2009年3月20日金曜日

われら

何でこう雨ばかり降るのだろう。

滞留する曇、乱雑に降り落ちる雨、濡れそぼつ街、
あなたはそれを見て何を思うだろうか?


一片の雲にもけがされていない青い空。(古代人の趣味というのは実に野蛮なものだった。この不合理で乱雑な、愚かしく押しあいへしあいしている蒸気のかたまりが古代の詩人たちにインスピレーションを与えることができたのだから。)私が愛するのは --われらが愛する、といってもまちがいないはずだ-- ・・・滅菌された、非難の余地のない空だけである。


われら』で描かれる世界で、人々は時間律法の通り一斉に起床し、働き、眠りに付く。ガラス張りの部屋で生活し、部屋のID(O-112号)が、彼の名前である。一日に二時間ある、自由時間には政府から「ピンククーポン」を買い、ガラス張りの部屋にブラインドを降ろし、好きな相手とセックスする許可が与えられる。
煎じ詰めたような合理的、社会主義の世界・・・私有財産は一切認められず(子供すら私物ではない)、創造力・自由・個性、それらはすべて暴力、不幸、不安の源泉となるものであって、澄み切った空のように何もない心、結晶の原子配置のように整然とした生活こそが、「われら」-決して「われ」を単独で捉え得ぬ- の理想である。

なぜ私たちは「われら」で描かれる世界に、違和感を感じざるを得ないのだろうか?
「毛むくじゃらの手」を眺めて、私たちは幻惑される。
本当の私たち、私たちの本能とは、何を求めているのだろうか?
創造力は、私たちを幸福へと導く光だろうか? それとも死に至らしめる病だろうか?

現実と幻想が交差する、正確には、流れゆく時間を「現実」「幻想」と区分していく私たちの勤勉が、さらに加速する流れの中で破綻し始める、まるで砂上に造る城が風に曝され、サラサラと崩れ落ちていくように・・・嘲り笑う声に出会う。私たちは自らの卑小に恥じ入る、・・・しかし、私たちは誰の声を聞いたのだろうか? それは私たち自身の声ではないだろうか?

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