現代において、私たちは幸せでなければならない。
日本において、と遠慮がちに留めるとしても。
その圧によって私たちはどう生きざるを得ないかについて
僕はずっと考えていた。
おそらく僕たちひとつ前の世代は
その頑なな幸福に対し、皮肉な笑みを浮かべ
自演的な快楽に溺れることができたし
いかにその桎梏から逃れるかについての議論を
遊戯的に交わすこともできたのだと思う。
私たちは知的な先輩たちに憧れの視線を送りながら同時に
逃れられぬ呪縛、敗走に次ぐ敗走の現実を無視することもできずにいた。
行動は政治的であらざるを得なくなった。
早くに政治に絶望していた僕は-いまなお-可能性としての芸術に
小説というアプローチで臨むことにし、結果的に、
明らかな方向性を見出すことはできていない。
が、信じている。それ以外残されたていないという諦めも含めて。
幸せでなければならぬという事実に対し求られるのは、
であればこその現実的な重み、煌びやかでも慎ましくてもいい、
幸福の重量なのである。ずしりと腹に据えられるような。
未来に広がる茫漠とした不安を糧としての、
その責任を背負い込むことで生じる不幸への屈折した希望は
重量を求めることで紛れ込むノイズであるかのようだ。
生きることはできる、だがそうでしかありえない牢獄のなかで
発狂する、正常な者たちによる咆哮。嗚呼。
数十年程度の時間に、そう嘆く必要もなく、期待し過ぎるでもなかろうに。
そら陽が昇った、ややもすれば沈む。
ただそれだけのことだ。
2010年11月23日火曜日
2010年9月15日水曜日
演劇について
会社のブログに書きなぐるのは憚られる、生煮えの文章の行き先がなくて、記録用にこのブログを使っている。アート関連のことはまだ勉強中という気持ちが強くて公に発表するのは気が引けるのだ。気取らずに思いのまま書けばいいのだという気もするが。
ひとつ扇情的な文章もあって、それもこちらにまずは掲載しておこうかと思っている。
ひとまず今日は、演劇をやっている方に宛てた私信を転載する。
演劇という表現の可能性についてだ。
* * *
私は小説が好きでよく読むのですが、松尾スズキ、宮沢章夫、本谷有希子、岡田利規といった劇作家出身の書き手から、面白く新鮮な表現が生まれてきたことっ気づき、最初に演劇という表現に興味を持ちました。(その後も劇団の方の小説を選んで読んでいますが、実際に劇場に行ったのは二度ほどです・・)
何故だろう、と考えた時。
小説は出版を前提とするので、無名であろうが、数万部を売れないと成り立ちません。ライトノベルや携帯小説的な表現が流行るのは、ひとつには万人に理解され共感される「わかりやすさ」が重視されるからです。(もちろんライトノベルが全部ダメだとか、良い小説家が全くいないというわけではないですが)
演劇出身の方の小説のおもしろさは、大げさな設定、非現実的なドラマ抜きに現代の日常生活を舞台に、高度に抽象的な表現を達成している点です。
それはおそらく、映画やアニメのように全くの仮想世界を作り出すことのできない劇場という限られた空間において、生身の人間が演じねばならぬという制約からくるのではないかと。
小説はたいてい数日かけて読まれます。電車に乗っている間の暇つぶしとか、寝る前のちょっとした息抜きに。であれば、展開はわかりやすいほうがいいし、紋切り型のストーリーで、容易なカタルシスを得ることのほうが余程娯楽的なのです。
一方で演劇は、数時間の間に集中してみれます。多少の急展開はあったほうがよいし、展開が見えやすいと逆に飽きてしまいます。演劇の作家さんの文章では、要所要所でコミカルな会話表現や描写が挿入されますが、あれもリアルタイムで観客に接する人たちの洗練された表現であるように感じます。
そして、劇場には多くて、数百人、少ないと数十人という若い人たちが訪れることが多いのではないでしょうか。属性の絞られた人たちに向けて発信できるので
抽象度高く、現代性の表現が成立するのではないかなと。
絵画と比べると、絵画作品として展示されているものは、すべて「過去につくられたもの」です。そして作家を抜きにして独り歩きしてしまいます。
その弱点を補うためにLittlefan.net では、観客が、アーティストの活動にリアルタイムに接し、活動の応援を通じて表現にコミットできるようにしたいと思っています。
役者抜きの演劇は考えられないし、観客はチケットを必ず購入してみにきます。そこには常に表現者への投資が含まれています。
とはいえ、演劇も演劇で大変なのだとは思いますが・・・。
* * *
まあ、これもわかりやすい仮説のひとつでしかないが。
アートはデュシャンの便器で、音楽はジョン・ケージが作曲した無音の4分33秒で、表現が一回転した、と言われる。(ウィキペディアによると、ジョン・ケージは、ラウシェンバーグの白い絵に影響をうけたみたいですが。)
・・・書き続ける時間がないので、このあたりにしておく。
現代性は(いつの時代も)大きなテーマなのだ。
ひとつ扇情的な文章もあって、それもこちらにまずは掲載しておこうかと思っている。
ひとまず今日は、演劇をやっている方に宛てた私信を転載する。
演劇という表現の可能性についてだ。
* * *
私は小説が好きでよく読むのですが、松尾スズキ、宮沢章夫、本谷有希子、岡田利規といった劇作家出身の書き手から、面白く新鮮な表現が生まれてきたことっ気づき、最初に演劇という表現に興味を持ちました。(その後も劇団の方の小説を選んで読んでいますが、実際に劇場に行ったのは二度ほどです・・)
何故だろう、と考えた時。
小説は出版を前提とするので、無名であろうが、数万部を売れないと成り立ちません。ライトノベルや携帯小説的な表現が流行るのは、ひとつには万人に理解され共感される「わかりやすさ」が重視されるからです。(もちろんライトノベルが全部ダメだとか、良い小説家が全くいないというわけではないですが)
演劇出身の方の小説のおもしろさは、大げさな設定、非現実的なドラマ抜きに現代の日常生活を舞台に、高度に抽象的な表現を達成している点です。
それはおそらく、映画やアニメのように全くの仮想世界を作り出すことのできない劇場という限られた空間において、生身の人間が演じねばならぬという制約からくるのではないかと。
小説はたいてい数日かけて読まれます。電車に乗っている間の暇つぶしとか、寝る前のちょっとした息抜きに。であれば、展開はわかりやすいほうがいいし、紋切り型のストーリーで、容易なカタルシスを得ることのほうが余程娯楽的なのです。
一方で演劇は、数時間の間に集中してみれます。多少の急展開はあったほうがよいし、展開が見えやすいと逆に飽きてしまいます。演劇の作家さんの文章では、要所要所でコミカルな会話表現や描写が挿入されますが、あれもリアルタイムで観客に接する人たちの洗練された表現であるように感じます。
そして、劇場には多くて、数百人、少ないと数十人という若い人たちが訪れることが多いのではないでしょうか。属性の絞られた人たちに向けて発信できるので
抽象度高く、現代性の表現が成立するのではないかなと。
絵画と比べると、絵画作品として展示されているものは、すべて「過去につくられたもの」です。そして作家を抜きにして独り歩きしてしまいます。
その弱点を補うためにLittlefan.net では、観客が、アーティストの活動にリアルタイムに接し、活動の応援を通じて表現にコミットできるようにしたいと思っています。
役者抜きの演劇は考えられないし、観客はチケットを必ず購入してみにきます。そこには常に表現者への投資が含まれています。
とはいえ、演劇も演劇で大変なのだとは思いますが・・・。
* * *
まあ、これもわかりやすい仮説のひとつでしかないが。
アートはデュシャンの便器で、音楽はジョン・ケージが作曲した無音の4分33秒で、表現が一回転した、と言われる。(ウィキペディアによると、ジョン・ケージは、ラウシェンバーグの白い絵に影響をうけたみたいですが。)
・・・書き続ける時間がないので、このあたりにしておく。
現代性は(いつの時代も)大きなテーマなのだ。
2010年7月26日月曜日
可能性
最近、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を読む。
世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)
タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。
それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。
悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。
この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。
でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。
世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)
タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。
それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。
悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。
この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。
でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。
2010年7月3日土曜日
戯れ
まとまった文章を書かない期間がこれほど長いと
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。
もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。
質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。
何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。
言葉を先に進める。
そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。
最近、僕は本を読んでいない。
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。
もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。
質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。
何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。
言葉を先に進める。
そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。
最近、僕は本を読んでいない。
2010年2月16日火曜日
突然の終幕
このブログは僕にとって3つ目だが、
その役目を終えてしまった。
一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。
2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」
このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。
そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。
最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)
「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。
実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。
そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。
洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。
それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。
(了)
その役目を終えてしまった。
一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。
2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」
このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。
そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。
最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)
「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。
実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。
そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。
洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。
それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。
(了)
2010年2月9日火曜日
何なりとは言え
今日はとてもたくさんのヒントをもらった。
忘れないうちにメモっておく。
(こういう書き方は僕にとって珍しい。)
1 想像できることは実現できる
1-1 たくさんの未来のビジョンを世に創りださなくてはいけない
1-1-1 時系列的に過去に生み出された未来の想像力は現在においても
未来でありうる
1-1-2 未来のビジョンが必要なのは現在の幸せについて事後的に断ずる
において、過去が暗くとも生に輝きを与えることができるとすれば
それは未来であるからだ
1-2 未来のビジョンは想像力と自分が関与する人生によって示される
1-2-1 他人の幸せが自分の幸せであるというのは便宜的にそうなのではない
1-2-2 自分がどうであるかにかかわりなく人は幸福になり得る
2 現在は過去と未来を束ねている
3 芸術は未来のビジョンを示す一つの方法である
3-1 芸術が生み出されるのは幸福について考えがあるからだ
3-2 芸術に関与することによって自らの幸福をそれによって他人の幸福を
それによって自らの幸福を再帰的に増大せしめることができる
3-2-1 未来のビジョンは排他性という暴力に病む事がある
3-2-2 新たな芸術は常に産みだされなければならない
4 愛こそ全てという言葉についてもう一度考えてみるといい
4-1 未来を信じるものでなければ芸術になりえない
忘れないうちにメモっておく。
(こういう書き方は僕にとって珍しい。)
1 想像できることは実現できる
1-1 たくさんの未来のビジョンを世に創りださなくてはいけない
1-1-1 時系列的に過去に生み出された未来の想像力は現在においても
未来でありうる
1-1-2 未来のビジョンが必要なのは現在の幸せについて事後的に断ずる
において、過去が暗くとも生に輝きを与えることができるとすれば
それは未来であるからだ
1-2 未来のビジョンは想像力と自分が関与する人生によって示される
1-2-1 他人の幸せが自分の幸せであるというのは便宜的にそうなのではない
1-2-2 自分がどうであるかにかかわりなく人は幸福になり得る
2 現在は過去と未来を束ねている
3 芸術は未来のビジョンを示す一つの方法である
3-1 芸術が生み出されるのは幸福について考えがあるからだ
3-2 芸術に関与することによって自らの幸福をそれによって他人の幸福を
それによって自らの幸福を再帰的に増大せしめることができる
3-2-1 未来のビジョンは排他性という暴力に病む事がある
3-2-2 新たな芸術は常に産みだされなければならない
4 愛こそ全てという言葉についてもう一度考えてみるといい
4-1 未来を信じるものでなければ芸術になりえない
2010年2月3日水曜日
水曜日、朝
おはようございます。
出立の直前というのは不思議とたゆたう海原が
穏やかに見えるものなのでしょうか。
実に粗末な小船に荷物を降ろして喫水線の位置を
確かめながら、不安だなあと思う。
行く先は水平線の向こうに見えず、
コンパスが狂うことはないと信じても、
風向きや潮の流れがどうであるかは漕ぎ出して
みなければわからぬ。
予報も希望もほどほどに斟酌しながら
そうして明日の航海を思い描いている。
ああ、いよいよだなとひとりごち、けれど
湧き上がるのは焦燥でなくして安堵であるというのは
いささか白痴的であるとすら感じる。
怯えがあるとすればその自身の厚顔に対してなのである。
出立の直前というのは不思議とたゆたう海原が
穏やかに見えるものなのでしょうか。
実に粗末な小船に荷物を降ろして喫水線の位置を
確かめながら、不安だなあと思う。
行く先は水平線の向こうに見えず、
コンパスが狂うことはないと信じても、
風向きや潮の流れがどうであるかは漕ぎ出して
みなければわからぬ。
予報も希望もほどほどに斟酌しながら
そうして明日の航海を思い描いている。
ああ、いよいよだなとひとりごち、けれど
湧き上がるのは焦燥でなくして安堵であるというのは
いささか白痴的であるとすら感じる。
怯えがあるとすればその自身の厚顔に対してなのである。
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