういうことだ。
だから僕は、生きている「あなた」に向かって書くのだと思う。
だからこそ、みんな、ひとりでは生きていけないのだと思う。
続けて読んだのは全くの偶然であるとは言いながら、そこに、
僕の企図が透けて見えるのも認めざるを得ない。
「PLATNIC SEX」について、書くことをためらう。
この作品ついて書くことが、飯島愛の死に及ぶことに、
非常な恐怖と不安があるからだと思う。
あと10年もすれば、彼女の死は、この作品と結びつけるかたちで
いろいろな批評の対象とされるだろうし、
2000年代を象徴する、ひとつのトピックとなるだろう。
「コンセント」を読んでない人も多いだろうから、
どう言ったものかと思う。
確かにこのブログは「あなた」に向けられたものではないし、
言い切ってしまえば、僕自身の自己満足の謂いでしかない。
しかし、僕に向けられた言葉は、少なからず「あなた」にも向かう
だろうと僕は思っている。そうでなくては、本当に生きている意味がない。
あるいは、生と死の違いを失ってしまう。
「コンセント」と「PLATNIC SEX」をどう解釈していくかは、
置いておいてもいい。
それでもこれを通じて、考えてしまうことがあり、
それは、生きていることと死んでいることの違い、についてだと思う。
シンプルに言うならそういうことだ。
だから僕は、生きている「あなた」に向かって書くのだと思う。
だからこそ、みんな、ひとりでは生きていけないのだと思う。
2009年5月9日土曜日
ペトシーンの丘
中途半端な時間に昼飯を食って、
最近なんだかもたれるようになったっつーか、
食欲減退気味っつーか、
スーパーで酒とつまみだけ買い夕食にする。
まるでアル中みたいだなんて思いながら、
安ワインが一本空いちゃいそうで、なんかこう、
面白いこと書いちゃって喜んでもらおうかなあ、なんて。
キボーなんてなくたって元気で頑張ってます、とか、
俺やっぱ世界一目指すわ、とか
別れたカノジョでオナニーしました、
とか、そういうのさ。
ホントかウソかなんて、ドーデモいいくせに、
眉間に皺寄せて、ウゼーなんてポーズは、
もういいよ。飽きた、そういうの。
「存在の耐えられない軽さ」について。
たった一人も幸せにできるかどうかあやしくて、
半ば、のたれ死んでる自分を想像して、羨望しているくせにさ、
「嘆願書を大統領に送ることより、地面に埋められているカラスを
掘り出すことのほうが、はるかに大切です」
っていう、言葉の意味を理解しようっておこがましいわけ。
「ただ一度なら、全然ないことと同じである。・・・歴史も個人の
人生と同じように軽い、明日はもう存在しない舞い上がる埃のような、
羽のように軽い、耐えがたく軽いものなのである。」
俺の人生。
「人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から
遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。」
この本はヴィレッジヴァンガード でみつけた。
恐るべし、よね。
何で書くんだろうって。ただ俺は、息子に受験勉強押し付ける親みたいに、
俺の何かしらかが、クズ共に認められなかったた何かが、
一度きりのこのクソみたいな人生を超越して、燦燦と輝くのを、
俺の範疇を超えるものに、託したかっただけなんだろうなあって。
そういう夢精する瞬間の無責任な幸福感に、
浸っていられる永遠があればいいなあって。
「人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと
走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。
幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。」
アル中でもないし、鬱病でもないし、フリーターでもないし、
でも、捨てるほどのものも持ち合わせていないのよ。
書くだけ書いてあれだけど、俺たいして追い詰められてないのよ。
余裕。これぞ大人の余裕ってやつ?
「ペトシーンの丘で銃を持った男に、『でも、これは私の希望ではないの』
といったように、いってやろうと思っている。」
最近なんだかもたれるようになったっつーか、
食欲減退気味っつーか、
スーパーで酒とつまみだけ買い夕食にする。
まるでアル中みたいだなんて思いながら、
安ワインが一本空いちゃいそうで、なんかこう、
面白いこと書いちゃって喜んでもらおうかなあ、なんて。
キボーなんてなくたって元気で頑張ってます、とか、
俺やっぱ世界一目指すわ、とか
別れたカノジョでオナニーしました、
とか、そういうのさ。
ホントかウソかなんて、ドーデモいいくせに、
眉間に皺寄せて、ウゼーなんてポーズは、
もういいよ。飽きた、そういうの。
「存在の耐えられない軽さ」について。
たった一人も幸せにできるかどうかあやしくて、
半ば、のたれ死んでる自分を想像して、羨望しているくせにさ、
「嘆願書を大統領に送ることより、地面に埋められているカラスを
掘り出すことのほうが、はるかに大切です」
っていう、言葉の意味を理解しようっておこがましいわけ。
「ただ一度なら、全然ないことと同じである。・・・歴史も個人の
人生と同じように軽い、明日はもう存在しない舞い上がる埃のような、
羽のように軽い、耐えがたく軽いものなのである。」
俺の人生。
「人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から
遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。」
この本はヴィレッジヴァンガード でみつけた。
恐るべし、よね。
何で書くんだろうって。ただ俺は、息子に受験勉強押し付ける親みたいに、
俺の何かしらかが、クズ共に認められなかったた何かが、
一度きりのこのクソみたいな人生を超越して、燦燦と輝くのを、
俺の範疇を超えるものに、託したかっただけなんだろうなあって。
そういう夢精する瞬間の無責任な幸福感に、
浸っていられる永遠があればいいなあって。
「人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと
走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。
幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。」
アル中でもないし、鬱病でもないし、フリーターでもないし、
でも、捨てるほどのものも持ち合わせていないのよ。
書くだけ書いてあれだけど、俺たいして追い詰められてないのよ。
余裕。これぞ大人の余裕ってやつ?
「ペトシーンの丘で銃を持った男に、『でも、これは私の希望ではないの』
といったように、いってやろうと思っている。」
2009年5月6日水曜日
希望について
希望という言葉に臆病になったのはいつからだろう。
気付けばそこにあって、永遠に付き合っていかなければならない
ホクロに対峙しているかのような、脱力的な諦観。
希望に対する、この根源的遅れを、悔いるようになった。
社会に責任転嫁したところで解決にならないどころか、
追い詰められたような気分にしかならないのは、
希望が、結局は個人的な体験であるからだ。
村上龍が「この国には何でもある。・・・だが、希望だけがない」
と書いたのは、ちょうど十年ぐらい前だった。
宮台信司はそれより少し前の1995年に「終わりなき日常を生きろ」
と題し、これを書いているのだが、オウム真理教の事件を受けてのことだった。
明確な悪があると、「日常」をそれに抗して象ることができる。
しかし、宮台自身も書いているように、
オウムという悪は「あっと言う間に風化」した。
東京から遠く離れた(地下鉄すら存在しない)田舎にいた僕は、
その巨悪に怯むことはあってもリアリティはなかった。
それは単に無知の問題かもしれない。
話を本書に戻すと、ブルセラ少女の「終わりなき日常」と、
60年代SFの「ハルマゲドン後の新たな精神文明」を対比しながらの
考察は、非常にすっきりとしているし面白いし、
僕自身(理系男子)核戦争後の日常を書いたこともあって(最近だけど)、
素直に理解できる。
しかし宮台は「終わりなき日常」を受容せず希望の光を求めることの
逆説的な危険性を指摘しながらも、肝心の「終わりなき日常」を生きるキツさ
を乗り越える知恵については、本当にそれを具して生きるに足るものを
まったく提示できていないように思う。
宮台が繰り返し強調する「コミュニケーション・スキル」とは
いったい何のことなのか。僕にはちっともわからない。
(「宗教のオンブズマン」は理解できなくもないが冗談としか思えない。)
もっと正確に言えば、希望のない世界には期待せず「まったりと」生きなさい、
というのが、本書の結論といえば結論なのである。
とはいえ、最近のビジネス系ハウツー本や占い本も含めて一切合財の
コミュニケーション力ハウツーの流行は、宮台の議論の延長線上かも知れなくて
機会があれば、それについて考えてみるのも面白いと思う。
しかし、根本のところで、僕たちの希望は店晒しのままであって、
それを救済しない限りにおいて、少しの議論も不毛であると僕は感じている。
(いま宮台が何を書いているのか知らないことを断っておく。)
日常が終わらなかろうが、生は終わりに向かって刻々と流れているし、
刻々と選択をし続けていかなければならないのは変わらないからだ。
といっても、僕にも答えはなくて、答えがないということを知りながら
そう言ってしまうのだから、困ったものなのである。
本書で、宗教も危ういし「恋愛」であればと、少し書いてある。
僕も落としどころは「恋愛」くらいかなあ、と思わないでもなくて、
まあそれで、他人の恋の話や、デートノウハウに興味津々の
最近のメディアの姿勢は、世相なのだと妙に納得したりはするが。
気付けばそこにあって、永遠に付き合っていかなければならない
ホクロに対峙しているかのような、脱力的な諦観。
希望に対する、この根源的遅れを、悔いるようになった。
社会に責任転嫁したところで解決にならないどころか、
追い詰められたような気分にしかならないのは、
希望が、結局は個人的な体験であるからだ。
村上龍が「この国には何でもある。・・・だが、希望だけがない」
と書いたのは、ちょうど十年ぐらい前だった。
宮台信司はそれより少し前の1995年に「終わりなき日常を生きろ」
と題し、これを書いているのだが、オウム真理教の事件を受けてのことだった。
明確な悪があると、「日常」をそれに抗して象ることができる。
しかし、宮台自身も書いているように、
オウムという悪は「あっと言う間に風化」した。
東京から遠く離れた(地下鉄すら存在しない)田舎にいた僕は、
その巨悪に怯むことはあってもリアリティはなかった。
それは単に無知の問題かもしれない。
話を本書に戻すと、ブルセラ少女の「終わりなき日常」と、
60年代SFの「ハルマゲドン後の新たな精神文明」を対比しながらの
考察は、非常にすっきりとしているし面白いし、
僕自身(理系男子)核戦争後の日常を書いたこともあって(最近だけど)、
素直に理解できる。
しかし宮台は「終わりなき日常」を受容せず希望の光を求めることの
逆説的な危険性を指摘しながらも、肝心の「終わりなき日常」を生きるキツさ
を乗り越える知恵については、本当にそれを具して生きるに足るものを
まったく提示できていないように思う。
宮台が繰り返し強調する「コミュニケーション・スキル」とは
いったい何のことなのか。僕にはちっともわからない。
(「宗教のオンブズマン」は理解できなくもないが冗談としか思えない。)
もっと正確に言えば、希望のない世界には期待せず「まったりと」生きなさい、
というのが、本書の結論といえば結論なのである。
とはいえ、最近のビジネス系ハウツー本や占い本も含めて一切合財の
コミュニケーション力ハウツーの流行は、宮台の議論の延長線上かも知れなくて
機会があれば、それについて考えてみるのも面白いと思う。
しかし、根本のところで、僕たちの希望は店晒しのままであって、
それを救済しない限りにおいて、少しの議論も不毛であると僕は感じている。
(いま宮台が何を書いているのか知らないことを断っておく。)
日常が終わらなかろうが、生は終わりに向かって刻々と流れているし、
刻々と選択をし続けていかなければならないのは変わらないからだ。
といっても、僕にも答えはなくて、答えがないということを知りながら
そう言ってしまうのだから、困ったものなのである。
本書で、宗教も危ういし「恋愛」であればと、少し書いてある。
僕も落としどころは「恋愛」くらいかなあ、と思わないでもなくて、
まあそれで、他人の恋の話や、デートノウハウに興味津々の
最近のメディアの姿勢は、世相なのだと妙に納得したりはするが。
2009年5月3日日曜日
「蛇にピアス」の所有をめぐる闘争
同世代の作家の不在あるいは期待と言いながら、
僕は金原ひとみという存在を避けていたのだと思う。
二十歳に芥川賞を受賞という輝かしい実績は、
何よりも僕にとって早かった。
蜷川幸雄が映画化したというので読んだ。
むしろ蜷川幸雄を通じてはじめて僕は金原ひとみと
向き合うことができたのだと思う。
以下は、作品の内容に触れるし、
読んでいない方にもわかるようには書かない。
「蛇にピアス」をめぐる所有について、である。
所有という語は、小説をかなり忠実に再現したと言える映画の中で
より鮮明に表出される。
小説では、龍と麒麟の刺青を完成させた後、ルイがこう話す。
所有、というのはいい言葉だ。(略)やっぱり人は人間も物も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているのだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れる事はない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。
龍はアマの、麒麟はシバの身代わりである。ルイはそれを所有し、
かつ、アマ、そして、シバはともに、ルイを所有しているという、
共犯関係にある。瞳のない龍と麒麟は、ルイという舞台に閉じ込められ争う。
いや、それは、争いというよりも、ルイの血肉となって同居していたはずだった。
裏切りはルイから始まる。
それはなぜか? なぜ、念願の龍と麒麟の刺青を完成させた後、
生きる気力を失い、「しょっちゅう」死を、つまりは所有関係の解散を
願うようになるのか。スプリットタンに至ることへの焦り、
それは死への焦りに似てはいなかったか。
(解説での村上龍の問いの一つ目はこれだ。)
ところで、刺青が象徴するとはいえ、ルイ、アマ、シバにとっての
所有関係とは具体的にどのような関係であったろうか?
本名も年齢も職業も、何もしらない彼らの関係は、
果たして所有と呼べるほどのものだったろうか?
携帯の電源をOFFにして隣町に逃げ出せばそれで、
東京の人混みに紛れて終わる。例えばそういうことだ。
それを痛みという、この映画のキーセンテンスで説明してしまうのは
あまりにも容易だ。なるほど、ピアスや刺青に表される
肉体的痛みは、自分の生を確認する大切な手法だったに違いない。
アマの犯す第一の殺人、シバの犯す第二の殺人と、
横滑りしながらそれらの痛みを引き受けていくルイ。
SとMと言ってもいいが、傷つけあい痛みあう関係こそが、
彼らの所有感であって、幸福な家族が築く関係とは対極に位置していた。
シバがルイの本名を聞いたその日からシバは家族的な愛情を示すようになった。
例えば結婚という言葉が予期したように。
金原ひとみは、自らのスプリットタンや刺青に対する不思議な欲望を、
ルイに投影させることによって昇華した。
アマはルイの痛みをすべて引き受けて死んだ、とも言える。
しかし、この連鎖はいつまで続くのだろう?
そしてそのあまりにも過酷な連鎖に、人は耐えうるだろうか?
2003年、この年、僕は19歳、大学二年生だった。
SARSが流行して、六本木ヒルズがオープンし、
スーパーフリー事件がおこった。
僕は得体の知れぬ東京の波に飲まれ、四苦八苦していた。
いまも根本的には何も変わっていない、といえばそうだ。
むしろ追い詰められていくような閉塞感は増しているはずだ。
僕は金原ひとみという存在を避けていたのだと思う。
二十歳に芥川賞を受賞という輝かしい実績は、
何よりも僕にとって早かった。
蜷川幸雄が映画化したというので読んだ。
むしろ蜷川幸雄を通じてはじめて僕は金原ひとみと
向き合うことができたのだと思う。
以下は、作品の内容に触れるし、
読んでいない方にもわかるようには書かない。
「蛇にピアス」をめぐる所有について、である。
所有という語は、小説をかなり忠実に再現したと言える映画の中で
より鮮明に表出される。
小説では、龍と麒麟の刺青を完成させた後、ルイがこう話す。
所有、というのはいい言葉だ。(略)やっぱり人は人間も物も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているのだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れる事はない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。
龍はアマの、麒麟はシバの身代わりである。ルイはそれを所有し、
かつ、アマ、そして、シバはともに、ルイを所有しているという、
共犯関係にある。瞳のない龍と麒麟は、ルイという舞台に閉じ込められ争う。
いや、それは、争いというよりも、ルイの血肉となって同居していたはずだった。
裏切りはルイから始まる。
それはなぜか? なぜ、念願の龍と麒麟の刺青を完成させた後、
生きる気力を失い、「しょっちゅう」死を、つまりは所有関係の解散を
願うようになるのか。スプリットタンに至ることへの焦り、
それは死への焦りに似てはいなかったか。
(解説での村上龍の問いの一つ目はこれだ。)
ところで、刺青が象徴するとはいえ、ルイ、アマ、シバにとっての
所有関係とは具体的にどのような関係であったろうか?
本名も年齢も職業も、何もしらない彼らの関係は、
果たして所有と呼べるほどのものだったろうか?
携帯の電源をOFFにして隣町に逃げ出せばそれで、
東京の人混みに紛れて終わる。例えばそういうことだ。
それを痛みという、この映画のキーセンテンスで説明してしまうのは
あまりにも容易だ。なるほど、ピアスや刺青に表される
肉体的痛みは、自分の生を確認する大切な手法だったに違いない。
アマの犯す第一の殺人、シバの犯す第二の殺人と、
横滑りしながらそれらの痛みを引き受けていくルイ。
SとMと言ってもいいが、傷つけあい痛みあう関係こそが、
彼らの所有感であって、幸福な家族が築く関係とは対極に位置していた。
シバがルイの本名を聞いたその日からシバは家族的な愛情を示すようになった。
例えば結婚という言葉が予期したように。
金原ひとみは、自らのスプリットタンや刺青に対する不思議な欲望を、
ルイに投影させることによって昇華した。
アマはルイの痛みをすべて引き受けて死んだ、とも言える。
しかし、この連鎖はいつまで続くのだろう?
そしてそのあまりにも過酷な連鎖に、人は耐えうるだろうか?
2003年、この年、僕は19歳、大学二年生だった。
SARSが流行して、六本木ヒルズがオープンし、
スーパーフリー事件がおこった。
僕は得体の知れぬ東京の波に飲まれ、四苦八苦していた。
いまも根本的には何も変わっていない、といえばそうだ。
むしろ追い詰められていくような閉塞感は増しているはずだ。
2009年5月2日土曜日
迷いの果てに
「何に迷っているのだ?」と問われて、僕は言葉に窮した。
それは僕が選択に躊躇しているからではなくて、
この透明な世界に生きることのイノセンスを、
所与のものとして引き受けている僕と言う主体が抱える
根源的な遅れに、その原因があるように思う。
実存主義的にというとさらに話はややこしくなるが、
<生-死>という一連の繋がりが、主体の選択によって、
世界と同じ平面状で屹立する場合には、
選択は意志となり得る。
しかし、この世界が、完全なるものとしてある限り、
(なぜ完全なのかと言い出すと長くなるので置いておく)
<生-死>の対立軸をあえて持ち込もうとするのは、
世界に対する主体性としてというより、
主体性への飢えがつくりあげる強迫観念でしかない、
と言える。
世界がたとえ完全なものであったとしても、
僕たち(と敢えて複数形で語る)は、その中においても
やはり選択を繰り返している。
<非決定>の透明な世界における、決断の数々は、
たとえばRPGにおける勇者の一歩のようだ。
ところが、そうであったにせよ、僕たちは進まなければならない。
映画のフィルムが流れるように、押し出されるようにして進む。
ひとつひとつの決定は自作自演で織られていく。
僕たちの迷いは、そういう意味で多層化している。
軽々に口にするべきではないと思うが、
先の連続殺人で、容疑者が死刑になりたかったという
語りは、僕たちの危うさが滲んでいるように思う。
どうして自死という選択が彼の中になかったか。
あるいはなぜ単純な暴力の狂気として発露しなかったか。
僕たちは何に迷っているのか?
その問いは多層化した僕たちの狭間にしみ入り、
僕たちはその問いの前で、自らの弱さを自覚する。
時は流れていく。
* * *
ゴールデンな日々の幕開けなのに、暗い話になってしまった・・・
それは僕が選択に躊躇しているからではなくて、
この透明な世界に生きることのイノセンスを、
所与のものとして引き受けている僕と言う主体が抱える
根源的な遅れに、その原因があるように思う。
実存主義的にというとさらに話はややこしくなるが、
<生-死>という一連の繋がりが、主体の選択によって、
世界と同じ平面状で屹立する場合には、
選択は意志となり得る。
しかし、この世界が、完全なるものとしてある限り、
(なぜ完全なのかと言い出すと長くなるので置いておく)
<生-死>の対立軸をあえて持ち込もうとするのは、
世界に対する主体性としてというより、
主体性への飢えがつくりあげる強迫観念でしかない、
と言える。
世界がたとえ完全なものであったとしても、
僕たち(と敢えて複数形で語る)は、その中においても
やはり選択を繰り返している。
<非決定>の透明な世界における、決断の数々は、
たとえばRPGにおける勇者の一歩のようだ。
ところが、そうであったにせよ、僕たちは進まなければならない。
映画のフィルムが流れるように、押し出されるようにして進む。
ひとつひとつの決定は自作自演で織られていく。
僕たちの迷いは、そういう意味で多層化している。
軽々に口にするべきではないと思うが、
先の連続殺人で、容疑者が死刑になりたかったという
語りは、僕たちの危うさが滲んでいるように思う。
どうして自死という選択が彼の中になかったか。
あるいはなぜ単純な暴力の狂気として発露しなかったか。
僕たちは何に迷っているのか?
その問いは多層化した僕たちの狭間にしみ入り、
僕たちはその問いの前で、自らの弱さを自覚する。
時は流れていく。
* * *
ゴールデンな日々の幕開けなのに、暗い話になってしまった・・・
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