岩井俊二の映画が観たくなって
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を
TSUTAYAでレンタル。
50分間のごく短い映像のなかに幼い頃の自分が濃密に溶け出していて、
冬本番を迎えようとするいまにこそあえて、
幼い彼らの小麦色の肌や前歯の欠けた笑顔を観るというのも、
遠ざかっていく記憶の熱といまここに無理をして造り上げた青春の儚さが
よりリアルに感じられてよかったと思う。
そのなかで少女の美しさは格別だった。
おそらくと思っていたが、確かに十五年以上前の奥菜恵だった。
人間劣化していくものだなあと思う。
十代の半ばで美しさの頂点を極め、
あとは転がり落ちていくだけのものであるとすれば、
余りに年老いてからの人生は長すぎるように思う。
なんだか少女趣味に聞こえてくるが実際は全然違う・・・。
これはただの感傷です(キッパリ)。
何の話だっけ。
この映画の主題は実にわかりやすいので敢えて書く気もおきなくて
ホースで水をかけたり、浴衣の裾がはだけたりする奥菜恵の映像が
よみがえってきたのだった。
打ち上げ花火と夏祭り、それらはあまりに恋に似合いすぎる。
東京のそれはあまりに人が多すぎて疲れる以外にないが。
そういえば昔、僕と、僕が好きだった女の子と、その女の子が好きな男と、
三人で花火を見に行った夏があった。その男は僕にとって親友だった。
アレは一体なんだったんだろう。
楽しんだはずだという確信だけが宙に浮いてある。
だから一体何の話を・・・。
この映画は、幼き日々の不可解な記憶へと観る者を誘う。
よくわからないことがたくさんあった。
楽しいこともたくさんあった。
それらを経過して、いまの自分がいると思う。
けれどそのころともに笑った友達はいま一体なのをしているのか知らないし、
そのころ好きだった女の子にもいまや微塵の関心もない。
当時のわけのわからないことの数々はいったいなんだったのだろう。
いまになって考えてみれば、花火をどこから眺めたとしても・・・と同じように。
なのに私の心に夜が訪れたらときには今でも
大輪の花となり、轟音と熱気のなかで狂おしく咲いているのだ。
2009年11月29日日曜日
2009年11月23日月曜日
Day One
今日晴天の馬車道にて、
絵描きの吉窪さんを囲んでの食事会を開催しました。
吉窪さんとはもう二年近くの付き合いになるだろうか。
昨年、はじめて彼女の個展を渋谷でみて
僕はもっと彼女の絵に歩み寄りたいと思った。
そうすることで僕の人生はもっと楽しくなるだろうと予感した。
絵画を身近なものとするための仕組みを
社会的なインフラとして提供したいと考えるに至ったのは
思えば、そのときの体験が元になっているのだった。
その後の一年で、僕自身かなり彼女の作品に対し近づけたと思う。
近づくというのは“理解した”などといったオコガマシイことではなく、
作品に向かい合うことを僕なりに楽しむことができるようになった、
というような、あくまで個人的な体験としてのことである。
絵画に関する知識が増えたのではなく、
その後、吉窪さんと何度か飲んだり話したりするなかで、
人間関係が形成されていくのと同じように少しずつ積みあがっていった何か。
作家と会って話すことができたら、
絵をもっと楽しめるんじゃないか。
簡単に言えば、そういうわかりやすい話なのかな。
みんなにもそんな体験をしてほしいと思っていたところ、
ちょうど今週、吉窪さんが個展を開催するという。
彼女の個展をはじめて観にきた人たちにも、
十二分に彼女の絵を楽しんでもらいたいと思い
彼女を囲んでの食事会を企画した、という経緯である。
10人くらいお集まりいただいた。
久しぶりにお会いする人もいて嬉しい。
個展会場で絵をしばし眺めてもらってから近くのカフェに行って食事。
何を話したかはみんなそれぞれ感じたところによるような気がする。
で、二時間後、個展会場に戻りまた作品の前に立ってみる。
「自分が感じたまま受け取ればいいんだと聞いて安心しました」
「作家さんと話せる場があってよかった」
というような声を複数の方からいただけて嬉しい。
吉窪さん自身も楽しんでくれたんじゃないかと思う。
(おそまつな進行は反省したほうがいいよ・・ > 自分)
こういう機会をもっともっとつくっていきたい。
会って話すのはいい、でもそれだけじゃなくて、
個展をみるのはいい、でもそれだけじゃなくて、
絵画はいい、でもそれだけじゃなくて。
スタートラインを超えて一歩目を小さく踏み出した、
二歩目をすばやく続けて三歩目は力強く。
ご期待ください。
本日ご参加の皆様へ
取り急ぎ、御礼まで。
絵描きの吉窪さんを囲んでの食事会を開催しました。
吉窪さんとはもう二年近くの付き合いになるだろうか。
昨年、はじめて彼女の個展を渋谷でみて
僕はもっと彼女の絵に歩み寄りたいと思った。
そうすることで僕の人生はもっと楽しくなるだろうと予感した。
絵画を身近なものとするための仕組みを
社会的なインフラとして提供したいと考えるに至ったのは
思えば、そのときの体験が元になっているのだった。
その後の一年で、僕自身かなり彼女の作品に対し近づけたと思う。
近づくというのは“理解した”などといったオコガマシイことではなく、
作品に向かい合うことを僕なりに楽しむことができるようになった、
というような、あくまで個人的な体験としてのことである。
絵画に関する知識が増えたのではなく、
その後、吉窪さんと何度か飲んだり話したりするなかで、
人間関係が形成されていくのと同じように少しずつ積みあがっていった何か。
作家と会って話すことができたら、
絵をもっと楽しめるんじゃないか。
簡単に言えば、そういうわかりやすい話なのかな。
みんなにもそんな体験をしてほしいと思っていたところ、
ちょうど今週、吉窪さんが個展を開催するという。
彼女の個展をはじめて観にきた人たちにも、
十二分に彼女の絵を楽しんでもらいたいと思い
彼女を囲んでの食事会を企画した、という経緯である。
10人くらいお集まりいただいた。
久しぶりにお会いする人もいて嬉しい。
個展会場で絵をしばし眺めてもらってから近くのカフェに行って食事。
何を話したかはみんなそれぞれ感じたところによるような気がする。
で、二時間後、個展会場に戻りまた作品の前に立ってみる。
「自分が感じたまま受け取ればいいんだと聞いて安心しました」
「作家さんと話せる場があってよかった」
というような声を複数の方からいただけて嬉しい。
吉窪さん自身も楽しんでくれたんじゃないかと思う。
(おそまつな進行は反省したほうがいいよ・・ > 自分)
こういう機会をもっともっとつくっていきたい。
会って話すのはいい、でもそれだけじゃなくて、
個展をみるのはいい、でもそれだけじゃなくて、
絵画はいい、でもそれだけじゃなくて。
スタートラインを超えて一歩目を小さく踏み出した、
二歩目をすばやく続けて三歩目は力強く。
ご期待ください。
本日ご参加の皆様へ
取り急ぎ、御礼まで。
2009年11月21日土曜日
悪魔
別に本の紹介を目的にブログを書いているわけではなくて
ただ本を通じて言葉を綴るのが書きやすいからというに過ぎない。
ダン・ローズの「Don't Tell Me the Truth About Love」。
七つの短編がおさめられていて邦題にはその末尾を飾る一遍、
「コンスエラ」が与えられている。
いずれの短編にも愛おしい恋人たちが登場するが、
二人は ―― いや女はあくまで気高く、むしろ男だけは! ――
最上の喜びへと続く階段を踏み外し墜落していく。
作品の冒頭にイアーゴ(オセローに登場する悪役の策士)の
「さあ、しっかりしろ。わが身を海に沈めるだと!
沈めるなら猫か、目の見えぬ子犬にでもしておけ。」
という台詞が掲げられており、いかにも暗示的である。
これに続くイアーゴの台詞をたどってみる。
(僕の手元にあるのは福田恆存の訳文なので少し調子が違うが。)
「・・・熱しやすきはなんとやら、見ているがいい、それだけ逆にすぐにひびも入る・・・神妙らしく取り交わした夫婦の契りが、このおれの才覚と加うるに地獄の悪魔総出の加勢をもってして、なお打ち破れぬということはあるまい。」
七編で繰り広げられる愛は、あまりに悲劇的な結末を迎えるのだけれど
その顛末について、どうしても日常と呼ぶべきものであるとしか思えぬのである。
こうではなかった幸福な恋の行方を思い浮かべ、
イアーゴーの預言的に響く台詞に憎しみを抱いたところで、
事実、舞台の上には、かの二人しかいない。
悪魔は、男も女も知らぬうちにその間に
産み落とされている、招かざる我が子であった。
「・・・彼の涙管は大きく開いた。この塩辛い水はいったいどこから出てくるんだろうと思い、自分の目の裏側で貯水池が氾濫するところを創造した。その水面をマリアが歩いていた。小さな足を少しも濡らさずに。」
女はあまりに完全で気高い。
いや、男はそう信じたいのである。
まあ、いい。
「弓が弦に触れたとたん、騒々しい高波のようなホンダのバイクのエンジン音は消え去り、耳に聞こえるのは自分がぼろぼろのチェロで奏でる音だけになった。一曲弾き終えると騒音がもどってくるが、ゴックの耳にそれは大きなコンサートホールの喝采のように聞こえた。」
この短編では、音楽がとても効果的に配置されている。
次の美しい一文もそうだ。
「毎晩、夕食に降りていくまえに、彼女が全裸でハープの前に座り、そっと弦をつまびくと、夫は彼女の後ろに座って濡れた髪をとかしてやり、彼女の背中が演奏につれてそっと波打つのをながめて、音楽の一音一音を愛した。愛し合ったあとにはよく、コンスエラがニ短調のもの悲しい曲を弾いて、ペリコがじっと耳を傾け、彼女を見つめていることがあった。
この幸せな日々のあいだ、その曲だけが、ふたりの生活のなかでの悲しいものだった。」
小説には音も色もなくて、それが小説家の負い目であると言えるだろうか。
身体を用いることによっていまここに生み出され現前する物の質量に対し、
疎外された感覚があり、ふと不安になる。
田口ランディの言葉を借りれば、
「面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と」いうことである。
それで、文章によって風景を立ち上がらせ、
美しい女を、抱擁する熱を、潮騒を、オーケストラを、
経験を超える究極として書き及んだときに、
してやったりと思うのである。
とにかく日経新聞だけじゃなくて、たまにはこういうのも読んでみてよ。
ただ本を通じて言葉を綴るのが書きやすいからというに過ぎない。
ダン・ローズの「Don't Tell Me the Truth About Love」。
七つの短編がおさめられていて邦題にはその末尾を飾る一遍、
「コンスエラ」が与えられている。
いずれの短編にも愛おしい恋人たちが登場するが、
二人は ―― いや女はあくまで気高く、むしろ男だけは! ――
最上の喜びへと続く階段を踏み外し墜落していく。
作品の冒頭にイアーゴ(オセローに登場する悪役の策士)の
「さあ、しっかりしろ。わが身を海に沈めるだと!
沈めるなら猫か、目の見えぬ子犬にでもしておけ。」
という台詞が掲げられており、いかにも暗示的である。
これに続くイアーゴの台詞をたどってみる。
(僕の手元にあるのは福田恆存の訳文なので少し調子が違うが。)
「・・・熱しやすきはなんとやら、見ているがいい、それだけ逆にすぐにひびも入る・・・神妙らしく取り交わした夫婦の契りが、このおれの才覚と加うるに地獄の悪魔総出の加勢をもってして、なお打ち破れぬということはあるまい。」
七編で繰り広げられる愛は、あまりに悲劇的な結末を迎えるのだけれど
その顛末について、どうしても日常と呼ぶべきものであるとしか思えぬのである。
こうではなかった幸福な恋の行方を思い浮かべ、
イアーゴーの預言的に響く台詞に憎しみを抱いたところで、
事実、舞台の上には、かの二人しかいない。
悪魔は、男も女も知らぬうちにその間に
産み落とされている、招かざる我が子であった。
「・・・彼の涙管は大きく開いた。この塩辛い水はいったいどこから出てくるんだろうと思い、自分の目の裏側で貯水池が氾濫するところを創造した。その水面をマリアが歩いていた。小さな足を少しも濡らさずに。」
女はあまりに完全で気高い。
いや、男はそう信じたいのである。
まあ、いい。
「弓が弦に触れたとたん、騒々しい高波のようなホンダのバイクのエンジン音は消え去り、耳に聞こえるのは自分がぼろぼろのチェロで奏でる音だけになった。一曲弾き終えると騒音がもどってくるが、ゴックの耳にそれは大きなコンサートホールの喝采のように聞こえた。」
この短編では、音楽がとても効果的に配置されている。
次の美しい一文もそうだ。
「毎晩、夕食に降りていくまえに、彼女が全裸でハープの前に座り、そっと弦をつまびくと、夫は彼女の後ろに座って濡れた髪をとかしてやり、彼女の背中が演奏につれてそっと波打つのをながめて、音楽の一音一音を愛した。愛し合ったあとにはよく、コンスエラがニ短調のもの悲しい曲を弾いて、ペリコがじっと耳を傾け、彼女を見つめていることがあった。
この幸せな日々のあいだ、その曲だけが、ふたりの生活のなかでの悲しいものだった。」
小説には音も色もなくて、それが小説家の負い目であると言えるだろうか。
身体を用いることによっていまここに生み出され現前する物の質量に対し、
疎外された感覚があり、ふと不安になる。
田口ランディの言葉を借りれば、
「面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と」いうことである。
それで、文章によって風景を立ち上がらせ、
美しい女を、抱擁する熱を、潮騒を、オーケストラを、
経験を超える究極として書き及んだときに、
してやったりと思うのである。
とにかく日経新聞だけじゃなくて、たまにはこういうのも読んでみてよ。
2009年11月15日日曜日
存在について
おととい飲んでいながら右往左往する話題は
ふとシェイクスピアに及んだ。
たしか演劇について話ながら、その舞台の効用、
たとえばストーリーの展開に小説とはまったくちがった
方法論を持ち込むことができるのは何故かということについて、
戯曲を読みながら想像することの有意義があるにしても
いいや、生身の人間がそこに演じている存在感には
到底想像を超えるものがある。といようなことだ。
不思議なのは、演劇の存在感と言ったところで、
あくまでそれは舞台の上で演じられる遊戯に過ぎないということだ。
非現実の存在といえば、その困難がわかるだろうか。
映画は一個の仮想世界を作り上げる。
その仮想的な世界のなかでそれは完成されており確かに存在している。
World Trade Center がまさに崩壊しようとするときに
映画の一場面かと錯覚する理由はまさにそこにある。
中世の王子・王女の登場だから違和感があるのではなく
シェイクスピアの時代でも道具の精度からして
視覚的効果を期待してなかったろう。
能や狂言となるとさらに無知だがあれをみて現実的な存在感を
みる者が果たしているだろうか。
昨日ひさしぶりにオセローやリア王を読み返しながら、
それはあくまで記録写真を眺めているかのように感じられ、
こう結論すれば通俗的に過ぎるとは思いながら、
演劇のもつ非現実としての存在感は、四肢、発声、表情によって
成り立つ世界が持つ、生命力なのだという以外になかった。
あまり演劇について語ると襤褸がでるので話の向きを逸らす。
平野啓一郎の文章にこのような一節がある。
「彼は、先ほど父の死について思いを巡らせたのと丁度反対に、誕生と云うのは、あの一頭の魁然たる雌牛が、この世界に針の穴にも満たない小さな一点を得る事なのだと考えた。そしてそれは、緩やかな時の流れの中で、着実に内から外界を押し退け、その存在の場所を膨らませる。今、その外圧に耐える張力とは、駆け巡る鮮血に一瞬毎に潤う持続である。それは、再び跡形もなく口を閉ざすであろう世界が、束の間所を譲った、生と云う、脆弱ではあるが、容易に侵し難い現象である。」
まるで僕が書きそうな文章だが、悔しいかな僕には
できぬ巧みさがありちょっと舌打ちをする。
ちなみにこれは結びの、
「歩きながら、彼は初めて自分の激しい動悸に気がついた。そして、それを抑え兼ねる事に憮然としながらも、右手にちらつく夕映えの海に、時折見るともなく視線を投げかけていた。」
という一文につながる。(物語のなかでこの海は自死を示している。)
劇中、死を演じようが生を演じようがそこに存在があるのは
生身の他人がそこで科白を吐くからである。
最近、なんだろうとよく見ている絵画は演劇に似て
そこに他人の生命が息づいているのだと言えるだろうか。
私的な空間のなかに食い入る一点として。
他人の鼓動を聞き息づかいに触れることで
それに応じる自らの生命が自覚される。
教養としてではなく、生活として芸術があるというのは
そのようなことを謂うのではないだろうか。
ふとシェイクスピアに及んだ。
たしか演劇について話ながら、その舞台の効用、
たとえばストーリーの展開に小説とはまったくちがった
方法論を持ち込むことができるのは何故かということについて、
戯曲を読みながら想像することの有意義があるにしても
いいや、生身の人間がそこに演じている存在感には
到底想像を超えるものがある。といようなことだ。
不思議なのは、演劇の存在感と言ったところで、
あくまでそれは舞台の上で演じられる遊戯に過ぎないということだ。
非現実の存在といえば、その困難がわかるだろうか。
映画は一個の仮想世界を作り上げる。
その仮想的な世界のなかでそれは完成されており確かに存在している。
World Trade Center がまさに崩壊しようとするときに
映画の一場面かと錯覚する理由はまさにそこにある。
中世の王子・王女の登場だから違和感があるのではなく
シェイクスピアの時代でも道具の精度からして
視覚的効果を期待してなかったろう。
能や狂言となるとさらに無知だがあれをみて現実的な存在感を
みる者が果たしているだろうか。
昨日ひさしぶりにオセローやリア王を読み返しながら、
それはあくまで記録写真を眺めているかのように感じられ、
こう結論すれば通俗的に過ぎるとは思いながら、
演劇のもつ非現実としての存在感は、四肢、発声、表情によって
成り立つ世界が持つ、生命力なのだという以外になかった。
あまり演劇について語ると襤褸がでるので話の向きを逸らす。
平野啓一郎の文章にこのような一節がある。
「彼は、先ほど父の死について思いを巡らせたのと丁度反対に、誕生と云うのは、あの一頭の魁然たる雌牛が、この世界に針の穴にも満たない小さな一点を得る事なのだと考えた。そしてそれは、緩やかな時の流れの中で、着実に内から外界を押し退け、その存在の場所を膨らませる。今、その外圧に耐える張力とは、駆け巡る鮮血に一瞬毎に潤う持続である。それは、再び跡形もなく口を閉ざすであろう世界が、束の間所を譲った、生と云う、脆弱ではあるが、容易に侵し難い現象である。」
まるで僕が書きそうな文章だが、悔しいかな僕には
できぬ巧みさがありちょっと舌打ちをする。
ちなみにこれは結びの、
「歩きながら、彼は初めて自分の激しい動悸に気がついた。そして、それを抑え兼ねる事に憮然としながらも、右手にちらつく夕映えの海に、時折見るともなく視線を投げかけていた。」
という一文につながる。(物語のなかでこの海は自死を示している。)
劇中、死を演じようが生を演じようがそこに存在があるのは
生身の他人がそこで科白を吐くからである。
最近、なんだろうとよく見ている絵画は演劇に似て
そこに他人の生命が息づいているのだと言えるだろうか。
私的な空間のなかに食い入る一点として。
他人の鼓動を聞き息づかいに触れることで
それに応じる自らの生命が自覚される。
教養としてではなく、生活として芸術があるというのは
そのようなことを謂うのではないだろうか。
2009年11月12日木曜日
夜の音が鳴りつづく
この深夜は屋根に跳ねた雨滴の音、樋を伝い流れる音の残存が
街を冷ます静けさとなり響いている。
人間はどこまでいっても天候に左右されて
あれだこれだと物思いにふけるのだと思う。
書くことによってしか僕は何かを為しえない。
どのような場で何を書くかは、まずもって基準ではなく
ただ書くということによってのみ為される何かがある、
という前提だけが横たわっている。
その何かを言い表すのは酷く困難に思える。
誤解を恐れずにいえば、描くことに対する僕の興味は、
そのような僕の、書くということに対する執着にのみ依る。
事業として成るどうかは極めて局所的な議論でしかなくて、
そもそも書く・描くことが僕たちが生きるにおいて
無視できなくなってきているということから出立する。
他人は僕のこの書くことへの執着について疑義を呈するに違いなく、
僕はいくらかの弁明を試みなければならないだろうと思う。
と同時にそれを億劫に思うことについて
僕の逃避なのか怠惰なのかと、これまで何度も自問してきたし
あるいはこの場所でも呆れるほど書いたのではないかと思う。
書くことについて書く、という迂遠な。生煮えの。
そうして一歩一歩確かめないではいない僕の臆病なのだ、
ということまでは知った。
「たくさんの人が、たぶん本当はもっと自然に分かり合いたい、
話したいと感じていると思う。 」
とある人が言っていてこんなふうに素直に表現されることに
驚きや戸惑いを感じたのは何故だろうか。
分かり合うとは何だろう。
なぜ分かり合おうとするのだろう。
小説も絵画もそんな疑問に応えようとする努力の一つの形だ。
言葉が先に先に複雑にいりくんでいきよくわからなくなる。
すかっと晴れることを願いながら、明日の曇り空を見上げた。
街を冷ます静けさとなり響いている。
人間はどこまでいっても天候に左右されて
あれだこれだと物思いにふけるのだと思う。
書くことによってしか僕は何かを為しえない。
どのような場で何を書くかは、まずもって基準ではなく
ただ書くということによってのみ為される何かがある、
という前提だけが横たわっている。
その何かを言い表すのは酷く困難に思える。
誤解を恐れずにいえば、描くことに対する僕の興味は、
そのような僕の、書くということに対する執着にのみ依る。
事業として成るどうかは極めて局所的な議論でしかなくて、
そもそも書く・描くことが僕たちが生きるにおいて
無視できなくなってきているということから出立する。
他人は僕のこの書くことへの執着について疑義を呈するに違いなく、
僕はいくらかの弁明を試みなければならないだろうと思う。
と同時にそれを億劫に思うことについて
僕の逃避なのか怠惰なのかと、これまで何度も自問してきたし
あるいはこの場所でも呆れるほど書いたのではないかと思う。
書くことについて書く、という迂遠な。生煮えの。
そうして一歩一歩確かめないではいない僕の臆病なのだ、
ということまでは知った。
「たくさんの人が、たぶん本当はもっと自然に分かり合いたい、
話したいと感じていると思う。 」
とある人が言っていてこんなふうに素直に表現されることに
驚きや戸惑いを感じたのは何故だろうか。
分かり合うとは何だろう。
なぜ分かり合おうとするのだろう。
小説も絵画もそんな疑問に応えようとする努力の一つの形だ。
言葉が先に先に複雑にいりくんでいきよくわからなくなる。
すかっと晴れることを願いながら、明日の曇り空を見上げた。
2009年11月8日日曜日
あたたかい友を迎えて
今日、自宅に一幅の絵画が届いた。
絵のある生活を体験してもらおうという粋な計らいなのだった。
壁に掛けようというその瞬間の興奮は
買ってきた服を取り出して鏡の前で合わせてみるときのものと
同じで、そのポジティブな高揚は癖になる。
美術館のなかで眺める絵と生活のなかにある絵との歴然とした違いは、
美術館の中にいて異質なのは私であるが、
生活のなかにおいて異質なのは絵のほうである。
それで自然と絵に視線が留まりなんだろうと思う。
ああ、なんだこんなにあったかいヤツだったんだ、と気付く。
異質な私は環境から私を守ろうとするけれど、
生活の中にある私は豊かさのなかで異質を迎え入れることができる。
僕はいま意外とあったかいヤツだった無口なこいつを
眺め、夕食に何が食いたいんだと問うてみたりする。
「本のページに火がつき、燃え上がる温度・・・。」
という、いかした副題を従えた「華氏四五一度」。
名作中の名作といって過言でない、すばらしい作品であった。
そこは本を焼いて回る焚書官が活躍する世界で、
書籍を所有するインテリたちは排撃され屋根裏に隠された書物は
家ごと焼き払われる。内省はいらない、記憶はいらない、思い悩むことは何もない。
その代わりに人々は、一日中テレビと会話し意味もなく笑うのだが。
焚書官の仕事について所長のビーティはこう語る。
「おれたちの文明社会が、これだけ巨大なものに発達したために、かえって少数派を蠢動さすわけにいかなくなったのだ。きみ自身、その胸にきいてみるがいい。おれたちが欲しているものはなにかとな。幸福にくらすということだけだろう。・・・
・・・平穏無事が幸福の要領だよ、モンターグ。平和こそ人生なんだ、モンターグ。内心との戦いはぜったい禁物。争いごとは、外へむけろ。できれば、焼却炉へ投げこむことだ。・・・みんな忘れ去ってしまうこと。なにもかも焼いてしまうこと。あらゆるものを焼くことだ。火はあかるく、きれいにかがやいているんだぜ。」
芸術は娯楽である。芸術は生活必需品ではない。
可処分所得の多い富裕層が嗜好する贅沢品である。
先日も書いたがそういう言葉で逃げないことだ。
現実にある矮小な私という存在から目を逸らさないことだ。
諦めず語り続けることだ。――― 人によって様々なその方法で。
生活する私たちを勇気付けるプロジェクトがはじまる。
空間に鋭く切り込んでゆく絵画はその俊足で多くの人を魅了するだろう。
絵のある生活を体験してもらおうという粋な計らいなのだった。
壁に掛けようというその瞬間の興奮は
買ってきた服を取り出して鏡の前で合わせてみるときのものと
同じで、そのポジティブな高揚は癖になる。
美術館のなかで眺める絵と生活のなかにある絵との歴然とした違いは、
美術館の中にいて異質なのは私であるが、
生活のなかにおいて異質なのは絵のほうである。
それで自然と絵に視線が留まりなんだろうと思う。
ああ、なんだこんなにあったかいヤツだったんだ、と気付く。
異質な私は環境から私を守ろうとするけれど、
生活の中にある私は豊かさのなかで異質を迎え入れることができる。
僕はいま意外とあったかいヤツだった無口なこいつを
眺め、夕食に何が食いたいんだと問うてみたりする。
「本のページに火がつき、燃え上がる温度・・・。」
という、いかした副題を従えた「華氏四五一度」。
名作中の名作といって過言でない、すばらしい作品であった。
そこは本を焼いて回る焚書官が活躍する世界で、
書籍を所有するインテリたちは排撃され屋根裏に隠された書物は
家ごと焼き払われる。内省はいらない、記憶はいらない、思い悩むことは何もない。
その代わりに人々は、一日中テレビと会話し意味もなく笑うのだが。
焚書官の仕事について所長のビーティはこう語る。
「おれたちの文明社会が、これだけ巨大なものに発達したために、かえって少数派を蠢動さすわけにいかなくなったのだ。きみ自身、その胸にきいてみるがいい。おれたちが欲しているものはなにかとな。幸福にくらすということだけだろう。・・・
・・・平穏無事が幸福の要領だよ、モンターグ。平和こそ人生なんだ、モンターグ。内心との戦いはぜったい禁物。争いごとは、外へむけろ。できれば、焼却炉へ投げこむことだ。・・・みんな忘れ去ってしまうこと。なにもかも焼いてしまうこと。あらゆるものを焼くことだ。火はあかるく、きれいにかがやいているんだぜ。」
芸術は娯楽である。芸術は生活必需品ではない。
可処分所得の多い富裕層が嗜好する贅沢品である。
先日も書いたがそういう言葉で逃げないことだ。
現実にある矮小な私という存在から目を逸らさないことだ。
諦めず語り続けることだ。――― 人によって様々なその方法で。
生活する私たちを勇気付けるプロジェクトがはじまる。
空間に鋭く切り込んでゆく絵画はその俊足で多くの人を魅了するだろう。
2009年11月2日月曜日
絵画のこと
絵画の世界を覗いてみる。
そこに一歩足を踏み出そうとする動作に
恐れとも歓びともわからぬ
素直な敬意というものがあって
結局のところ何者でもない無知の頭にしても
だからこそ誘われる未知があるのだと思っている。
絵を鼻先につきつけられて、それでどうだといわれても困る。
ぼんやり向き合っていればいいんだ、逃げ出さないでいることサ
そうひらきなおるのが良いか悪いか。
なんでも良し悪しで判断しなければならないと思い込むのも
空しいことにちがいない、でも豊かであるのか貧しいのか
知らずに生きるのも、いや知ろうとしないで視野を狭めることも
なかろうと思う。
それで鼻先の絵に対し、ぬいっと抜き出す刃のひとつやふたつは
懐紙に包んでおいたほうがいいし、咄嗟の動きが景色を変えると思う。
「現代美術と対極の美意識には感情と感動があるが、現代美術には観念と論理があるだけではないだろうか。・・・芸術を知的に分析して認識するだけで理解しているとすれば、それは芸術の本来の機能としての魂の向上と救済には無関心の立場を取っているのではないかと思う。」(『ARTのパワースポット』横尾忠則)
と横尾忠則は91年に書いているが、いまはどちらかといえば、
感情の吐露と表現すれば安いが、
直感的で視覚的な芸術のほうが流行であるような気がする。
では果たしてそれで救われることになったかというとどうだろうか。
イヤ、横尾の言う救済とは作家自身においてのことを言うのかナ、
であればむしろ、観念による救済もあってほしいと願うものだが。
「世代が今少しずつ交代の時期に入ろうとしている。言語的世界は論理的肉体的であるが、視覚的世界は非論理的非合理的非肉体的である。極論すれば宇宙的である。人間は本来宇宙的存在である。したがって後者のあり方が正しいに決まっている。」(同)
宇宙的であるということを直覚するならいまはいい時代であると思う。
具象的なものを頼みにするのもバカらしいのであれば
全てを抱合し自らもそこに融解させ宇宙であると言い切ってしまう
すがすがしさは他にない。
「絵画が人間のための絵画から、絵画のための絵画に移ってから絵画の真の感情が失われて・・・われわれを知的満足感の檻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。
感情や想像力に代って経済が魂を解放するとでも思って期待しているとすればこんな恐怖はない。経済の力が芸術の感情さえコントロールし、押し殺しているとすれば、われわれは芸術に一体何を求めればいいというのだ。」(同)
これは90年の文章である。
経済が感情をコントロールしていると危惧するほど
経済が強い時代だったのだろう。
80年代前半からこの頃の話は滅法おもしろいのだが
書き出すと長くなるからやめておく。
しかし、経済が芸術、いや、私たちの宇宙の無限を定めているという
気持ちは今でも崩れずにあり、
であるから相変わらず芸術のどうこうという話をするときに
そもそものスタートがビジネスとしてどうこうということになってしまう。
他に打ち手があるわけでもなく致し方なしとはいえ、
芸術に一体何を求めるのだという問いかけに逃げずに向き合わねばなるまい。
そこに一歩足を踏み出そうとする動作に
恐れとも歓びともわからぬ
素直な敬意というものがあって
結局のところ何者でもない無知の頭にしても
だからこそ誘われる未知があるのだと思っている。
絵を鼻先につきつけられて、それでどうだといわれても困る。
ぼんやり向き合っていればいいんだ、逃げ出さないでいることサ
そうひらきなおるのが良いか悪いか。
なんでも良し悪しで判断しなければならないと思い込むのも
空しいことにちがいない、でも豊かであるのか貧しいのか
知らずに生きるのも、いや知ろうとしないで視野を狭めることも
なかろうと思う。
それで鼻先の絵に対し、ぬいっと抜き出す刃のひとつやふたつは
懐紙に包んでおいたほうがいいし、咄嗟の動きが景色を変えると思う。
「現代美術と対極の美意識には感情と感動があるが、現代美術には観念と論理があるだけではないだろうか。・・・芸術を知的に分析して認識するだけで理解しているとすれば、それは芸術の本来の機能としての魂の向上と救済には無関心の立場を取っているのではないかと思う。」(『ARTのパワースポット』横尾忠則)
と横尾忠則は91年に書いているが、いまはどちらかといえば、
感情の吐露と表現すれば安いが、
直感的で視覚的な芸術のほうが流行であるような気がする。
では果たしてそれで救われることになったかというとどうだろうか。
イヤ、横尾の言う救済とは作家自身においてのことを言うのかナ、
であればむしろ、観念による救済もあってほしいと願うものだが。
「世代が今少しずつ交代の時期に入ろうとしている。言語的世界は論理的肉体的であるが、視覚的世界は非論理的非合理的非肉体的である。極論すれば宇宙的である。人間は本来宇宙的存在である。したがって後者のあり方が正しいに決まっている。」(同)
宇宙的であるということを直覚するならいまはいい時代であると思う。
具象的なものを頼みにするのもバカらしいのであれば
全てを抱合し自らもそこに融解させ宇宙であると言い切ってしまう
すがすがしさは他にない。
「絵画が人間のための絵画から、絵画のための絵画に移ってから絵画の真の感情が失われて・・・われわれを知的満足感の檻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。
感情や想像力に代って経済が魂を解放するとでも思って期待しているとすればこんな恐怖はない。経済の力が芸術の感情さえコントロールし、押し殺しているとすれば、われわれは芸術に一体何を求めればいいというのだ。」(同)
これは90年の文章である。
経済が感情をコントロールしていると危惧するほど
経済が強い時代だったのだろう。
80年代前半からこの頃の話は滅法おもしろいのだが
書き出すと長くなるからやめておく。
しかし、経済が芸術、いや、私たちの宇宙の無限を定めているという
気持ちは今でも崩れずにあり、
であるから相変わらず芸術のどうこうという話をするときに
そもそものスタートがビジネスとしてどうこうということになってしまう。
他に打ち手があるわけでもなく致し方なしとはいえ、
芸術に一体何を求めるのだという問いかけに逃げずに向き合わねばなるまい。
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