2010年1月31日日曜日

陽光

見渡す限りと思うとそれが全てになることを、彼は物足りなく感じたのだろう。
藍色の空は冷たく澄んだ大気の向こうに際限なく広がっていてそれだけで美しく、風景は白く木目細やかに化粧された雪山とカラフルな人々の笑い声と木々の直線的な力強さを加え、実に雄大と言えるものであった。けれど、彼はその合間にある農村の存在が気に食わぬようだった。大地において彼は唯一の光だった。そうしてそこに立っていた。しかし、農村はあくまで煤けた姿をさらし、陽光の持つ温もりを怠惰にもらいうけてへらへらと媚びた笑みを崩すことができなかった。それは能面のように張り付いていて、真に価値あるものがなんであろうと、本当の美しさがなんであろうと、幸福の意味がなんであろうと、過ぎ行くのを待ち、時は流れ止まず、流れ流れていくそのあいだ、ただじっと笑みを浮かべて待っていた。流れはひとつの風景として固着し聳え立ち、その前で自分は全くの無力だった。というより、眠りから覚めていないことを知って夢のなかの災難が苦にならぬとうよりは無意味になってしまうように、流れはただ無意味だった。
彼が怒り咆哮していたのは、そのような怠惰についてなのであった。
だからといって俺はこの空にまさるものがあろうはずもないことを知っていた。その知は俺の限界を輪郭するだろうか、彼の志向する世界について、俺は何か見劣りする点を持つだろうか。
俺は彼の傲慢が無知に依るものであることを見抜いていた。彼が光り輝くのはその愚かさを省みることがなかったからだ。
おおい、と俺は叫んでやった。彼は稚拙に明滅しながらおおいとそれに応えた。彼はゆっくりと滑り降りてきて、そこに脅えのあることに今度は俺が腹を立てた。
雪山の化身となって俺は彼の小さな体躯を厚い掌で叩いた。彼は狂い叫んだ。光を閉ざすなと俺に命令した。
途端に陽光は彼から光を奪い取り、ゲレンデで運動する者たちに分け与えた。腑抜けた温もりが広がり、重い雪の滞積は風邪っぴき小僧の鼻水のように愚図ついてしまった。しかし俺はそれで良いのだと思った。俺はもう一度おおいと彼を呼んだ。彼は黙って藍色の空を眺めていた。

2010年1月26日火曜日

スノボ

安達太良という人名のような福島県のとある雪山でスノボ。



おかげさまでいまは身体の至る所、
特に、大転倒してアイスバーンにぶつけたお尻は
腰のほうまで痛みが響いているけれど気分は爽快なり。

常に、ある一点に思考が凝縮していると全ての事象に
連なりを見出すことができるようになる。
毛細血管のように張り巡らされ補い合い、それが生命なのである。

2010年1月17日日曜日

一里塚

これからの10年をどう生きるか、
僕にっていまそれが最大の関心事である。
もちろん先のことなどわからないというのが
絶対的にあるけれどもね。

ゼロ年代の想像力」は今後を考える上で非常に役立つ一冊であると思う。
大学受験に向けて和歌山で必死に勉強していた頃、
受験戦争に勝ち抜き上京して一旗あげようと夢見ていた頃、
黒煙をあげるWorld Trade Center の映像が突然テレビに映し出され
そうして僕のゼロ年代は始まった。
東京で見るあらゆるものを吸収し、反発し、嫌悪し、憧れ、誓い、諦め、
慎重にゆっくりと、でも何かに急き立てられるような焦りのなかで
僕はまるで早足で歩くみたいにゼロ年代を過ごした。

テレビドラマ批評という僕にとって馴染みのないアプローチであるが、
本書は、気付いたらゼロ年代の渦中にいた僕が無意識のうちに
感じていたこと、何とか言葉にしようとしてブログで書いていたことを
きれいに整理してくれている。

その上でこれからの歩み方を示唆してくれるのは
何もテレビドラマだけではない。
本書ではほとんど相手にされなかった金原ひとみや松尾スズキの作品に
それを見出すことができるし、本谷有希子、枡野浩一、岩井俊二だっている。
小説において同世代の作家となると寂しい気持ちは確かにあるけれど、
僕が寡聞であるだけで実は大勢の新しい想像力が
生み出されていることだろうと思う。
それに過去の作品からも僕たちは未来を学ぶことができるし、
何故か本書で全く言及されなかった海外の作品からも
僕たちは新しい想像力を培うことができる。

視野を広げて映画や絵画、学問といったところからも
栄養を摂ることができれば、さらに世界の奥行きは広がる。

こうでなければならないということはもはやない。
多様であっていい。
宇野の告白に共感する。
これからの十年はもっと自由になる。
僕たちはその責任を引き受けなければならないのだ。
僕はそのこと自体を悲観するつもりはない。
とにかく前進すること、そして幸せになることだ。

2010年1月10日日曜日

永遠を探して

小説を読んでいると、あるいはその批評となった途端、
時流のなかでの位置づけ、時代の気分が表徴されているかのような
言い回しに向かうことがある。
例えば「この作品は80年代の・・・バブル崩壊後の・・・9.11以後の・・・」
といった具合にだ。
あるいは「○○は××の問題意識をさらに押し広げ・・」といったように
間接的にだが時系列に並べることで、小説世界の発展を見通したりする。

何度か言及したと思うがおそらく大江健三郎の文章で
どこでいつ読んだのかしらないか印象的な話がある。
科学技術は蓄積のなかで進歩していく。
しかし小説はちがう。ドストエフスキーが今の自分に最も必要であったり
ウィトゲンシュタインに影響を受けて90年代らしい作品が生まれたりする。
雑然と並べられた本棚をイメージするとわかりやすい。
書物の知恵は時系列に関係なく同時多発的に「生まれ」るのだ。
あとから時系列に整理して傾向が浮かんで見えるのは
人は環境に大いに影響を受けるという当然のことを
ただ示しているにすぎず、実は退屈な議論なのである。
だからこそ、張りぼての神様と物語のない日常しかない現代において
共時的、実践的、対話的に現前し意味世界をつくる芸術的なるものが
いまあらためて必要とされるのだろうと思う。

思いのほか前置きが長くなった。

G.ガルシア=マルケスである。
『百年の孤独』はいつかの楽しみにとってあって今回は、
短編集『エレンディラ』を読む。
彼の作品には時間が流れていない。
それを、南アの時間の全く外にいる僕自身の問題でもあるとか
この作品が童話的であるということからして、
時間が流れていないように感じるのだと明確に結論付けたって構わない。

しかし、激しい雨の降る蒸し暑い路傍に横たわる老いた天使、
バラの香りを放つ海の底で日曜日の朝十一時に水没した村、
エレンディラが勤める砂漠の真ん中にあるテントに長く伸びる男たちの列、
そういうひとつひとつの情景が絵画のように鮮やかに描かれていて
その時は永遠である。

永遠を描くことが文学にとって唯一とも最上とも思わないが
この手の作品に親しむことができればもっと豊かに安らかに
人生をとらえることができようにと思っている。

文学あるいは芸術の価値について今更、再構築しようというつもりもないが
その魅力に心酔し生ある限り関わっていけたらと思っている。



※「エレンディラ」を二冊買ってしまったので読みたい方いれば無料で差し上げます。ご連絡ください

2010年1月5日火曜日

君へ  ― 青春

年末年始に読んだ本が溜まっているから
ご紹介しておかねばならん。義務感がある。
妙な使命感だ。
それに動かされるというのは実はとても当人にとっては
容易で気楽なものなのである。

「僕は運動おんち」枡野浩一 である。
彼の小説については二年(!)以上前に紹介している

この小説を一言で分類すれば青春小説である。
舞台は高校であるし、片思いの遠い存在の女の子がいて、
それ以上に重大で近しい友人がいる。
空想だけは長大に広がりつつも眼前の自分は全くの無力である。
しかしこれは単純なビルディングス・ロマンとは違う。

彼は成長を志向しないのだ。
「運動おんち」の主人公は一見、クラスからバカにされているように見えるが
それはムードメーカー的に"ネタ"にされているだけであって、
イジメと呼べるほどのものでもなく、クラスで一番の腕白少年が、
他の友人には吐露し得ない内面を唯一打ち明けられる心の友として、
主人公が描かれるように、
彼には自らの欠陥を卑下する幾ばくの恐怖も存在しないのだ。
かわいい妹からは「お兄さま」と慕われ、親との葛藤は皆無だ。
これが青春の不在を意味することは論を待たないだろう。
(青春とは何かについて議論し出すと長くなるが。)
主人公が自殺をほのめかすのは「安全に痛い」ポーズでしかなく
本質的な選択肢ではないのだ。

そういえば正月のあいだ実家で読んでいたNARUTOだが
「人はそれぞれの正義をかかげながら争い続けるしかない」
というゼロ年代の思考に対し、「人はわかり合えると信じている」
とナルトが強く応えるシーンがある。
これからどういうふうにストーリーが展開するか知らないが、
わかり合える結末を描くなら、ナルトが他を超越する圧倒的な力を
手に入れて、「争いは好まない」という自省を前提とした
自己正当化のもとに悪を滅ぼすことでわかるものだけが残る世界をつくるか、
例えば、サスケとわかり合うという局所的な和解によって
万事解決とするのかのどちらかの道しかないと思う。
つまり「人は基本的にわかり合えない。しかし対個人レベルの局所的な
関係においては稀にわかり合える場合がある」というリアリズムこそが
希望なのである。

君に会いに行くために
ヘアスタイルをととのえる
オゾン層を破壊しながら
かっこいい俺が誕生する

と「運動おんち」の主人公が歌うとき、
彼は世界との対話を諦めている。
柔道では負けない、泳ぐのが速い、ギターが演奏できる、
などといった単純な指標で理解してもらうことは最早できない。
それらすべてに「おんち」であるからこそ、彼はそのことに気付いた。

彼は「髪を切る」ことでクラスの人気者になる。
しかしそれはあくまでその小さなクラスで通じる言語であり
プロの目からすれば「センスはあるけれどドシロウト」の
レベルでしかなく、その自覚は当人だけでなくその周囲にも
通じている。にも関わらず彼が人気者になるのは、
彼が学園に属する内部の人間であり、
仲の良い者だけが無料で切ってもらえる秘密であり、
彼が「運動おんち」であることの前提を共有しているからだ。

「とにかくこの文章は遺書のつもりで書く。
 だれにも読まれないかもしれないけれど、いつの日にか君が読むかもしれないと意識しながら書く。
 君はだれなのかは、わからない。」

という十七歳の希望であり絶望。

僕はかつて「青春以外に書きたいテーマはない」と言っていたし、
今でもそう思っている。
この小説はユーモアにあふれているし、
あいまに挿入される詩もいい(それが本業だろうし)。
でも青春じゃあない。
どこかの誰かではない、
目の前にいる君のために書かれた言葉がもつ美しさを
僕はいまだ信じている。

2010年1月4日月曜日

ご挨拶

あけましておめでとうございます。
今日、東京に戻ってまいりました。
もはや酒のことしか記憶にない正月で、
昨日も大阪・道頓堀のあたりで酷く酒を飲んで
二日酔いで気も塞ぎがちな新年です。

2009年のことを思い出すと随分酒に乱れた一年でした。
それ以前も決してお行儀がいいとは言えませんが
精神的にけっこうきつい一年ではありましたし、
それを酒で補っていたのだと思います。
しかしそれも昨日で終わりです。
2010年は他にやるべきことがあり、行動せねばならず
それはこの肉体によってしかなされないのです。
煙草もすっかり辞めてお酒も控えめにして
つつがなく精進したいと思います。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。