フランクル「夜と霧」を読む。
こういう本を通勤中の山手線の10分間とかの間で読んで、
帰りの電車のほろ酔い気分のうちに読み進める、
ということは、難しいというか、避けたい。へこむし。
んで、感想を書くのも、真剣には立ち向かうことはできなくて、
焼肉を食って、ビールを飲んで、それでいまもう深夜で眠くって、
短く少しだけ、という気分でようやく書くことができる。
だから自分の考えをまとめるとかそういうレベルのことは
できなくて、なんだみんなそのほうが読みやすくっていいや、
と思っているのかもしれないが、また平静に書けば元に戻るから、
あまり期待しなくてもいいし、そもそも期待なぞないのかもしれないが。
戦争というのは、僕にとって非常に身に迫るテーマである。
それがなぜかといってどうだといって、体験したこともないしなぁ、
と思ってしまうものだが、これを読めば、
直に体験したことがないというのは問題にならなくて、
なぜなら、真に戦争を体験した人の多くは死して黙するからである。
そしていくら生存者から聞いても体験したことにはならない。
だから、いま日本という平和な国にいようが、どうしようが、
戦争について、少しでも話すことに、臆する必要はないのである。
その動機はどうであれ。
しかし、妙に軽んじられるか、変に装う人が多いのもこのテーマなのである。
そういう面での恐れはある。
と、前置き。
この本の中に、こんな言葉があった。
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。・・・すなわちわれわれの人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。」
と、ここだけ瞬間的に抜き出してもわからないか・・・。
だから本がある。というのは蛇足。
人生とは何か。それは私たちが、生きる、いまそれ、である。
それは、その当人の意識によって事後的に表出される。
その表出に対する様々の反応を、問い、としてとらえること。
その問いを発することを諦めたときに、人は死ぬのだと、
フランクルは言っている。
またそして、アウシュビッツの如何なる悲惨にも関わらず、
問いを発することにおいては終に自由であった、と。
僕が実践ということの意味においても・・・、
と言い出すと、またいつもの調子になるのでやめよう。
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いかん、ちょっとブログの雰囲気がますます暗くなるので、
旨いものの話を。
これは仙台土産の牛タン↓

燻製みたくなっていて、生というかハム?みたいで食える。
うまし。これはお土産だから自宅で食ったが(横のさらは温野菜)
明日仙台に行く。仙台は人に会いに行く。
ところで牛タンは、戦後、米軍が仙台に駐屯したときに発祥した。
その手の食べ物は他にもあって、佐世保バーガーもそうだし、
沖縄の、ポーク卵(スパムが入ってる)もそうね。
地元和歌山には、鯨肉の文化が伝統としてあるが、
戦後の食糧難の時に安価なタンパク源として給食が
それを象徴しながら、全国に広まったものだ。
食の歴史、って面白くていつかじっくりやりたい。