@休憩中です。
村上春樹がイスラエルの文学賞「エルサレム賞」の授賞式で
語った言葉が大きな反響を呼んでいる、らしい。
いまならここで全文読める。
エルサレムという地で、知的なユーモアを交えながら、
外国語で講演できる小説家もそうはいなかろうが、
その内容がまた良い。
巧妙なうそ、つまり真実のような作り話によって、小説家は真実を新しい場所に引き出し新しい光を当てることができる・・・私たち(小説家)は、隠れている真実をおびき出してフィクションという領域に引きずり出し、フィクション(小説)の形に転換することで(真実の)しっぽをつかもうとします。ここまでは常識的なくだりである。
それに続く言葉がある。
真実とは何か、光とは何か、
真実をつかむためのフィクション、という逆説はなぜ成り立つのか?
私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです。・・・小説家の仕事は、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだと信じています。・・・私たちが来る日も来る日も、きまじめにフィクションを作り続けているのは、そのためなのです。真実に光を当てる、というのは、個人を単独性において見ることである。
その単独性は、何かによって規定されたり価値づけられたりするものではなく、
“光をあて続ける”という行為の中でおいてのみ浮かび上がる。
意図の中にだけ存在する、虚構とは呼ばぬ、影とも呼ばぬ、しかし、
永遠につかみきれない、刹那的存在でありその堆積である。
世界は厳然と存在している。時は流れている。
生命はあるところで芽吹き、あるところで絶えている。
私たちは“世界”をいくら眺めても、人間の単独性などというものを
導き出すことはできない。それは、偶像をいくら崇めたとしても、
そこにあるものは、木であり土であり、鉄であるところの彫刻で
しかないのに似ている。
光、とは何か。世界に存在する光を弄んでもその光は世界に回収されてしまう。
世界を別の目で眺めること。それには“嘘”の光で世界を照らすことが、
畢竟、必要なのである。
世界に回収されない光を、人間(往々にして架空の!)に浴びせた時、
真実としての人間の単独性は鮮やかに浮かび上がるのだ。
私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。体制とは何か? 国家、企業、軍隊。経済、政治、歴史、教育。
これらは体制だろうか。
家族、食事、入浴、衣類、土地、愛情、平和、思想。
これらも私たちが作った。私たちはそれに依存している。
これらは体制ではないだろうか?
「私たちは世界に回収されない。私たちは主語になり得る。」
ここまで書くと、村上春樹の小説はいつだってこうだったと
はたと思う。
ところで、なぜこうまでして単独性について語らねばならないのだろうか。
ひとつには他に逃げ場がないからだ。
村上春樹は、じっと佇んでいた。その姿は一つの時代をつくった。
進むと決めれば道はふたつある。後戻りを始めるか、構わず前に進むかだ。
“世界”を見つめようとする意識が残っている限り、前には進めない。
“世界”を諦めること。フィクションをフィクションとせず、
それによって新たな世界を創造すること、その繰り返しの中にしか、
次なる道を見出すすべはない。