現代において、私たちは幸せでなければならない。
日本において、と遠慮がちに留めるとしても。
その圧によって私たちはどう生きざるを得ないかについて
僕はずっと考えていた。
おそらく僕たちひとつ前の世代は
その頑なな幸福に対し、皮肉な笑みを浮かべ
自演的な快楽に溺れることができたし
いかにその桎梏から逃れるかについての議論を
遊戯的に交わすこともできたのだと思う。
私たちは知的な先輩たちに憧れの視線を送りながら同時に
逃れられぬ呪縛、敗走に次ぐ敗走の現実を無視することもできずにいた。
行動は政治的であらざるを得なくなった。
早くに政治に絶望していた僕は-いまなお-可能性としての芸術に
小説というアプローチで臨むことにし、結果的に、
明らかな方向性を見出すことはできていない。
が、信じている。それ以外残されたていないという諦めも含めて。
幸せでなければならぬという事実に対し求られるのは、
であればこその現実的な重み、煌びやかでも慎ましくてもいい、
幸福の重量なのである。ずしりと腹に据えられるような。
未来に広がる茫漠とした不安を糧としての、
その責任を背負い込むことで生じる不幸への屈折した希望は
重量を求めることで紛れ込むノイズであるかのようだ。
生きることはできる、だがそうでしかありえない牢獄のなかで
発狂する、正常な者たちによる咆哮。嗚呼。
数十年程度の時間に、そう嘆く必要もなく、期待し過ぎるでもなかろうに。
そら陽が昇った、ややもすれば沈む。
ただそれだけのことだ。
2010年11月23日火曜日
2010年9月15日水曜日
演劇について
会社のブログに書きなぐるのは憚られる、生煮えの文章の行き先がなくて、記録用にこのブログを使っている。アート関連のことはまだ勉強中という気持ちが強くて公に発表するのは気が引けるのだ。気取らずに思いのまま書けばいいのだという気もするが。
ひとつ扇情的な文章もあって、それもこちらにまずは掲載しておこうかと思っている。
ひとまず今日は、演劇をやっている方に宛てた私信を転載する。
演劇という表現の可能性についてだ。
* * *
私は小説が好きでよく読むのですが、松尾スズキ、宮沢章夫、本谷有希子、岡田利規といった劇作家出身の書き手から、面白く新鮮な表現が生まれてきたことっ気づき、最初に演劇という表現に興味を持ちました。(その後も劇団の方の小説を選んで読んでいますが、実際に劇場に行ったのは二度ほどです・・)
何故だろう、と考えた時。
小説は出版を前提とするので、無名であろうが、数万部を売れないと成り立ちません。ライトノベルや携帯小説的な表現が流行るのは、ひとつには万人に理解され共感される「わかりやすさ」が重視されるからです。(もちろんライトノベルが全部ダメだとか、良い小説家が全くいないというわけではないですが)
演劇出身の方の小説のおもしろさは、大げさな設定、非現実的なドラマ抜きに現代の日常生活を舞台に、高度に抽象的な表現を達成している点です。
それはおそらく、映画やアニメのように全くの仮想世界を作り出すことのできない劇場という限られた空間において、生身の人間が演じねばならぬという制約からくるのではないかと。
小説はたいてい数日かけて読まれます。電車に乗っている間の暇つぶしとか、寝る前のちょっとした息抜きに。であれば、展開はわかりやすいほうがいいし、紋切り型のストーリーで、容易なカタルシスを得ることのほうが余程娯楽的なのです。
一方で演劇は、数時間の間に集中してみれます。多少の急展開はあったほうがよいし、展開が見えやすいと逆に飽きてしまいます。演劇の作家さんの文章では、要所要所でコミカルな会話表現や描写が挿入されますが、あれもリアルタイムで観客に接する人たちの洗練された表現であるように感じます。
そして、劇場には多くて、数百人、少ないと数十人という若い人たちが訪れることが多いのではないでしょうか。属性の絞られた人たちに向けて発信できるので
抽象度高く、現代性の表現が成立するのではないかなと。
絵画と比べると、絵画作品として展示されているものは、すべて「過去につくられたもの」です。そして作家を抜きにして独り歩きしてしまいます。
その弱点を補うためにLittlefan.net では、観客が、アーティストの活動にリアルタイムに接し、活動の応援を通じて表現にコミットできるようにしたいと思っています。
役者抜きの演劇は考えられないし、観客はチケットを必ず購入してみにきます。そこには常に表現者への投資が含まれています。
とはいえ、演劇も演劇で大変なのだとは思いますが・・・。
* * *
まあ、これもわかりやすい仮説のひとつでしかないが。
アートはデュシャンの便器で、音楽はジョン・ケージが作曲した無音の4分33秒で、表現が一回転した、と言われる。(ウィキペディアによると、ジョン・ケージは、ラウシェンバーグの白い絵に影響をうけたみたいですが。)
・・・書き続ける時間がないので、このあたりにしておく。
現代性は(いつの時代も)大きなテーマなのだ。
ひとつ扇情的な文章もあって、それもこちらにまずは掲載しておこうかと思っている。
ひとまず今日は、演劇をやっている方に宛てた私信を転載する。
演劇という表現の可能性についてだ。
* * *
私は小説が好きでよく読むのですが、松尾スズキ、宮沢章夫、本谷有希子、岡田利規といった劇作家出身の書き手から、面白く新鮮な表現が生まれてきたことっ気づき、最初に演劇という表現に興味を持ちました。(その後も劇団の方の小説を選んで読んでいますが、実際に劇場に行ったのは二度ほどです・・)
何故だろう、と考えた時。
小説は出版を前提とするので、無名であろうが、数万部を売れないと成り立ちません。ライトノベルや携帯小説的な表現が流行るのは、ひとつには万人に理解され共感される「わかりやすさ」が重視されるからです。(もちろんライトノベルが全部ダメだとか、良い小説家が全くいないというわけではないですが)
演劇出身の方の小説のおもしろさは、大げさな設定、非現実的なドラマ抜きに現代の日常生活を舞台に、高度に抽象的な表現を達成している点です。
それはおそらく、映画やアニメのように全くの仮想世界を作り出すことのできない劇場という限られた空間において、生身の人間が演じねばならぬという制約からくるのではないかと。
小説はたいてい数日かけて読まれます。電車に乗っている間の暇つぶしとか、寝る前のちょっとした息抜きに。であれば、展開はわかりやすいほうがいいし、紋切り型のストーリーで、容易なカタルシスを得ることのほうが余程娯楽的なのです。
一方で演劇は、数時間の間に集中してみれます。多少の急展開はあったほうがよいし、展開が見えやすいと逆に飽きてしまいます。演劇の作家さんの文章では、要所要所でコミカルな会話表現や描写が挿入されますが、あれもリアルタイムで観客に接する人たちの洗練された表現であるように感じます。
そして、劇場には多くて、数百人、少ないと数十人という若い人たちが訪れることが多いのではないでしょうか。属性の絞られた人たちに向けて発信できるので
抽象度高く、現代性の表現が成立するのではないかなと。
絵画と比べると、絵画作品として展示されているものは、すべて「過去につくられたもの」です。そして作家を抜きにして独り歩きしてしまいます。
その弱点を補うためにLittlefan.net では、観客が、アーティストの活動にリアルタイムに接し、活動の応援を通じて表現にコミットできるようにしたいと思っています。
役者抜きの演劇は考えられないし、観客はチケットを必ず購入してみにきます。そこには常に表現者への投資が含まれています。
とはいえ、演劇も演劇で大変なのだとは思いますが・・・。
* * *
まあ、これもわかりやすい仮説のひとつでしかないが。
アートはデュシャンの便器で、音楽はジョン・ケージが作曲した無音の4分33秒で、表現が一回転した、と言われる。(ウィキペディアによると、ジョン・ケージは、ラウシェンバーグの白い絵に影響をうけたみたいですが。)
・・・書き続ける時間がないので、このあたりにしておく。
現代性は(いつの時代も)大きなテーマなのだ。
2010年7月26日月曜日
可能性
最近、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」を読む。
世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)
タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。
それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。
悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。
この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。
でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。
世界の並行性、同時多発性、可能世界の実在については
僕も長年考えていたことであって興味深く読めた。
(あんなふうにタイムトラベルをからめたりしないが)
タイトルの通り、壮大な設定にもかかわらず、あくまで家族の問題、
親の愛を欲したり、子を愛せなかったり、夫婦間の嫉妬であったり、
そういう日常生活を、ただやたらに引き伸ばしている。
結局、東も世界を論じないのだなあという気持ちなった。
僕も同様に、ほとんど世界を論じることを諦めてしまった。
なぜだろうか。
それが極端に困難であるとか、物語の終わりを越えて、そのような議論自体が
成り立たないということは文学において理由にならなくて、意志の問題なのである。
世界を意志の矛先に据えることの意義を見出すことができるかどうかなのだ。
あるいは、家族を通して描いたと言うのであれば、それも一つの方法論としてある。
新興宗教に犯された陳腐な未来像、2035年という近すぎる未来について。
でもやっぱり、僕はこの小説において、世界は論じられていないと考える。
論じないことにおいて何かを表徴しようとしたという議論を続けることが
一つの選択肢であるとしても、それはやはり、選択肢でしかないわけだ。
悲観して言うのではない、自分もそうだと同調して己の確からしさを述べたいのでもない。
ああ、そうか、というだけのことなのだ。
この作品は小説として悪くない。SFに期待を抱いていた僕としてはなおさら、
その可能性を示してくれた作品とも感じる。
受賞に値するものであるし、多くの人に読まれ高い評価を得るだろう。
そう素直に思う。
でも、僕はこれを好きになれない。
ほとんど何も感情を生まない。
なぜだろうか。
2010年7月3日土曜日
戯れ
まとまった文章を書かない期間がこれほど長いと
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。
もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。
質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。
何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。
言葉を先に進める。
そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。
最近、僕は本を読んでいない。
こうして目的もなく書き連ねていく所作がとても懐かしいし
我が家に帰ってきたような、無目的な愛情、非生産的な真面目と仮に
形容してよしとするような気分が心地よいのだった。
もちろん僕はいまでも、そして誰もが、書いている。
量の多寡など問題ではなくて、あるいは書きたいこと、
書くべきことを書くということにしても、そう変わりはしない。
質といってしまえば思考停止に過ぎる。
言葉たちの生まれ出ずるその根源、発せられ定着し忘れさられる
言葉の一生があるとすれば、その次元が異なるのである。
何を言いたいのかと意味を問うことは、ここではあまりに幼稚的な所作だ。
根源的に理解することなど不可能な、それが言葉であることが辛うじて
平仮名と漢字という形態によって担保されているだけの記号の羅列だ。
そのことを前提にして成立する世界なのだ。
かといってあなたが、その言葉たちを好むか嫌悪するかといった類の
あるいは、それを何とかと仮定して繰り広げられる不毛なゆえに神秘的な遊戯
としたにせよ、必要とされることなどないし、何の役にも立たぬ、
正真正銘の不毛なのだ。
言葉を先に進める。
そういえば六本木の上層から眺める、ヒルズの聳え立ち、東京タワーの
赤く燃える夜景は、地響きするリズムと酒と、男と女の交じり合う吐息の
向こう側にあって、相も変わらず一幅の絵画であった。
渋谷の路面の暑い似た情景のなかにある部屋は、それとはまた違った色
― そこにいる人が個体として同一であったにせよ ― をしていた。
それが僕は嬉しかった。
最近、僕は本を読んでいない。
2010年2月16日火曜日
突然の終幕
このブログは僕にとって3つ目だが、
その役目を終えてしまった。
一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。
2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」
このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。
そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。
最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)
「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。
実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。
そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。
洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。
それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。
(了)
その役目を終えてしまった。
一年半という時が流れた。
その間、僕の思索はその大筋に全く変化がなく
その変化がないことを確かめ、
情けないやら歯がゆいやら、
という思いは捨ててそれをむしろ頼みにして
歩むことに決めたその一歩一歩であったと思う。
2004年12月、もう6年も前のことだが2つ目のブログに
移行したときに、僕はこう綴っている。
「インターネットで自らの文章を公開するという新しい試みの実験場として、たいへん有意義な取り組みでしたし、そこに書いた50余の文章は、今でも責任ある僕の思想として通用するものばかりです。
とはいえ、読者にとってみれば親しみやすい文章ばかりではなかったと思います。公開とはいえ、半ば僕自身のために書く早産な言葉たちは、僕以外の人たちにとって容易に理解できるものではなかったでしょう。実際、必ずしも理解してもらうために書いていたわけでもありませんでした。」
このことは未だに変わらない。
だからたぶん僕は書き続けるのだと思う。
そう、もちろん僕は書くのを辞めることはない。
最後に、このブログでメインコンテンツだった書籍の紹介で締めたいと思う。
(結局アフィリエイトでは一冊も売れなかった。)
「イリュージョン」は男子の心を無邪気にくすぐる。
広い青い空があってそれだけでわくわくする。
そんな作品だ。
実はいま、ゆっくりと本を読んでいる気にはなれなくて
「イリュージョン」の残像は断片的にしかない。
よい作品であるだけに、とても残念なことだ。
そんな状況であったにもかかわらず、「下妻物語」ときたら、
電車で読んでいると知らぬうちに没入し、
くっくと湧き上がる笑いを抑えることができないのでした。
阿呆に見られてはいけないと思いながら、
ニタニタ笑みを浮かべたまま地下鉄のコンコースを過ぎ、
乗り継いだ電車が発車すればまた物語の続きへと
立ち戻らずにはいられないのです。
洒落の効いたフレーズが、女子のネイルのラメみたいに
散りばめられていて、安っぽい輝きを放っています。
その種のものに対して、
男子はたいそう馬鹿馬鹿しい事のように眺めながらも、
存外心のうちでは可愛らしく感じているものです。
その感覚を否定したりせずに素直に受け入れられる自分にこそ
むしろ酔うものなのでせう。
ストーリーは単純明快で特に何も申し上げることはありません。
それではこれにて終了です。
懲りずにまた書き始めることと思いますが、
次に続けられる言葉が何であるよりもまず
この一年半に書いてきた言葉のうちの何かが、
あなたの胸のうちに残っていればこれに勝る幸せはありません。
僕はそのことに過大の期待はしてはおりませんが。
(了)
2010年2月9日火曜日
何なりとは言え
今日はとてもたくさんのヒントをもらった。
忘れないうちにメモっておく。
(こういう書き方は僕にとって珍しい。)
1 想像できることは実現できる
1-1 たくさんの未来のビジョンを世に創りださなくてはいけない
1-1-1 時系列的に過去に生み出された未来の想像力は現在においても
未来でありうる
1-1-2 未来のビジョンが必要なのは現在の幸せについて事後的に断ずる
において、過去が暗くとも生に輝きを与えることができるとすれば
それは未来であるからだ
1-2 未来のビジョンは想像力と自分が関与する人生によって示される
1-2-1 他人の幸せが自分の幸せであるというのは便宜的にそうなのではない
1-2-2 自分がどうであるかにかかわりなく人は幸福になり得る
2 現在は過去と未来を束ねている
3 芸術は未来のビジョンを示す一つの方法である
3-1 芸術が生み出されるのは幸福について考えがあるからだ
3-2 芸術に関与することによって自らの幸福をそれによって他人の幸福を
それによって自らの幸福を再帰的に増大せしめることができる
3-2-1 未来のビジョンは排他性という暴力に病む事がある
3-2-2 新たな芸術は常に産みだされなければならない
4 愛こそ全てという言葉についてもう一度考えてみるといい
4-1 未来を信じるものでなければ芸術になりえない
忘れないうちにメモっておく。
(こういう書き方は僕にとって珍しい。)
1 想像できることは実現できる
1-1 たくさんの未来のビジョンを世に創りださなくてはいけない
1-1-1 時系列的に過去に生み出された未来の想像力は現在においても
未来でありうる
1-1-2 未来のビジョンが必要なのは現在の幸せについて事後的に断ずる
において、過去が暗くとも生に輝きを与えることができるとすれば
それは未来であるからだ
1-2 未来のビジョンは想像力と自分が関与する人生によって示される
1-2-1 他人の幸せが自分の幸せであるというのは便宜的にそうなのではない
1-2-2 自分がどうであるかにかかわりなく人は幸福になり得る
2 現在は過去と未来を束ねている
3 芸術は未来のビジョンを示す一つの方法である
3-1 芸術が生み出されるのは幸福について考えがあるからだ
3-2 芸術に関与することによって自らの幸福をそれによって他人の幸福を
それによって自らの幸福を再帰的に増大せしめることができる
3-2-1 未来のビジョンは排他性という暴力に病む事がある
3-2-2 新たな芸術は常に産みだされなければならない
4 愛こそ全てという言葉についてもう一度考えてみるといい
4-1 未来を信じるものでなければ芸術になりえない
2010年2月3日水曜日
水曜日、朝
おはようございます。
出立の直前というのは不思議とたゆたう海原が
穏やかに見えるものなのでしょうか。
実に粗末な小船に荷物を降ろして喫水線の位置を
確かめながら、不安だなあと思う。
行く先は水平線の向こうに見えず、
コンパスが狂うことはないと信じても、
風向きや潮の流れがどうであるかは漕ぎ出して
みなければわからぬ。
予報も希望もほどほどに斟酌しながら
そうして明日の航海を思い描いている。
ああ、いよいよだなとひとりごち、けれど
湧き上がるのは焦燥でなくして安堵であるというのは
いささか白痴的であるとすら感じる。
怯えがあるとすればその自身の厚顔に対してなのである。
出立の直前というのは不思議とたゆたう海原が
穏やかに見えるものなのでしょうか。
実に粗末な小船に荷物を降ろして喫水線の位置を
確かめながら、不安だなあと思う。
行く先は水平線の向こうに見えず、
コンパスが狂うことはないと信じても、
風向きや潮の流れがどうであるかは漕ぎ出して
みなければわからぬ。
予報も希望もほどほどに斟酌しながら
そうして明日の航海を思い描いている。
ああ、いよいよだなとひとりごち、けれど
湧き上がるのは焦燥でなくして安堵であるというのは
いささか白痴的であるとすら感じる。
怯えがあるとすればその自身の厚顔に対してなのである。
2010年1月31日日曜日
陽光
見渡す限りと思うとそれが全てになることを、彼は物足りなく感じたのだろう。
藍色の空は冷たく澄んだ大気の向こうに際限なく広がっていてそれだけで美しく、風景は白く木目細やかに化粧された雪山とカラフルな人々の笑い声と木々の直線的な力強さを加え、実に雄大と言えるものであった。けれど、彼はその合間にある農村の存在が気に食わぬようだった。大地において彼は唯一の光だった。そうしてそこに立っていた。しかし、農村はあくまで煤けた姿をさらし、陽光の持つ温もりを怠惰にもらいうけてへらへらと媚びた笑みを崩すことができなかった。それは能面のように張り付いていて、真に価値あるものがなんであろうと、本当の美しさがなんであろうと、幸福の意味がなんであろうと、過ぎ行くのを待ち、時は流れ止まず、流れ流れていくそのあいだ、ただじっと笑みを浮かべて待っていた。流れはひとつの風景として固着し聳え立ち、その前で自分は全くの無力だった。というより、眠りから覚めていないことを知って夢のなかの災難が苦にならぬとうよりは無意味になってしまうように、流れはただ無意味だった。
彼が怒り咆哮していたのは、そのような怠惰についてなのであった。
だからといって俺はこの空にまさるものがあろうはずもないことを知っていた。その知は俺の限界を輪郭するだろうか、彼の志向する世界について、俺は何か見劣りする点を持つだろうか。
俺は彼の傲慢が無知に依るものであることを見抜いていた。彼が光り輝くのはその愚かさを省みることがなかったからだ。
おおい、と俺は叫んでやった。彼は稚拙に明滅しながらおおいとそれに応えた。彼はゆっくりと滑り降りてきて、そこに脅えのあることに今度は俺が腹を立てた。
雪山の化身となって俺は彼の小さな体躯を厚い掌で叩いた。彼は狂い叫んだ。光を閉ざすなと俺に命令した。
途端に陽光は彼から光を奪い取り、ゲレンデで運動する者たちに分け与えた。腑抜けた温もりが広がり、重い雪の滞積は風邪っぴき小僧の鼻水のように愚図ついてしまった。しかし俺はそれで良いのだと思った。俺はもう一度おおいと彼を呼んだ。彼は黙って藍色の空を眺めていた。
藍色の空は冷たく澄んだ大気の向こうに際限なく広がっていてそれだけで美しく、風景は白く木目細やかに化粧された雪山とカラフルな人々の笑い声と木々の直線的な力強さを加え、実に雄大と言えるものであった。けれど、彼はその合間にある農村の存在が気に食わぬようだった。大地において彼は唯一の光だった。そうしてそこに立っていた。しかし、農村はあくまで煤けた姿をさらし、陽光の持つ温もりを怠惰にもらいうけてへらへらと媚びた笑みを崩すことができなかった。それは能面のように張り付いていて、真に価値あるものがなんであろうと、本当の美しさがなんであろうと、幸福の意味がなんであろうと、過ぎ行くのを待ち、時は流れ止まず、流れ流れていくそのあいだ、ただじっと笑みを浮かべて待っていた。流れはひとつの風景として固着し聳え立ち、その前で自分は全くの無力だった。というより、眠りから覚めていないことを知って夢のなかの災難が苦にならぬとうよりは無意味になってしまうように、流れはただ無意味だった。
彼が怒り咆哮していたのは、そのような怠惰についてなのであった。
だからといって俺はこの空にまさるものがあろうはずもないことを知っていた。その知は俺の限界を輪郭するだろうか、彼の志向する世界について、俺は何か見劣りする点を持つだろうか。
俺は彼の傲慢が無知に依るものであることを見抜いていた。彼が光り輝くのはその愚かさを省みることがなかったからだ。
おおい、と俺は叫んでやった。彼は稚拙に明滅しながらおおいとそれに応えた。彼はゆっくりと滑り降りてきて、そこに脅えのあることに今度は俺が腹を立てた。
雪山の化身となって俺は彼の小さな体躯を厚い掌で叩いた。彼は狂い叫んだ。光を閉ざすなと俺に命令した。
途端に陽光は彼から光を奪い取り、ゲレンデで運動する者たちに分け与えた。腑抜けた温もりが広がり、重い雪の滞積は風邪っぴき小僧の鼻水のように愚図ついてしまった。しかし俺はそれで良いのだと思った。俺はもう一度おおいと彼を呼んだ。彼は黙って藍色の空を眺めていた。
2010年1月26日火曜日
スノボ
2010年1月17日日曜日
一里塚
これからの10年をどう生きるか、
僕にっていまそれが最大の関心事である。
もちろん先のことなどわからないというのが
絶対的にあるけれどもね。
「ゼロ年代の想像力」は今後を考える上で非常に役立つ一冊であると思う。
大学受験に向けて和歌山で必死に勉強していた頃、
受験戦争に勝ち抜き上京して一旗あげようと夢見ていた頃、
黒煙をあげるWorld Trade Center の映像が突然テレビに映し出され
そうして僕のゼロ年代は始まった。
東京で見るあらゆるものを吸収し、反発し、嫌悪し、憧れ、誓い、諦め、
慎重にゆっくりと、でも何かに急き立てられるような焦りのなかで
僕はまるで早足で歩くみたいにゼロ年代を過ごした。
テレビドラマ批評という僕にとって馴染みのないアプローチであるが、
本書は、気付いたらゼロ年代の渦中にいた僕が無意識のうちに
感じていたこと、何とか言葉にしようとしてブログで書いていたことを
きれいに整理してくれている。
その上でこれからの歩み方を示唆してくれるのは
何もテレビドラマだけではない。
本書ではほとんど相手にされなかった金原ひとみや松尾スズキの作品に
それを見出すことができるし、本谷有希子、枡野浩一、岩井俊二だっている。
小説において同世代の作家となると寂しい気持ちは確かにあるけれど、
僕が寡聞であるだけで実は大勢の新しい想像力が
生み出されていることだろうと思う。
それに過去の作品からも僕たちは未来を学ぶことができるし、
何故か本書で全く言及されなかった海外の作品からも
僕たちは新しい想像力を培うことができる。
視野を広げて映画や絵画、学問といったところからも
栄養を摂ることができれば、さらに世界の奥行きは広がる。
こうでなければならないということはもはやない。
多様であっていい。
宇野の告白に共感する。
これからの十年はもっと自由になる。
僕たちはその責任を引き受けなければならないのだ。
僕はそのこと自体を悲観するつもりはない。
とにかく前進すること、そして幸せになることだ。
僕にっていまそれが最大の関心事である。
もちろん先のことなどわからないというのが
絶対的にあるけれどもね。
「ゼロ年代の想像力」は今後を考える上で非常に役立つ一冊であると思う。
大学受験に向けて和歌山で必死に勉強していた頃、
受験戦争に勝ち抜き上京して一旗あげようと夢見ていた頃、
黒煙をあげるWorld Trade Center の映像が突然テレビに映し出され
そうして僕のゼロ年代は始まった。
東京で見るあらゆるものを吸収し、反発し、嫌悪し、憧れ、誓い、諦め、
慎重にゆっくりと、でも何かに急き立てられるような焦りのなかで
僕はまるで早足で歩くみたいにゼロ年代を過ごした。
テレビドラマ批評という僕にとって馴染みのないアプローチであるが、
本書は、気付いたらゼロ年代の渦中にいた僕が無意識のうちに
感じていたこと、何とか言葉にしようとしてブログで書いていたことを
きれいに整理してくれている。
その上でこれからの歩み方を示唆してくれるのは
何もテレビドラマだけではない。
本書ではほとんど相手にされなかった金原ひとみや松尾スズキの作品に
それを見出すことができるし、本谷有希子、枡野浩一、岩井俊二だっている。
小説において同世代の作家となると寂しい気持ちは確かにあるけれど、
僕が寡聞であるだけで実は大勢の新しい想像力が
生み出されていることだろうと思う。
それに過去の作品からも僕たちは未来を学ぶことができるし、
何故か本書で全く言及されなかった海外の作品からも
僕たちは新しい想像力を培うことができる。
視野を広げて映画や絵画、学問といったところからも
栄養を摂ることができれば、さらに世界の奥行きは広がる。
こうでなければならないということはもはやない。
多様であっていい。
宇野の告白に共感する。
これからの十年はもっと自由になる。
僕たちはその責任を引き受けなければならないのだ。
僕はそのこと自体を悲観するつもりはない。
とにかく前進すること、そして幸せになることだ。
2010年1月10日日曜日
永遠を探して
小説を読んでいると、あるいはその批評となった途端、
時流のなかでの位置づけ、時代の気分が表徴されているかのような
言い回しに向かうことがある。
例えば「この作品は80年代の・・・バブル崩壊後の・・・9.11以後の・・・」
といった具合にだ。
あるいは「○○は××の問題意識をさらに押し広げ・・」といったように
間接的にだが時系列に並べることで、小説世界の発展を見通したりする。
何度か言及したと思うがおそらく大江健三郎の文章で
どこでいつ読んだのかしらないか印象的な話がある。
科学技術は蓄積のなかで進歩していく。
しかし小説はちがう。ドストエフスキーが今の自分に最も必要であったり
ウィトゲンシュタインに影響を受けて90年代らしい作品が生まれたりする。
雑然と並べられた本棚をイメージするとわかりやすい。
書物の知恵は時系列に関係なく同時多発的に「生まれ」るのだ。
あとから時系列に整理して傾向が浮かんで見えるのは
人は環境に大いに影響を受けるという当然のことを
ただ示しているにすぎず、実は退屈な議論なのである。
だからこそ、張りぼての神様と物語のない日常しかない現代において
共時的、実践的、対話的に現前し意味世界をつくる芸術的なるものが
いまあらためて必要とされるのだろうと思う。
思いのほか前置きが長くなった。
G.ガルシア=マルケスである。
『百年の孤独』はいつかの楽しみにとってあって今回は、
短編集『エレンディラ』を読む。
彼の作品には時間が流れていない。
それを、南アの時間の全く外にいる僕自身の問題でもあるとか
この作品が童話的であるということからして、
時間が流れていないように感じるのだと明確に結論付けたって構わない。
しかし、激しい雨の降る蒸し暑い路傍に横たわる老いた天使、
バラの香りを放つ海の底で日曜日の朝十一時に水没した村、
エレンディラが勤める砂漠の真ん中にあるテントに長く伸びる男たちの列、
そういうひとつひとつの情景が絵画のように鮮やかに描かれていて
その時は永遠である。
永遠を描くことが文学にとって唯一とも最上とも思わないが
この手の作品に親しむことができればもっと豊かに安らかに
人生をとらえることができようにと思っている。
文学あるいは芸術の価値について今更、再構築しようというつもりもないが
その魅力に心酔し生ある限り関わっていけたらと思っている。
※「エレンディラ」を二冊買ってしまったので読みたい方いれば無料で差し上げます。ご連絡ください
時流のなかでの位置づけ、時代の気分が表徴されているかのような
言い回しに向かうことがある。
例えば「この作品は80年代の・・・バブル崩壊後の・・・9.11以後の・・・」
といった具合にだ。
あるいは「○○は××の問題意識をさらに押し広げ・・」といったように
間接的にだが時系列に並べることで、小説世界の発展を見通したりする。
何度か言及したと思うがおそらく大江健三郎の文章で
どこでいつ読んだのかしらないか印象的な話がある。
科学技術は蓄積のなかで進歩していく。
しかし小説はちがう。ドストエフスキーが今の自分に最も必要であったり
ウィトゲンシュタインに影響を受けて90年代らしい作品が生まれたりする。
雑然と並べられた本棚をイメージするとわかりやすい。
書物の知恵は時系列に関係なく同時多発的に「生まれ」るのだ。
あとから時系列に整理して傾向が浮かんで見えるのは
人は環境に大いに影響を受けるという当然のことを
ただ示しているにすぎず、実は退屈な議論なのである。
だからこそ、張りぼての神様と物語のない日常しかない現代において
共時的、実践的、対話的に現前し意味世界をつくる芸術的なるものが
いまあらためて必要とされるのだろうと思う。
思いのほか前置きが長くなった。
G.ガルシア=マルケスである。
『百年の孤独』はいつかの楽しみにとってあって今回は、
短編集『エレンディラ』を読む。
彼の作品には時間が流れていない。
それを、南アの時間の全く外にいる僕自身の問題でもあるとか
この作品が童話的であるということからして、
時間が流れていないように感じるのだと明確に結論付けたって構わない。
しかし、激しい雨の降る蒸し暑い路傍に横たわる老いた天使、
バラの香りを放つ海の底で日曜日の朝十一時に水没した村、
エレンディラが勤める砂漠の真ん中にあるテントに長く伸びる男たちの列、
そういうひとつひとつの情景が絵画のように鮮やかに描かれていて
その時は永遠である。
永遠を描くことが文学にとって唯一とも最上とも思わないが
この手の作品に親しむことができればもっと豊かに安らかに
人生をとらえることができようにと思っている。
文学あるいは芸術の価値について今更、再構築しようというつもりもないが
その魅力に心酔し生ある限り関わっていけたらと思っている。
※「エレンディラ」を二冊買ってしまったので読みたい方いれば無料で差し上げます。ご連絡ください
2010年1月5日火曜日
君へ ― 青春
年末年始に読んだ本が溜まっているから
ご紹介しておかねばならん。義務感がある。
妙な使命感だ。
それに動かされるというのは実はとても当人にとっては
容易で気楽なものなのである。
「僕は運動おんち」枡野浩一 である。
彼の小説については二年(!)以上前に紹介している。
この小説を一言で分類すれば青春小説である。
舞台は高校であるし、片思いの遠い存在の女の子がいて、
それ以上に重大で近しい友人がいる。
空想だけは長大に広がりつつも眼前の自分は全くの無力である。
しかしこれは単純なビルディングス・ロマンとは違う。
彼は成長を志向しないのだ。
「運動おんち」の主人公は一見、クラスからバカにされているように見えるが
それはムードメーカー的に"ネタ"にされているだけであって、
イジメと呼べるほどのものでもなく、クラスで一番の腕白少年が、
他の友人には吐露し得ない内面を唯一打ち明けられる心の友として、
主人公が描かれるように、
彼には自らの欠陥を卑下する幾ばくの恐怖も存在しないのだ。
かわいい妹からは「お兄さま」と慕われ、親との葛藤は皆無だ。
これが青春の不在を意味することは論を待たないだろう。
(青春とは何かについて議論し出すと長くなるが。)
主人公が自殺をほのめかすのは「安全に痛い」ポーズでしかなく
本質的な選択肢ではないのだ。
そういえば正月のあいだ実家で読んでいたNARUTOだが
「人はそれぞれの正義をかかげながら争い続けるしかない」
というゼロ年代の思考に対し、「人はわかり合えると信じている」
とナルトが強く応えるシーンがある。
これからどういうふうにストーリーが展開するか知らないが、
わかり合える結末を描くなら、ナルトが他を超越する圧倒的な力を
手に入れて、「争いは好まない」という自省を前提とした
自己正当化のもとに悪を滅ぼすことでわかるものだけが残る世界をつくるか、
例えば、サスケとわかり合うという局所的な和解によって
万事解決とするのかのどちらかの道しかないと思う。
つまり「人は基本的にわかり合えない。しかし対個人レベルの局所的な
関係においては稀にわかり合える場合がある」というリアリズムこそが
希望なのである。
君に会いに行くために
ヘアスタイルをととのえる
オゾン層を破壊しながら
かっこいい俺が誕生する
と「運動おんち」の主人公が歌うとき、
彼は世界との対話を諦めている。
柔道では負けない、泳ぐのが速い、ギターが演奏できる、
などといった単純な指標で理解してもらうことは最早できない。
それらすべてに「おんち」であるからこそ、彼はそのことに気付いた。
彼は「髪を切る」ことでクラスの人気者になる。
しかしそれはあくまでその小さなクラスで通じる言語であり
プロの目からすれば「センスはあるけれどドシロウト」の
レベルでしかなく、その自覚は当人だけでなくその周囲にも
通じている。にも関わらず彼が人気者になるのは、
彼が学園に属する内部の人間であり、
仲の良い者だけが無料で切ってもらえる秘密であり、
彼が「運動おんち」であることの前提を共有しているからだ。
「とにかくこの文章は遺書のつもりで書く。
だれにも読まれないかもしれないけれど、いつの日にか君が読むかもしれないと意識しながら書く。
君はだれなのかは、わからない。」
という十七歳の希望であり絶望。
僕はかつて「青春以外に書きたいテーマはない」と言っていたし、
今でもそう思っている。
この小説はユーモアにあふれているし、
あいまに挿入される詩もいい(それが本業だろうし)。
でも青春じゃあない。
どこかの誰かではない、
目の前にいる君のために書かれた言葉がもつ美しさを
僕はいまだ信じている。
ご紹介しておかねばならん。義務感がある。
妙な使命感だ。
それに動かされるというのは実はとても当人にとっては
容易で気楽なものなのである。
「僕は運動おんち」枡野浩一 である。
彼の小説については二年(!)以上前に紹介している。
この小説を一言で分類すれば青春小説である。
舞台は高校であるし、片思いの遠い存在の女の子がいて、
それ以上に重大で近しい友人がいる。
空想だけは長大に広がりつつも眼前の自分は全くの無力である。
しかしこれは単純なビルディングス・ロマンとは違う。
彼は成長を志向しないのだ。
「運動おんち」の主人公は一見、クラスからバカにされているように見えるが
それはムードメーカー的に"ネタ"にされているだけであって、
イジメと呼べるほどのものでもなく、クラスで一番の腕白少年が、
他の友人には吐露し得ない内面を唯一打ち明けられる心の友として、
主人公が描かれるように、
彼には自らの欠陥を卑下する幾ばくの恐怖も存在しないのだ。
かわいい妹からは「お兄さま」と慕われ、親との葛藤は皆無だ。
これが青春の不在を意味することは論を待たないだろう。
(青春とは何かについて議論し出すと長くなるが。)
主人公が自殺をほのめかすのは「安全に痛い」ポーズでしかなく
本質的な選択肢ではないのだ。
そういえば正月のあいだ実家で読んでいたNARUTOだが
「人はそれぞれの正義をかかげながら争い続けるしかない」
というゼロ年代の思考に対し、「人はわかり合えると信じている」
とナルトが強く応えるシーンがある。
これからどういうふうにストーリーが展開するか知らないが、
わかり合える結末を描くなら、ナルトが他を超越する圧倒的な力を
手に入れて、「争いは好まない」という自省を前提とした
自己正当化のもとに悪を滅ぼすことでわかるものだけが残る世界をつくるか、
例えば、サスケとわかり合うという局所的な和解によって
万事解決とするのかのどちらかの道しかないと思う。
つまり「人は基本的にわかり合えない。しかし対個人レベルの局所的な
関係においては稀にわかり合える場合がある」というリアリズムこそが
希望なのである。
君に会いに行くために
ヘアスタイルをととのえる
オゾン層を破壊しながら
かっこいい俺が誕生する
と「運動おんち」の主人公が歌うとき、
彼は世界との対話を諦めている。
柔道では負けない、泳ぐのが速い、ギターが演奏できる、
などといった単純な指標で理解してもらうことは最早できない。
それらすべてに「おんち」であるからこそ、彼はそのことに気付いた。
彼は「髪を切る」ことでクラスの人気者になる。
しかしそれはあくまでその小さなクラスで通じる言語であり
プロの目からすれば「センスはあるけれどドシロウト」の
レベルでしかなく、その自覚は当人だけでなくその周囲にも
通じている。にも関わらず彼が人気者になるのは、
彼が学園に属する内部の人間であり、
仲の良い者だけが無料で切ってもらえる秘密であり、
彼が「運動おんち」であることの前提を共有しているからだ。
「とにかくこの文章は遺書のつもりで書く。
だれにも読まれないかもしれないけれど、いつの日にか君が読むかもしれないと意識しながら書く。
君はだれなのかは、わからない。」
という十七歳の希望であり絶望。
僕はかつて「青春以外に書きたいテーマはない」と言っていたし、
今でもそう思っている。
この小説はユーモアにあふれているし、
あいまに挿入される詩もいい(それが本業だろうし)。
でも青春じゃあない。
どこかの誰かではない、
目の前にいる君のために書かれた言葉がもつ美しさを
僕はいまだ信じている。
2010年1月4日月曜日
ご挨拶
あけましておめでとうございます。
今日、東京に戻ってまいりました。
もはや酒のことしか記憶にない正月で、
昨日も大阪・道頓堀のあたりで酷く酒を飲んで
二日酔いで気も塞ぎがちな新年です。
2009年のことを思い出すと随分酒に乱れた一年でした。
それ以前も決してお行儀がいいとは言えませんが
精神的にけっこうきつい一年ではありましたし、
それを酒で補っていたのだと思います。
しかしそれも昨日で終わりです。
2010年は他にやるべきことがあり、行動せねばならず
それはこの肉体によってしかなされないのです。
煙草もすっかり辞めてお酒も控えめにして
つつがなく精進したいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今日、東京に戻ってまいりました。
もはや酒のことしか記憶にない正月で、
昨日も大阪・道頓堀のあたりで酷く酒を飲んで
二日酔いで気も塞ぎがちな新年です。
2009年のことを思い出すと随分酒に乱れた一年でした。
それ以前も決してお行儀がいいとは言えませんが
精神的にけっこうきつい一年ではありましたし、
それを酒で補っていたのだと思います。
しかしそれも昨日で終わりです。
2010年は他にやるべきことがあり、行動せねばならず
それはこの肉体によってしかなされないのです。
煙草もすっかり辞めてお酒も控えめにして
つつがなく精進したいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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