洗剤はボールドがお気に入り。
しかし、どうにかならんのか、このパッケージ・・鬱 ↓

これで名前が、「ボールド」ってどうなんだ。
Bold だよね。Baldだったら嫌だなあ。
「フローラル・クリーン♪」とか、
「キューティー・イリュージョン!」とか、
そういう名前を彷彿させる顔だな。それだと余計買い辛いけど。
* * *
大塚英志と東浩紀の対談「リアルのゆくえ」を読む。
テーマは二つあって、表現の固有性、および、表現の公共性、
ということだろう。
(批評も文学もネットコンテンツも全てを含めて捉えるために、
表現という言葉を用いた。)
固有性については、インターネットによる集合知的な創作活動
を通じて造られた作品に、作者の固有性というものが存在するのかどうか。
初音ミク(そういえばこの対談で一度も言及されない)の音楽に、
作者の固有性は存在するのか。
データベース消費やらコミュニケーション消費やら、その辺の細かい話は、
本書を読んでいただくとして、固有性を巡る議論の射程は、
世界に主体的に関わる自己の単独性を巡る神話を、
どこまで許容するかにある。
自己の単独性なんかはないんだ、って言い切っちゃうと、
大塚が常に苛立ちを隠さないように、
「じゃあもう別に何も書かなくてもいいし、君と話す意味もない。」
ということになってしまう。
他者という言葉が柄谷あたりから影響を受けて
僕の周りでも頻繁に使われていたけれど、
他者と言った時点で、それぞれの単独性を認めないと始まらない。
東は単独性を個人的には認めるけれど、一般論として敷衍することはできない、
と言い張る。
公共性については、固有性の問題と繋がるところがある。
固有性が疑われるのは、当然、社会的な問題である。
(個人として固有性を有するのは当然である。)
では固有性を持たない要素としての個人で構成される、
社会において、公共性とはいかにして成り立つか。
・・とまあ、僕が解説を試みる必要もないし、長くなるので辞める。
それで最後に僕としての所感だけ書いておく。
ひとつはリアル、というものを、理論としての国家や政治、
あるいは、概念としての単独性、他者性、というところで
規定しようとしても、神話的にならざるを得ないのではないか。
それを否定するところから始めようとする議論においては、
常に眼前に立ちあわられる不可解な世界に対しての、
実践として以外、リアルを論じることはもはや成り立たないのではないか。
ではすべて、個人的な体験として細分化してしまって、
それぞれの役割をそれぞれの責任でもって担うという東の立場に肯んずる
ものでもなくて、それぞれの役割の中に公共性を見出し、
大塚が何度も問いただす、そもそもの理念やら動機というところに、
回答を出し続けることが必要なのだと思う。
それを啓蒙やら教育によって、全員がなすべきであると言い出すと
また話が空転する。
公共性を見出し得た者が、パブリックな立場で発言と行為を続けることによって、
社会の持続可能性を守っていくということだろうと思う。
一人の人間でできることなど限られているのだとすれば、
実質的に世界と言うものは超越論的に語る以外にはないのだから。






