夏になった。
この季節の生命の充溢に官能するのは快い。
夏を書いて見事な三島由紀夫の情景と自分の記憶とが交じり合い、
動物的な臭いのする旧懐へと変わる。
多少キザな表現かもしれない。
みんな何を考えて夏をすごしているのだろう。
暑気それ自体は悪しきものとして傍にいるのだろうか。
爪は関係なく伸びる。私の身体の一部だ。
世界が私の部分であるのと同じように。
俺、思春期みてえだなあ。
なんで「春を思う」って書くんだろう。
希望を書くっていってたあれ、どうなったんだろう。
やべえ明日早いんだよなあ。
もう一杯飲んだら寝よ。
笑って笑って。はい、チーズ。
2009年6月27日土曜日
2009年6月21日日曜日
創ること
朝から体が重く感じられて今日は寝たり起きたりを
繰り返し終わった。どうも風邪気味らしい。
乱雑な生活をしているのは自分でもわかる。
が、どうにも止められない。いや本心を曝け出すならば、
更なる乱雑を僕は求めているのだった。
偽装された退廃とでも言うかのように・・・。
なぜ偽りなのか。
雷雨のあと雲間から挿す一条の光にこそ、
快晴の夏空にはない創造の契機がある。
しかしだからといって敢えて破壊から始めると
するならば目的と手段の混同、
単純な自己欺瞞が浮き上がってはこないか。
演技のなかのカタストロフなど・・・。
その矮小は笑わないでいられない。
しかし、何もそう責めてばかりいることもない。
幼児の夢見がきらきらと輝いているにしても、
そればかりが希望ではなかろう。
雑踏のなかに塵と舞う希望があってもいい。
人間の臭いをつくる粒子となっている。
繰り返し終わった。どうも風邪気味らしい。
乱雑な生活をしているのは自分でもわかる。
が、どうにも止められない。いや本心を曝け出すならば、
更なる乱雑を僕は求めているのだった。
偽装された退廃とでも言うかのように・・・。
なぜ偽りなのか。
雷雨のあと雲間から挿す一条の光にこそ、
快晴の夏空にはない創造の契機がある。
しかしだからといって敢えて破壊から始めると
するならば目的と手段の混同、
単純な自己欺瞞が浮き上がってはこないか。
演技のなかのカタストロフなど・・・。
その矮小は笑わないでいられない。
しかし、何もそう責めてばかりいることもない。
幼児の夢見がきらきらと輝いているにしても、
そればかりが希望ではなかろう。
雑踏のなかに塵と舞う希望があってもいい。
人間の臭いをつくる粒子となっている。
2009年6月18日木曜日
重要な連絡2
丸四日間くらい携帯電話がつながりませんでしたが、
本日復活しました。
携帯なくてもちょっと不便ではありますが、大丈夫ですね。
メモリーは全部消えちゃったので、ご連絡いただけると
嬉しいです・・。
番号はそのままです。
メアドは、docomo.ne.jp ⇒ i.softbank.jp
に修正ください。(iPhone です。新しいの出るって言うのに・・)
あるいはgmail におくって頂いても携帯で見れるようにしました。
取り急ぎ。
本日復活しました。
携帯なくてもちょっと不便ではありますが、大丈夫ですね。
メモリーは全部消えちゃったので、ご連絡いただけると
嬉しいです・・。
番号はそのままです。
メアドは、docomo.ne.jp ⇒ i.softbank.jp
に修正ください。(iPhone です。新しいの出るって言うのに・・)
あるいはgmail におくって頂いても携帯で見れるようにしました。
取り急ぎ。
2009年6月15日月曜日
「僕らの世代」の原理的考察
昨日携帯電話を落水させたのは、江ノ島の磯だった。
干潮の時にはよい釣り場になるでこぼこした岩場を
走っているときにポケットからこぼれ、
窪みに残る海水の溜まりに落ちた。
すぐに取り出したが電源はつかなかった。
初めに思ったのは、失くすべき過去もあるということだった。
先日誕生日を迎えたとき、僕は過去について書いた。
この文章の論理は読み返してみてよくわかならないが、
「見る」という行為を自意識さらには自尊心にひきつけ、
その根拠を過去の記憶に求めるというものだった。
これの念頭には、三島由紀夫の「豊饒の海」最終巻『天人五衰』があった。
三島由紀夫について書こうとするのはかなり荷が重いが・・。
少し長いが引用する。
--
老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。(中略)あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてきたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。(中略)
『いや、俺には、時を止めるのに、「この時を措いては」というほどのときはなかった。(中略)自分には青春の絶頂というべきものがなかったから、止めるべき時がなかった。(中略)絶頂を見極める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。(中略)
強靭な意志が宿命を阻んで来たからだ、と言うのは易しい。本当にそうだったろうか。意志とは、宿命の残り滓ではないだろうか。自由意志と決定論のあいだには、印度のカーストのような、生まれついた貴賤の別があるのではなかろうか。もちろん賤しいのは意志のほうだ。・・・』
--
宿命が記憶から来るというのは、実際的な体験としての過去だけでなく、民族や国家、宗教、血縁、土地、歴史といった超越的過去も含んでのことである。それで自意識という言葉がわかりよいという気もする。
本多や透の目は、意志の目である。それは篠山も同様である。
篠山に自尊心を感じるのは僕の誤解だった。
確かに篠山の目は、写真の目は過去を見ている。
それがアイドルであればなおさらだ。
しかしそれは自らの宿命のなさへの嘆きであり、いうなればカーストの低いものが、カーストの高いものへ示す盲目的な畏敬といってもよくて、それで視界はなおのこと晴れた。
篠山が見る過去には、篠山自身が不在だ。
篠山はあくまで客体として「所有」することに楽しみがあるのである。
(これの前のブログだが)第三巻「暁の寺」の読後に一年前の僕はこう記している。
『青春が永遠の時にあるのとは反対に、老いは流れる時の中にある。青春の余りに短命な、花火の燃えるような時間は、それが瞬間的な燃焼の中にあるからこそ、逆説的に、その当事者は神秘的な永久不変の世界へと溶け込み、自らが世界であるという実感をその胸の中に抱くことができる。一方、老いとは、刻々と過ぎ行く時の流れに乗って彷徨う、刹那的な儚さの中に再起し続ける。』
この文章に全て書きつくされているように思うのは、
僕の成長のなさの堂々巡りを示しているとでも言うだろうか。
兎も角、『記憶の喪失は自尊心の喪失と同義だった。』という結論には変わりがない。
そして、その記憶喪失が自らの手によって戦略的に遂行されたのであるということも。
僕たちは過去の記憶を敢えて失くすことで、
宿命から逃れ、現在という永遠のなかへ溶け込もうと企図した。
自尊心という問題を棚上げして・・。
僕たちの世代の"モラトリアム"の字義的な端境期を越えて、合目的的に操作されたかにすらみえる「自分探し」の意味はここにある。
・・・
釣りの記録は友力本願に任せておく。非常に楽しかった。いい企画だったなあ。
(写真をみると4:3のちょっとした合コン企画にもみえるが、3カップル+僕である・・嘆かわしや!)
携帯電話のメモリはまだ復旧の目処はないが
ドコモショップが言うには五分五分ということだった。
前に使っていた携帯からメモリを拾い出せるということを聞いて、
五年くらい前に使っていた携帯(一つ前の携帯は全くダメになって捨てた)
を取り出してみたが、そこにあるのは消えてもいいと願った過去ばかりだった。
結局今からでも再構築できる現在進行形のメモリはあるにせよ、
取り戻すべき過去は消し去りたい過去だけなのかもしれない。
あるいは過去とは消し去るべきものであるというほうが適切だろうか・・。
# また今日も長いな・・
干潮の時にはよい釣り場になるでこぼこした岩場を
走っているときにポケットからこぼれ、
窪みに残る海水の溜まりに落ちた。
すぐに取り出したが電源はつかなかった。
初めに思ったのは、失くすべき過去もあるということだった。
先日誕生日を迎えたとき、僕は過去について書いた。
この文章の論理は読み返してみてよくわかならないが、
「見る」という行為を自意識さらには自尊心にひきつけ、
その根拠を過去の記憶に求めるというものだった。
これの念頭には、三島由紀夫の「豊饒の海」最終巻『天人五衰』があった。
三島由紀夫について書こうとするのはかなり荷が重いが・・。
少し長いが引用する。
--
老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。(中略)あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてきたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。(中略)
『いや、俺には、時を止めるのに、「この時を措いては」というほどのときはなかった。(中略)自分には青春の絶頂というべきものがなかったから、止めるべき時がなかった。(中略)絶頂を見極める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。(中略)
強靭な意志が宿命を阻んで来たからだ、と言うのは易しい。本当にそうだったろうか。意志とは、宿命の残り滓ではないだろうか。自由意志と決定論のあいだには、印度のカーストのような、生まれついた貴賤の別があるのではなかろうか。もちろん賤しいのは意志のほうだ。・・・』
--
宿命が記憶から来るというのは、実際的な体験としての過去だけでなく、民族や国家、宗教、血縁、土地、歴史といった超越的過去も含んでのことである。それで自意識という言葉がわかりよいという気もする。
本多や透の目は、意志の目である。それは篠山も同様である。
篠山に自尊心を感じるのは僕の誤解だった。
確かに篠山の目は、写真の目は過去を見ている。
それがアイドルであればなおさらだ。
しかしそれは自らの宿命のなさへの嘆きであり、いうなればカーストの低いものが、カーストの高いものへ示す盲目的な畏敬といってもよくて、それで視界はなおのこと晴れた。
篠山が見る過去には、篠山自身が不在だ。
篠山はあくまで客体として「所有」することに楽しみがあるのである。
(これの前のブログだが)第三巻「暁の寺」の読後に一年前の僕はこう記している。
『青春が永遠の時にあるのとは反対に、老いは流れる時の中にある。青春の余りに短命な、花火の燃えるような時間は、それが瞬間的な燃焼の中にあるからこそ、逆説的に、その当事者は神秘的な永久不変の世界へと溶け込み、自らが世界であるという実感をその胸の中に抱くことができる。一方、老いとは、刻々と過ぎ行く時の流れに乗って彷徨う、刹那的な儚さの中に再起し続ける。』
この文章に全て書きつくされているように思うのは、
僕の成長のなさの堂々巡りを示しているとでも言うだろうか。
兎も角、『記憶の喪失は自尊心の喪失と同義だった。』という結論には変わりがない。
そして、その記憶喪失が自らの手によって戦略的に遂行されたのであるということも。
僕たちは過去の記憶を敢えて失くすことで、
宿命から逃れ、現在という永遠のなかへ溶け込もうと企図した。
自尊心という問題を棚上げして・・。
僕たちの世代の"モラトリアム"の字義的な端境期を越えて、合目的的に操作されたかにすらみえる「自分探し」の意味はここにある。
・・・
釣りの記録は友力本願に任せておく。非常に楽しかった。いい企画だったなあ。
(写真をみると4:3のちょっとした合コン企画にもみえるが、3カップル+僕である・・嘆かわしや!)
携帯電話のメモリはまだ復旧の目処はないが
ドコモショップが言うには五分五分ということだった。
前に使っていた携帯からメモリを拾い出せるということを聞いて、
五年くらい前に使っていた携帯(一つ前の携帯は全くダメになって捨てた)
を取り出してみたが、そこにあるのは消えてもいいと願った過去ばかりだった。
結局今からでも再構築できる現在進行形のメモリはあるにせよ、
取り戻すべき過去は消し去りたい過去だけなのかもしれない。
あるいは過去とは消し去るべきものであるというほうが適切だろうか・・。
# また今日も長いな・・
2009年6月14日日曜日
重要なご連絡
携帯電話が水没しました。
メールのご連絡は、Gmailまでお願いします↓
hitanioka あっとマーク gメール どっとコム。
電話でのご連絡は、えーーと・・
会社にかけてくれたらつながりますが・・。
明日docomo shop に行ってデータの復旧を試みますが、
多分無理だと思います。
ということで私はあなたに連絡できません。
僕はそのことをとても重大なアクシデントだと思っています。
あなたにとってはさほどのことでもないかもしれませんが、
あなたが私に連絡することで、私たちの繋がりは元に戻ります。
どう判断するかはあなた次第です。責はすべて私にあります。
ご連絡をお待ちしています。(ってブログで言ってもねえ。)
・・・連絡いただけない場合も、私が連絡を取りたくなったら、
なんとかするってばよ。
iPOD もなくしたし、この際 iPhone 買おうかな。
そしたらメアド変わるだろうから、それこそ全くの僕の無責任で、
連絡取れない人も出るってばよ・・笑
って笑っている場合じゃないってばよ!
ということで、このブログはノアの箱舟?
携帯に登録されていてブログをご覧になっていない多数派の皆様にはレクイエムを。
メールのご連絡は、Gmailまでお願いします↓
hitanioka あっとマーク gメール どっとコム。
電話でのご連絡は、えーーと・・
会社にかけてくれたらつながりますが・・。
明日docomo shop に行ってデータの復旧を試みますが、
多分無理だと思います。
ということで私はあなたに連絡できません。
僕はそのことをとても重大なアクシデントだと思っています。
あなたにとってはさほどのことでもないかもしれませんが、
あなたが私に連絡することで、私たちの繋がりは元に戻ります。
どう判断するかはあなた次第です。責はすべて私にあります。
ご連絡をお待ちしています。(ってブログで言ってもねえ。)
・・・連絡いただけない場合も、私が連絡を取りたくなったら、
なんとかするってばよ。
iPOD もなくしたし、この際 iPhone 買おうかな。
そしたらメアド変わるだろうから、それこそ全くの僕の無責任で、
連絡取れない人も出るってばよ・・笑
って笑っている場合じゃないってばよ!
ということで、このブログはノアの箱舟?
携帯に登録されていてブログをご覧になっていない多数派の皆様にはレクイエムを。
2009年6月13日土曜日
バジル三昧
昨日もらった誕生日プレゼントでお料理!
昼食は鶏のもも肉を焼いて、頂き物のバジルソースをかけてみる。
何とも単純すぎる料理だ。さすがに工夫が足りなすぎる。
鶏肉はもちっとパリっとさせたいところ。

それでやっぱり順当にパスタを作ろうと思って、
バジルソース再チャレ。具材は鶏肉とトマト。
最後にパルメザンチーズをかけて。

非常に美味! うまい! 天才!
急にミョウガが食べたくなって、二品目。
味噌ペーストも試してみるが、これちょっと甘め。
何につけるがいいかねえ。
ミョウガは普通に酢に漬けて食った。
ああミョウガ。なんで急に食べたくなったのだろう?
食材が昼と夜いっしょだって?
あのねー。一人前しかつくらないから、そうなっちゃうの。
毎日料理するんならまだしも、週一回なんだからさー。
だからけっこう大変なのよ。
一単位の量が多いもの(大根とか白菜とか葱とかブロッコりーとか)
は買いづらく、一日で食いきれないとすれば日持ちしないものはきつい。
そういう劣悪な環境の中で、低レベルな技量でもって何とかしようとするのは
なかなかに大変なわけですよ、はい。
(いつも似たような食材を似たような味付けで食っていると、
技術もあがらないからね。)
調味料を増やすというのは有効な手段である(ありがとう)。
もうちょっと技を磨いて、珍しい焼酎を取り寄せて、
ホームパーティー第二回に備えないといけない。
昼食は鶏のもも肉を焼いて、頂き物のバジルソースをかけてみる。
何とも単純すぎる料理だ。さすがに工夫が足りなすぎる。
鶏肉はもちっとパリっとさせたいところ。

それでやっぱり順当にパスタを作ろうと思って、
バジルソース再チャレ。具材は鶏肉とトマト。
最後にパルメザンチーズをかけて。

非常に美味! うまい! 天才!
急にミョウガが食べたくなって、二品目。
味噌ペーストも試してみるが、これちょっと甘め。
何につけるがいいかねえ。
ミョウガは普通に酢に漬けて食った。
ああミョウガ。なんで急に食べたくなったのだろう?
食材が昼と夜いっしょだって?
あのねー。一人前しかつくらないから、そうなっちゃうの。
毎日料理するんならまだしも、週一回なんだからさー。
だからけっこう大変なのよ。
一単位の量が多いもの(大根とか白菜とか葱とかブロッコりーとか)
は買いづらく、一日で食いきれないとすれば日持ちしないものはきつい。
そういう劣悪な環境の中で、低レベルな技量でもって何とかしようとするのは
なかなかに大変なわけですよ、はい。
(いつも似たような食材を似たような味付けで食っていると、
技術もあがらないからね。)
調味料を増やすというのは有効な手段である(ありがとう)。
もうちょっと技を磨いて、珍しい焼酎を取り寄せて、
ホームパーティー第二回に備えないといけない。
2009年6月12日金曜日
不可能だからこそ、と言えば君は。君の神性を魅せた
死の不可能性。
それこそが僕の生きる意味ではなかったか。
情死にしろ、憤死にしろ、名のつく死をいくつ数えあげたことだろう。
死を数えても、生は見えぬ。
しかし・・・死をなくして生はあるだろうか。
言葉が継がない。
それならば、何をもって指し示すと言うのだ!
死も、生も、何も訴えかけてはこない。
ならば何が僕に語りかけてくれるのだろう?
愛と呼ぼう? 神と呼ぼう?
That't all right.
命と呼ぼう。
生命、それこそが! 生命が呼ぶ。
呼ぶ呼ぶ呼ぶ・・・・・・・・・。
* * *
ズブロッカ、君の名を僕は呼ぶ。
だから、何だって言うのだ。
この怒りを君は知っているのだろうか。
向こう見ずの・・・・
それこそが僕の生きる意味ではなかったか。
情死にしろ、憤死にしろ、名のつく死をいくつ数えあげたことだろう。
死を数えても、生は見えぬ。
しかし・・・死をなくして生はあるだろうか。
言葉が継がない。
それならば、何をもって指し示すと言うのだ!
死も、生も、何も訴えかけてはこない。
ならば何が僕に語りかけてくれるのだろう?
愛と呼ぼう? 神と呼ぼう?
That't all right.
命と呼ぼう。
生命、それこそが! 生命が呼ぶ。
呼ぶ呼ぶ呼ぶ・・・・・・・・・。
* * *
ズブロッカ、君の名を僕は呼ぶ。
だから、何だって言うのだ。
この怒りを君は知っているのだろうか。
向こう見ずの・・・・
2009年6月11日木曜日
二十六歳の私によせて
誕生日などというのがあった。
ひとつ歳をとった。
まだ若いには若いだろうが、
梅雨に濡れる若葉のような熱気を含んだ飛翔を、
真摯に興じれるほどの爛漫は既に去っている。
若さは無垢な悲哀を笑っても泣いても、
その表情の影に隠そうとしない。
あるいは悲哀こそが若さにとって光なのだ。
篠山紀信のヌードを見ながら、しかし、写真の中の若さは、
過去に連なっているように思えてならなかった。
(ああこんなふうに酒を飲むというのは
傍目には切なすぎる光景だろうか・・・)
ヌードに誰しもがみるのは「いつか来た道」のその懐かしく、
甘酸っぱい過去の記憶なのだ。
小説で描かれる場合、それは単純に性行為の描写を思い浮かべての
ことだが、そこにあるのはいま現在の幻想である。
いつか村上春樹が「セックスと死は書かない」とどこかで言っていた
ような気がするが、そのどちらもが小説の中では不可避的な欺瞞を、
つまりは幻想のものを引き出してきてその希少性を問うような不毛が
あるからだと思われた。
村上春樹が実際どうだったかこの際どうでもいいが、
文章の中のエロティシズムは、幻想をあるいは未来を志向するのだ。
とはいえ、そのどちらをも書かないというのもまた不毛だ。
村上春樹はそうは言いながらどちらもたくさん書いているような気もする。
だったら上の引用は全くの作り話かもしれない。
不毛といってそれで済むなら、人間は人間たり得ない。
話が逸れた。篠山自身は、「主体がないことが、僕の主体ですね(笑)。・・・主体を消すということで撮るというのとは少し違う。・・・見たいっていう欲望の塊なんだね。」
と言うが。
見ることへの欲望、その過剰は自尊心の絶対に由来する。
ヌード自体はインターネットのおけるエロ情報の氾濫、
雑誌市場に縮退などによってかつてほどの盛り上がりはない。
今回篠山が美術手帖などに出たのもヌードをアートとする以外に
ヌードの生き残る方途を、いまのところ見つけられていないからだ。
(最近テレビでルネサンス絵画のエロティシズムにについて解説していたし。)
その判断の可否あるいは功罪はともかくも、より本質をとらまえようと
するならば、それは記憶の喪失という問題へといたる。
パール・バックが書いた「大地」への記憶、
「ゴッドファーザー」で描かれた家族の記憶、
司馬遼太郎が追った「この国」の記憶・・・。
鮮明な記憶をなくし、浮遊する私たち、
それは事故というよりも、重厚に練りあげられた企図によって、
戦略的に放擲したのだとしても、結果的に、
記憶の喪失は自尊信の喪失と同義だった。
「所有という意識はどうしてもありますよ。僕の眼が見たんだから、僕のものだって言うね。」
と篠山が言うところの意味に共感しづらい点があるとすれば、
それは上記の自尊心という一点に尽きるのではなかろうか。
記憶をめぐる考察をここではしないが、
忘れ去ることに聡くなった私たちは、ただしかし、
忘れ去られる不安にもまた苛まれる。
二十六年間を祝して ――― 僕はその幾ばくも憶えてはいない。
ひとつ歳をとった。
まだ若いには若いだろうが、
梅雨に濡れる若葉のような熱気を含んだ飛翔を、
真摯に興じれるほどの爛漫は既に去っている。
若さは無垢な悲哀を笑っても泣いても、
その表情の影に隠そうとしない。
あるいは悲哀こそが若さにとって光なのだ。
篠山紀信のヌードを見ながら、しかし、写真の中の若さは、
過去に連なっているように思えてならなかった。
(ああこんなふうに酒を飲むというのは
傍目には切なすぎる光景だろうか・・・)
ヌードに誰しもがみるのは「いつか来た道」のその懐かしく、
甘酸っぱい過去の記憶なのだ。
小説で描かれる場合、それは単純に性行為の描写を思い浮かべての
ことだが、そこにあるのはいま現在の幻想である。
いつか村上春樹が「セックスと死は書かない」とどこかで言っていた
ような気がするが、そのどちらもが小説の中では不可避的な欺瞞を、
つまりは幻想のものを引き出してきてその希少性を問うような不毛が
あるからだと思われた。
村上春樹が実際どうだったかこの際どうでもいいが、
文章の中のエロティシズムは、幻想をあるいは未来を志向するのだ。
とはいえ、そのどちらをも書かないというのもまた不毛だ。
村上春樹はそうは言いながらどちらもたくさん書いているような気もする。
だったら上の引用は全くの作り話かもしれない。
不毛といってそれで済むなら、人間は人間たり得ない。
話が逸れた。篠山自身は、「主体がないことが、僕の主体ですね(笑)。・・・主体を消すということで撮るというのとは少し違う。・・・見たいっていう欲望の塊なんだね。」
と言うが。
見ることへの欲望、その過剰は自尊心の絶対に由来する。
ヌード自体はインターネットのおけるエロ情報の氾濫、
雑誌市場に縮退などによってかつてほどの盛り上がりはない。
今回篠山が美術手帖などに出たのもヌードをアートとする以外に
ヌードの生き残る方途を、いまのところ見つけられていないからだ。
(最近テレビでルネサンス絵画のエロティシズムにについて解説していたし。)
その判断の可否あるいは功罪はともかくも、より本質をとらまえようと
するならば、それは記憶の喪失という問題へといたる。
パール・バックが書いた「大地」への記憶、
「ゴッドファーザー」で描かれた家族の記憶、
司馬遼太郎が追った「この国」の記憶・・・。
鮮明な記憶をなくし、浮遊する私たち、
それは事故というよりも、重厚に練りあげられた企図によって、
戦略的に放擲したのだとしても、結果的に、
記憶の喪失は自尊信の喪失と同義だった。
「所有という意識はどうしてもありますよ。僕の眼が見たんだから、僕のものだって言うね。」
と篠山が言うところの意味に共感しづらい点があるとすれば、
それは上記の自尊心という一点に尽きるのではなかろうか。
記憶をめぐる考察をここではしないが、
忘れ去ることに聡くなった私たちは、ただしかし、
忘れ去られる不安にもまた苛まれる。
二十六年間を祝して ――― 僕はその幾ばくも憶えてはいない。
2009年6月8日月曜日
出奔
昨日、スカイクロラの話をしにいったつもりが、
スカイクロラのゲーム(戦闘機を操縦して敵を撃破していく)
からはじまって、Wiiでずっと遊んでいた。
Wii 初めてやったなあ。
あいかわらずゲームの才能は皆無だが、
それでも楽しめるようになっているのは技術と言うより
体感であると言う錯覚を与えるインターフェースだからである
というようなことを、今更言うのは遅すぎる。
一昨日の金曜日は、六本木にある大人の遊び場に
連れて行ってもらって、朝まで飲んで遊んでいた。
お金もそれなりに使ってけっこうな身分である。
未知のものがあればこれも勉強かなと思って、
なるべく行くようにしている。
未知と書いた。
僕は社交的な人間というのでもなく、放っておけば、
引きこもって本ばかり読んでいるような、かといって、
それだけでは満足できない中途半端なのだがともかく、
未知というのは本質的な意味でそう言うのではなくて、
単に初対面の人に会するとか、初めての土地を歩くとか、
実際的な記憶としての未知でそれが書くことに繋がるから
機会をいただいたら乗るようにしている。
(リクルートの社是からすればゴミのようだが・・)
本質的に未知などというものはいかようにも書けない。
書けないから未知だという未知の定義がそれなのだ。
(別に言語論の話をしたいわけではない)
ユートピアン的な知の探求には少し無理があるだろう。
一方、実際的な未知は偉大だが途方もない。
知識の集積に躍起になるのはやめて全てを
放逐することを憶えたほうがいいかもしれない。
***
話が思わぬ方向に進んだ。
引っ越そうと思っている。
気分転換にもなるだろうし、知らない街に住みもすれば
色々とあるはずだ。またこれも金がかかる。
金はないと不便だが、金をインセンティブに生きるのは難しい。
なんだ。ここまで読んでいただいても何も得るものがないだろう。
すみません。
スカイクロラのゲーム(戦闘機を操縦して敵を撃破していく)
からはじまって、Wiiでずっと遊んでいた。
Wii 初めてやったなあ。
あいかわらずゲームの才能は皆無だが、
それでも楽しめるようになっているのは技術と言うより
体感であると言う錯覚を与えるインターフェースだからである
というようなことを、今更言うのは遅すぎる。
一昨日の金曜日は、六本木にある大人の遊び場に
連れて行ってもらって、朝まで飲んで遊んでいた。
お金もそれなりに使ってけっこうな身分である。
未知のものがあればこれも勉強かなと思って、
なるべく行くようにしている。
未知と書いた。
僕は社交的な人間というのでもなく、放っておけば、
引きこもって本ばかり読んでいるような、かといって、
それだけでは満足できない中途半端なのだがともかく、
未知というのは本質的な意味でそう言うのではなくて、
単に初対面の人に会するとか、初めての土地を歩くとか、
実際的な記憶としての未知でそれが書くことに繋がるから
機会をいただいたら乗るようにしている。
(リクルートの社是からすればゴミのようだが・・)
本質的に未知などというものはいかようにも書けない。
書けないから未知だという未知の定義がそれなのだ。
(別に言語論の話をしたいわけではない)
ユートピアン的な知の探求には少し無理があるだろう。
一方、実際的な未知は偉大だが途方もない。
知識の集積に躍起になるのはやめて全てを
放逐することを憶えたほうがいいかもしれない。
***
話が思わぬ方向に進んだ。
引っ越そうと思っている。
気分転換にもなるだろうし、知らない街に住みもすれば
色々とあるはずだ。またこれも金がかかる。
金はないと不便だが、金をインセンティブに生きるのは難しい。
なんだ。ここまで読んでいただいても何も得るものがないだろう。
すみません。
2009年6月4日木曜日
永遠の少女
スカイ・クロラを観る。
評価は二分というのが通説(というのも変な話だが)のようだが、
これを単に「終わりなき日常」(宮台)と捉えると、
それがそうだと思えば嘆息の賛同へと至り、
とはいえと求めることに急なら空虚を掴むことになる。
若者を描いて「終わりなき日常」が舞台となるのは
前提として受け止めたほうがよくて、そう思って観ると、
細かな仕掛けが良くできていて完成度は高いと思う。
たとえその一つ一つが、既に使い古されたものだとしてもだ。
そういう意味では、「終わりなき日常」は単に実際に生きるこの時間に
だけあるのではなくて、創造される作品の中にもあって、
何を書いても同じように見えてしまうという困難を拭いきれない。
なるほど作家の微力と切って捨てることはできるだろうが、
同様に自らの人生の凡庸を受容せざるを得ないことを思えば
それもいささか酷であるように思う。
スカイ・クロラについては色々言いたいこともあるが、
(いくら書籍を紹介しても誰も読んでくれないし!)
これは実際に見ていただいて、僕の記憶が鮮明なうちに
酒でも飲みながらあれやこれや感想を語り合いたいものだ。
この場では、中森明夫の「アイドルにっぽん」と合わせて
読むことでみえる応用編?についてメモしておきたい。
スカイ・クロラとアイドル論を同じ遡上で述べるのは、
無難すぎるほどであって、キルドレ(大人になれない子供たち)が、
大人たちの仕組んだゲームの中で刹那的に生きもし、
またティーチャー(本編では、Father と英語名で呼ばれるが)によって
にべもなく殺される様、そして死してなお・・・と余り言い過ぎると
結局内容に触れてしまいそうになる。
アイドル論に戻ろう。
中森は言う。(日本国憲法をもじっている。)
「価値なきものとして、偶像を生きること。それが『象徴』の宿命だった。自らに課せられたアンビバレントなその"宿命"を、いっそ今、"理想"として生き直すこと。積極的に選び取ること。それこそ、あるべき私たちの将来像 ― リアルな未来のヴィジョンではないか。」
アイドル論を語るときの困難は、「価値なきものとして、偶像を生きる」のが、
自分ではない、生身の人間でなくてはならないことであるにも関わらず、
積極的に選び取っているのは自分自身であるという位相のズレ、それを取り繕うように
多弁になる自分自身の欺瞞ではなかったか。
『象徴』は常に価値を持たず、その無価値に価値を見出す自分。
アイドルの刹那性、あるいは、自殺あるいは夭折した少女たちの神話、
常に永遠なる少女であることを強いる暴力として存在している。
キルドレが記憶を持ち得なかったのも、彼らが主体的に語り始めることを
恐れたからに他ならない。そうでなくてはキルドレは、平和の象徴たり得なかったろう。
しかし、今さら70年代、80年代について語るのはなぜだろうか。
このような話はインターネット以後のいわゆるオタク文化の内実を見渡せば、
容易に解するという以上の進化を見ることができるはずではないだろうか。
だが表面的な論駁は言いとしても内実にはほとんど進歩がないというのも
また真実なのだろうと思う。
中森がアイドルを語るのも、東浩紀がオタクを語るのも結局は同じことだ。
ぐるぐると彷徨いながら、また懐かしい死の顔がそこに浮かぶ。
旧知のなかとなってしまった、腐れ縁の死よ---
死の幻惑、死の夢見、死の超越、死の希望。
死から始まる物語がある。それが僕たちの生だ。
時を遡るようにして生きる僕たち。
ああ、そうだったのだ。僕はようやくスタート地点に立つ。
無価値を生きることにした僕たち。
それは死から始まる逆廻しのラブストーリーだ。
評価は二分というのが通説(というのも変な話だが)のようだが、
これを単に「終わりなき日常」(宮台)と捉えると、
それがそうだと思えば嘆息の賛同へと至り、
とはいえと求めることに急なら空虚を掴むことになる。
若者を描いて「終わりなき日常」が舞台となるのは
前提として受け止めたほうがよくて、そう思って観ると、
細かな仕掛けが良くできていて完成度は高いと思う。
たとえその一つ一つが、既に使い古されたものだとしてもだ。
そういう意味では、「終わりなき日常」は単に実際に生きるこの時間に
だけあるのではなくて、創造される作品の中にもあって、
何を書いても同じように見えてしまうという困難を拭いきれない。
なるほど作家の微力と切って捨てることはできるだろうが、
同様に自らの人生の凡庸を受容せざるを得ないことを思えば
それもいささか酷であるように思う。
スカイ・クロラについては色々言いたいこともあるが、
(いくら書籍を紹介しても誰も読んでくれないし!)
これは実際に見ていただいて、僕の記憶が鮮明なうちに
酒でも飲みながらあれやこれや感想を語り合いたいものだ。
この場では、中森明夫の「アイドルにっぽん」と合わせて
読むことでみえる応用編?についてメモしておきたい。
スカイ・クロラとアイドル論を同じ遡上で述べるのは、
無難すぎるほどであって、キルドレ(大人になれない子供たち)が、
大人たちの仕組んだゲームの中で刹那的に生きもし、
またティーチャー(本編では、Father と英語名で呼ばれるが)によって
にべもなく殺される様、そして死してなお・・・と余り言い過ぎると
結局内容に触れてしまいそうになる。
アイドル論に戻ろう。
中森は言う。(日本国憲法をもじっている。)
「価値なきものとして、偶像を生きること。それが『象徴』の宿命だった。自らに課せられたアンビバレントなその"宿命"を、いっそ今、"理想"として生き直すこと。積極的に選び取ること。それこそ、あるべき私たちの将来像 ― リアルな未来のヴィジョンではないか。」
アイドル論を語るときの困難は、「価値なきものとして、偶像を生きる」のが、
自分ではない、生身の人間でなくてはならないことであるにも関わらず、
積極的に選び取っているのは自分自身であるという位相のズレ、それを取り繕うように
多弁になる自分自身の欺瞞ではなかったか。
『象徴』は常に価値を持たず、その無価値に価値を見出す自分。
アイドルの刹那性、あるいは、自殺あるいは夭折した少女たちの神話、
常に永遠なる少女であることを強いる暴力として存在している。
キルドレが記憶を持ち得なかったのも、彼らが主体的に語り始めることを
恐れたからに他ならない。そうでなくてはキルドレは、平和の象徴たり得なかったろう。
しかし、今さら70年代、80年代について語るのはなぜだろうか。
このような話はインターネット以後のいわゆるオタク文化の内実を見渡せば、
容易に解するという以上の進化を見ることができるはずではないだろうか。
だが表面的な論駁は言いとしても内実にはほとんど進歩がないというのも
また真実なのだろうと思う。
中森がアイドルを語るのも、東浩紀がオタクを語るのも結局は同じことだ。
ぐるぐると彷徨いながら、また懐かしい死の顔がそこに浮かぶ。
旧知のなかとなってしまった、腐れ縁の死よ---
死の幻惑、死の夢見、死の超越、死の希望。
死から始まる物語がある。それが僕たちの生だ。
時を遡るようにして生きる僕たち。
ああ、そうだったのだ。僕はようやくスタート地点に立つ。
無価値を生きることにした僕たち。
それは死から始まる逆廻しのラブストーリーだ。
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