ドストエフスキー「悪霊」読み終わる。
一ヶ月ほどこの悪霊と闘い続けることを余儀なくされたのは、
自分で選んだ道であるとはいえ、徐々に苦しさを増し、
しかしその苦しみに固執し、自らにとって必要不可欠なように
思えてくるところに、名の通り「悪霊」としての本旨がある。
この作品における「悪霊」の意味を、無神論・アナーキズムとして
解釈するのでは、到底作中に登場する多数の人物の持つ意味を
理解できない。(先述の通り、19世紀ロシアの社会主義の勃興、退廃的な無神論思想、アナーキズム組織の狂信的な活動等々、実際の出来事がモチーフに
なってはいるが。)
二十年間一人の女性を愛しながらも打ち明けることのできない高潔も、
自殺を遂げることによって全目的を達成しようとする純粋も、
慈悲を身に宿したことを徳としながら嘲笑を浴びざるを得ない悲哀も、
この作品に多数表される狂気は、それが狂気であるからこそ、
精神に深く根を張り、たとえそれが虚構であり誤謬であったにしても、
それを作り出すのもまた自らであるという倒錯のなかにある。
人は自ら、認識として認識したもの以外には、認識したと信じることができない。
狂気は、最も強い自己認識となって、狂気こそが自分を支えるという信念を生む。
悪霊の正体とは、そのような狂気のことである。
悪霊から逃れるには、それに代わる偉大な思想が必要である。
哀しみを哀しみとせず、喜びを喜びとせず、孤独を孤独とせず、
狂気を狂気としない、あの偉大な思想のことである。
それを神への信仰ととらえてもいい。
しかし、神への信仰が、イエスへの信仰と等しくすることはできない。
物事はそう簡単には進まず、その遅滞をドストエフスキーは、
ロシア特有のものとしてみたのかもしれない。
ところで、「悪霊」の訳書は、なんと江川卓である。驚いた。
2008年11月8日土曜日
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