今日、田口ランディが「アール・ブリュット」について
話すというので、軽い二日酔いのなか
大崎にあるO美術館に出かけた。
最近飲みだすと止まらない。
回数はそれほど多くないが一回が重い。
昨夜もがぶがぶと行儀悪しく飲んでいたが、
一緒に飲んでいたなかの素敵な大人の女性が
「そういうの好きよ。」というので素直に興じた。
その後はひどかったが・・・長時間飲んでいてよいことはない。
田口ランディについては以前紹介した「コンセント」と「アンテナ」の
二作を読んだだけで、あとはブログをみている。
話の内容は当然のことながら、
ブログで書かれていることと重なる部分が多く、
僕の想像していた通りのテンションの高い明け透けなおばちゃんが
愉快そうに話しているのを見るという楽しみ以上のものは少なかったが。
ただ過去について、特に作家になったきっかけについての話は
興味深かった。彼女がアール・ブリュットに関わるのも、
それが美術としてどうというより、創作する衝動に向けられていて、
それは作家である限り常にそうだと思うし、そういう意味で、
アール・ブリュットという世界は創作の衝動を端的に体現できる。
創作が衝動の吐露だということはわかる。無目的的に自分自身の暗闇をまさぐって引っ張り出すことによって、自らの生命が白日の下にさらされ、それが生きることのリアリティにつながる。わかりきった感情や合目的的な論理などまったく書くに値しない。ただ、表現のレベルに落とし込み、作品として他者の視線に触れることによって、作品は作品として自立する。批判も共感も取り込みながら作品は社会化されていく。作家は自身の未知を表現すること、それ自体によって少なからず社会化せざるを得ないというアンチノミーを常に宿している。
作家の、あるいは作品の公共性、意味、目的、なんと呼んでもいいが、創作する無意識的衝動とは別に、創作することを通じての目的を考えることは出来ないか?
こんな長ったらしくはないが、上記のようなことを僕は質問した。
(どうやって 笑)
アンテナで書かれていたように「目的と手段は違う」のだ。
彼女の回答はいたってシンプルで、
「意味なんてないよ。生きていること自体に意味がないだから。」
というようなものだった。
でもどうせ生きるなら楽しく豊かに生きたい、と。
生きることに意味がないことなんて言われなくたって
わかっている。その次を誰かに語ってほしかったのだ。
笑ってごまかすには、生きることはあまりにも深刻過ぎる。
さて今日もこれから飲みに行く・・・。
2009年7月18日土曜日
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7 件のコメント:
生きることに意味が有ろうがなかろうが、
生きていて感じたり考えたりしている自分は一応実感していて、
ひとりでポツネンとしてるのは寂しいので、
絵を描いてみたら、
意外と絵ってやつは話せる奴で楽しかった。
「こいつ、なかなか面白いんだぜ」
と友達に紹介したくなって飲み会に連れ出すことにした。
思いつきだけど、
書いてみたらけっこうしっくりくるなぁ、
この言い方。
アール・ブリュットは独話的なところが
あまり好きじゃないけど、
その分パワーがすごいので興味はあるなあ。
ふむ。
よくわかる気がする。
飲み会に連れ出して紹介を一通りすます。場は和みはじめ、絵はその場にいる誰それと楽しそうに話をしている。
飲むことにいちいちもったいぶった理由を求めることはないけれど、
でも楽しかったねというだけじゃなくて、そのふれあいのなかに生きている実感があったりするからこそ、飲みもするし絵もつれていく。
その飲みの場で絵が何を語り出すのかを問うことに、意味がないとは言いたくないんだよねえ。
ってわかりやすい比喩かなどうかな。
意味があるか…と考えると意味って言葉自体に不満が出て、意味があるかは分からないけど、
とにかく連れ出す甲斐があるのは確かだ。
誰それは楽しかったって言ってるんだ。
絵は口が堅くて、誰それと何を話したのかは教えてくれないけど、含みある表情はするようになる気がする。
自己満足じゃない気がする気がする。
意味という言葉が災いしているのかもしれない。意味ということに、過大な期待をしたし、大変な落胆もしたんだ。
恋に恋するみたいに、意味を追いかけていたんだ。
もう意味なんていわないようにしよう。
口の堅いそいつ、小説なら饒舌に話をするけれど、こいつも同じように身に迫るときになると急に口をつぐんで答えを待ったりする。
でも、そいつは友達のような顔をして君の手が生み出したんだ。君の、その眼前にある手が。だからといって特別な優越感も、独善的な世界観もないんだけど、でもそうであることは事実じゃないか! あたかも腹を痛めて生命を生むように。
僕はそれを自己満足だなんて思っちゃいない。君の手が生み出したからって、君という殻に収まった籠の鳥じゃない。でも空想のなかの青い鳥じゃない。すぐそこにそいつはいる!
生み出した君がいざなったんだ。
君がいたからこそあったんだ。
君という主語がうざったいなら、それを世界と俺は言おう。
君はなぜそいつを産んだのか。
そのなぜを問うことがバカらしいというやつを俺は信じない。
そうじゃないか?
この議論、もう少し続けたいな。なんとかレスをしてちょうだい。
うーん、なぜだろう。
何かあれば描く。
「何か」っていうのは奇麗な景色とか、退屈な一日とか「何でも」だけど、何か感じると表すことにつながる。
何故描くのかは…よく分からない。
すごく自然なことの気もするし、
別にしなくても良いような気もする。
俺、という人間は俺自身でありながら、
同時に俺じゃないのかもしれない。
自分がいるのは周りに世界が有るから。
自分以外の世界と自分は、互いになくてはならない存在だ。
そうだとすると、絵を生んだのは俺じゃなく、世界なのかもしれない。
とにかく、世界から孤立したら絵は描けないと思う。
世界だか、宇宙だか。
「君がつくったんだ」というのをあまりに強調しちゃったけど、君というのと世界というのと僕のなかでは意味に差はないけどね。
子供を産むのだってどこまでがその本人の意図というか責任のうちにあるかというと曖昧だったりする。生命そのものが生命を産むのだといってもいい。
そうだ、子供を産むことに意味がないというだろうか。なぜ子孫を残そうというのだろうか、意味のない生を一つ増やすだけなのだとしたら。
しかしまあ、意味を問うのもなぜと言うのも僕はなんて忠実なモダニストなんだろう笑
子どもは、親と宇宙と一続き。
作品は、俺と宇宙と一続き。
お椀は、職人と宇宙と一続き、お吸い物へ続く。
銀河をいただく。
出し巻き卵がうずまく。
わさび流れ星つーん。
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