2008年12月31日水曜日

みかん

先回の投稿は豆乳ヨーグルトの件だったか。
今日の朝から昼にかけて豆乳鍋を食った。
車を運転する用事がないと一日中酒を飲んでいて、
だるくて眠ちゃい。

一年が終わりますね。

いま和歌山です。



みかん。

東京ではみんなまずいみかんを食べてる。
それでみかんを粗末にする。

しかし本場ではあまりにたくさんありすぎて
こんなにざっくり売られている。

2008年12月25日木曜日

豆乳ヨーグルト

なぜクリスマス・イヴが、クリスマスより盛大なのか、
知っている人はいるだろうか。
誕生日の一日前にお祝いをしている。
新年のお祝いを大晦日にしている。
そんな違和感がある。
クリスマスは家族と過ごす日で、イヴは恋人と過ごす日、
だからイヴには若いカップルが街に出る。
そんな話を聞いたことがあるようなないような。

・・と珍しいような導入で話を始める。
が、句が続かなかった。

そういえば、豆乳ヨーグルト、ってのを食ったら旨かった。
コンビニで買ったと思うが近所のスーパーだったかもしれない。
これは、皆さまにとって、有益な情報である!

これだ↓ いま流行のトクホ。



コレステロールが下がる。
忘年会続きの方には、朗報。
クリスマスにケンタッキーフライドチキンの山盛り
を食った人は、一日二個を一週間食ったほうがいい。

2008年12月22日月曜日

オリオン座 2

わたしが唯一識別できるオリオン座が夜の空にあって、
その確立した輝きにうろたえてしまう。
疑わしいのはむしろわたしの記憶のほうであろうと、
誰彼なく思わせる力がある。

本当は曇り空の下、洗濯物がはたはたと波打っていたはず。
空を見上げてみたら、雲がまるで早回しの映像のように
右から左へ流れていて、この分だと、蝉はこの寒い
大地から這い上がってまだ薄く濡れた羽を開くだろうし、
種子に窮屈に収まった双葉は、なけなしの身体を、
行き着く先のない空に伸ばし始めるその痛々しい努力を
開始しないではいないだろう、と思っていた昼間。
慌しい年の暮れの街に男も女も女も男も入り乱れて乱れて、
わたしはそういえばひとりだった。

夜の空気はしっとりと暖かい。
昼からの風はまだ強いけれど、
冬の日差しを感じられずにいた私の身体のあちこちが、
暖かさの中に溶け出しそうに疼く。

扉がかたかたと鳴る。
窓が少し開いているのかもしれない。
オリオン座はいまのわたしからは見えない。
消え入りそうな空間とも呼べぬ不安定な次元の、
狭間にふとあいた空間に偶然、わたしはいま居る。
その偶然は運命めいた何かではなく、
デジタルに管理される神様の運営する社会の、
陽のあたらぬ影にあって、束の間の休息に過ぎない。
他愛もない空間にわたしはいま居る。
居ると言うよりも、誰も知らない時の中に紛れている、
と言うべきかもしれない。

オリオン座はきっと輝いている。
わたしはそれを知らないではない。
そう。偶然の果たす意味に応えることに臆病であるほど、
強くあることも、できなくなりはじめている。

2008年12月21日日曜日

ピリリとしない週末

なんだか引っ込みがつかなくなって、
TSUTAYAで『式日』借りようと思ったけど、
レンタル中でした。

それで映画を二本借りてその間小説一冊を読むが、
どれもいまいちオススメできるものでもなくて、
感想書こうと思ったけど、読んだって結局、
たいしたことないと思います。ってことだから何とも無益。

なんだかなあ。ピリッとしないぞ。

この二日間、仕事しながら映画観ながらの合間に、
年末大掃除を少しずつ進めているが、
こちらはいたって順調です。
キッチンぴかぴか!

2008年12月20日土曜日

急啓

さて、先回の投稿は、色々な方に誤解を与える
結果となってしまい、誕生日のお祝いのメールや
プレゼントまで届いたりする 笑

皆さんありがとう!

でも僕の誕生日は6月だよ!
みんなそのときお祝いしてくれたじゃん! 
憶えておきなさい!
そしてあの記述は映画の話である。

もう一点。

最近の投稿の内容が暗くて、今にも死んじゃいそうじゃないか!
との叱咤激励もいただく 笑

これは言わんとされることはわかるのですが、
これが僕のスタンダードだったりします(汗
先回のは松尾スズキっぽく書いたので余計なんだけどね。
全然大丈夫。
とはいえ、読んでいらっしゃる方の元気を減らしめるのは
本意ではない。溌剌と頑張ります!

現状のご報告を最後にしておくと、只今は、
来年からのToBe グループの活動計画の作成、
並行して、新規事業の立ち上げが年末まで待ったなし!
という、なかなかヘビーな感じである。

以上、取り急ぎ

2008年12月15日月曜日

ぬううおおぉぉおおーー

いかーーーーーーーーん!!

松尾スズキの10年近く前の日記を読んで、
笑っている場合じゃなああああああああああいいい。

月曜日になっちゃいましたよ。
これじゃあ、腑抜けですよ。

はよ寝よ。

何やってんだあこの人はほんとに。
いつか演劇観に行きたいなあ。下北沢に引っ越すかなあ。

書いて書いて成る生活ってのもいいなあ。
けどくだらないことばっか書いてるからなああ。
まじめくさって書いても誰も読まないものよ。

年の瀬だ、歳のせいだ。このぐうたらな感じ。
と死にそうだ。

あしいたがあるあしいたがあるうう、あしいいたがあああるうううさあああ。

これ実名わかる感じで書いてんのよね、俺。
大丈夫かな。まあいいか。
松尾スズキとか何度もこのブログ出てくんのな。
まずーーーーい。
経営者とかもうちょっと出演してもらうべきかな。

40歳で成功してる文化人がバカ書くのもアレだけど、
25歳の若造がバカ書くと、妙に切迫感あるのな。
こいつ大丈夫かな、この先、ってなるのな。

明日何の日か知っている?






明日は私の誕生日なの。



『式日』もいっかい見よ。

2008年12月14日日曜日

さして寒くないのに寒さを言い訳にする日には

餃子作った。
一人で何やってんだと思うだろうか、
とにかく腹いっぱい餃子食ってビール飲んで、
何が悪い。

ときどき「料理うまいんだね」とか言われるけど、
そんなことはない。餃子うまくなかった。
白菜はもうちょっと細かく切らないといけないし、
誰かパリっとうまく焼く方法を教えてくれ。

大量に焼き杉。
互いの皮が引っ付いちゃって食べようとすると破れる。
せっかくきれいに包んだのに、何やってんだか。



ま、いいさ。全然大丈夫。

平野啓一郎の『日蝕』は、amazon の書評ではすこぶる評判悪い。
ま、松尾スズキの言葉を借りれば、「文章ブス」の集まりってところだろうか。
ま、俺もその類だったりするか。

ひさしぶりに映画見る。
できればもうちょっと頻繁に見たいところだがなぁ。



荒川良々がなんかいい。
あんまり大丈夫でない人々が、たいして大丈夫でもない日々を送っているが、
底抜けの明るさというのでもなく、なんともどうとも言いづらい映画ではあった。
どうしようもなくなったときに、
お前は何かに本気になったことあるか、死ぬ気で頑張ったことあるか、
と焚きつけられて、一念発起するもすぐに挫折して、
挫折した後悔もすぐに薄れて、ある女性に恋するも、他の男に取られてしまい、
その恋心すら、すぐに忘れるというような展開とも呼べぬ展開で、
奈良公園で鹿に餌をやるというどうでもいいラストシーンを迎える。

あんまり書きすぎるといけない。
暇があれば見てほしい。

2008年12月13日土曜日

孤独なる飛翔

ああもう死んじゃいたい、と何度か呟いてみるが、
状況はいっこうに変わってく気配がない。
そりゃそうか。

昼間からビール飲みながら『日蝕』の感想書く。

大学生のころに書いたという平野啓一郎の
筆力に驚く。
清朝にて編纂された『康煕字典』を愛用、
って何なんだこいつ。

それで内容の話に移ると、
わかったような、わからぬような話である。
そのことを平野は、主人公の声を借りてこう書く。


私は、自身の体験を能う限り有りの儘に叙することに因って、何等かの答えらしきものが見出しえるかも知れぬと、私(ひそ)かに期する所が有った。しかし、終に、両性具有者の一貫した像を形造ることは出来なかった。或いは私が、より強くそれを求めむと意識しながら筆を進めていれば、然るべき成果は得られていたであろうか。私はそうは思わない。そうした努力は仍虚しいものであったろう。
『日蝕』


太陽と月の重なり、男と女の重なり(両性具有者の其)、正と邪の重なり、創造と破壊の重なり、それら矛盾するものたちの重なりの中に、平野は、自己と世界を同一にせしめる契機をみようとする。見る者は見られ、見られる者は見ており、他者は自らとなり、自らは他者となっている。

私は世界の渾てを一つ所に眺め、それに触れた。世界は私と親しかった。私は世界を抱擁し、世界は私を包んだ。内界は外界と陸続きになった。同じ海になった。世界が失われて私が有り、私が失われて世界があり、両つながらに失われ、両つながらに存在した。唯一存在した!
『日蝕』


世界を一元論的に捉えることの本旨は(私にもその動機がある)、
世界を再構築する夢を描くことよって、
それへの主体性を取り戻すことにある。
その主体性は、(本書で錬金術に象徴されるように)永遠なる過程の中
にしか存在し得ず、結末への予感を期すれば瞬く間に崩壊する。
行為の中で衰弱し磨耗する意志においては果たしえない
孤独なる飛翔を『日蝕』の中に私は見ることができた。

文学に、言葉にまだ意味があるとすれば、書くという行為以外にない
と不図思って煩わしくなる。
死ぬことの解放を否定することができるだろうか?

2008年12月7日日曜日

静かにしやがれ

松尾スズキのブログに紹介されていて、
ブコウスキーを読む。
(ちなみに彼のブログはすこぶる面白い。)

30cmに勃起したペニス、バスルームに吐いたゲロ、
130kgある娼婦との人生最高のセックス、
ビール、徳用パックの白ワイン、スコッチその他あらゆる酒、
精液、競馬、ゲイ、小説家、詩人、蜘蛛、警察、政治家、
薄いピンク色の下着、マリファナ、死体、労働・・・
30篇ちかい短編は、それらの繰り返しだ。
汚らしく下品で、吐き気が出る。冷笑を浴びせる。

そこに静謐がある。例えばこうだ。


便箋をテレビのわきに置いた。いい気分ではなかった。泣きたかった。そこは静かだった。私の好きな静けさだった。オーブンや冷蔵庫が人間に見えた。いい人々という意味だが、腕があって、声も出せるようにみえた。彼らにいった。ゆっくりしていけよ、ここはいいぜ、ものすごくいいところかもしれないぜ。
『かわいい恋愛事件』


これを次ぐ言葉が見つからない。
表題作からも引用してみよう。

私たちは抱きあった。キャスは声を殺して泣いていた。涙がこぼれて落ちているのがわかった。私の背中に垂れた長い黒髪は、死者の旗のようだった。私たちは、悲哀に満ちた性愛を静かに楽しんだ。
『町でいちばんの美女』


誰だってブコウスキーのようである自分を否定できないし、
誰だってブコウスキーのようであってはならないと言うだろう。
言い負かされて終わるのが、悔しくて生きているようなもんだ。
でなかったら、とっくに死んでる。

オリオン座

わたしが唯一識別できるオリオン座が夜の空にあって、
モチベートする何ものかであろうと輝いている。
黒猫が車の下でじっとそれを見ている。
今日は一段と寒い。それでというのでもない。

「新感覚ってさあ、言うんだけどこれどう思うよ?」
駅前のコンビニで買ったスナックを頬張ってミカエルが尋ねる。
わたしはポケットの中で暖まっていた左手を仕方なくだして、
ざらざらと乾いたそれをもらって口に放り込む。
何だって深夜に。左手にはざらざらが残る。
「おいしいと思うけど?」
「そりゃあ、ああやって特集されている商品なら、
 何だってうまいさ。外さないよ。でも新感覚っていう
 言葉を軽々に使うのは、これくらいのことでそれは、
 モラールが狂ってんだよ、絶対。悲しくなる。」

足音に気付いて黒猫はすっと身構える。
あるいは自分も新感覚を試してみたくって、
プリーズミーアテンションってことかも。
それには少し可愛げが足りないっていうか、
ちょっと距離も遠いし、せめて、その暗がりから出てきてごらんよ。
怖くなって翻って逃げても、わたしたちなら悪い気はしない。

ゆるやかにカーブして坂道を登った。
予備校の看板は煌々と輝いているが、
もちろんいまPETボトル片手に話す生徒たちはいない。
ミカエルはあいかわらず新感覚をもりもりと食べる。
ビニールのなかで新感覚が乾いた音を立てる。
わたしはさっきふと、何年かぶりの懐かしい友人に電話したのだった。
「いまメルボルンにおりまして早朝ですから、改めていただけますでしょうか。」
と眠たげに釈明された声を、繰り返し思い出す以外できなくなっていた。

2008年12月3日水曜日

予断を許さない

22時からインドカレー食って腹いっぱいだ。
昨日は、23時半から吉野家食った。

胃は空っぽでも満腹が続いてもダメな厄介な器官であるのは
周知の通りで、腹が減れば可哀相なくらいキュウキュウ鳴くし、
かといって深夜に食えば朝までもたれるし、
何事にも正直な私の中の正直な胃よ。
余談だが食いすぎて気持ち悪くなりそうなときは、
家に帰ってから酒を飲む。(気持ち悪くなってからでは手遅れ。)
そうすれば、少し満腹感が和らぐ。のではないかと思う。
それでもさすがに、22時からガーリックナンはやめておけばよかった。
刺激物は、さらにこう、もたれる気がする。今日だけか。
もはやどこからもどこまでも余談である。

知らぬ間に一年が終わる。ちょっと前まで夏だった。
時は流れているようで、遅々として進まないようである。
そして流れた月日は、既に取り返せないという気になる。
これは錯覚であると言える。

手にカレーの臭いが残っている気がする。
風呂に入った石鹸の臭いに混じっている気がする。
これで寝ないで手を洗い続けたら僕は何者かになれるだろうか。

2008年11月30日日曜日

日が照るようにして

ひさしぶりの洗濯日和!

洗剤はボールドがお気に入り。
しかし、どうにかならんのか、このパッケージ・・鬱 ↓



これで名前が、「ボールド」ってどうなんだ。
Bold だよね。Baldだったら嫌だなあ。
「フローラル・クリーン♪」とか、
「キューティー・イリュージョン!」とか、
そういう名前を彷彿させる顔だな。それだと余計買い辛いけど。

* * *

大塚英志と東浩紀の対談「リアルのゆくえ」を読む。

テーマは二つあって、表現の固有性、および、表現の公共性、
ということだろう。
(批評も文学もネットコンテンツも全てを含めて捉えるために、
 表現という言葉を用いた。)
固有性については、インターネットによる集合知的な創作活動
を通じて造られた作品に、作者の固有性というものが存在するのかどうか。
初音ミク(そういえばこの対談で一度も言及されない)の音楽に、
作者の固有性は存在するのか。
データベース消費やらコミュニケーション消費やら、その辺の細かい話は、
本書を読んでいただくとして、固有性を巡る議論の射程は、
世界に主体的に関わる自己の単独性を巡る神話を、
どこまで許容するかにある。
自己の単独性なんかはないんだ、って言い切っちゃうと、
大塚が常に苛立ちを隠さないように、
「じゃあもう別に何も書かなくてもいいし、君と話す意味もない。」
ということになってしまう。
他者という言葉が柄谷あたりから影響を受けて
僕の周りでも頻繁に使われていたけれど、
他者と言った時点で、それぞれの単独性を認めないと始まらない。
東は単独性を個人的には認めるけれど、一般論として敷衍することはできない、
と言い張る。

公共性については、固有性の問題と繋がるところがある。
固有性が疑われるのは、当然、社会的な問題である。
(個人として固有性を有するのは当然である。)
では固有性を持たない要素としての個人で構成される、
社会において、公共性とはいかにして成り立つか。

・・とまあ、僕が解説を試みる必要もないし、長くなるので辞める。

それで最後に僕としての所感だけ書いておく。

ひとつはリアル、というものを、理論としての国家や政治、
あるいは、概念としての単独性、他者性、というところで
規定しようとしても、神話的にならざるを得ないのではないか。
それを否定するところから始めようとする議論においては、
常に眼前に立ちあわられる不可解な世界に対しての、
実践として以外、リアルを論じることはもはや成り立たないのではないか。
ではすべて、個人的な体験として細分化してしまって、
それぞれの役割をそれぞれの責任でもって担うという東の立場に肯んずる
ものでもなくて、それぞれの役割の中に公共性を見出し、
大塚が何度も問いただす、そもそもの理念やら動機というところに、
回答を出し続けることが必要なのだと思う。
それを啓蒙やら教育によって、全員がなすべきであると言い出すと
また話が空転する。
公共性を見出し得た者が、パブリックな立場で発言と行為を続けることによって、
社会の持続可能性を守っていくということだろうと思う。
一人の人間でできることなど限られているのだとすれば、
実質的に世界と言うものは超越論的に語る以外にはないのだから。

2008年11月24日月曜日

雑然と

これも人に勧められて、伊坂幸太郎「ラッシュライフ」を読む。

彼がなぜこれを書かずしていられなかったのか、
ちっともわからない。
ある女性が、「決断のひとつひとつに責任を持つこと、それが意志だ」
というようなことを言ったけれど、それは書くことにも当てはまる。
必然性のない言葉はいくらきれいに並べたところで、
どこにも着地せず、漠として空疎に響くだけで、
それは言葉を支える書き手の意志が不在だからである。
意志のない、責任のない言葉には用がない。
読み手にも何の意志も喚起しないという意味では、娯楽にはいいかもしれないが。
とあんまり書くとファンの方に怒られそうなのでやめよう。

 * * *

「売れ顔」の法則 を読んでたら、何度も「とろっ豆
がうまいんだって、ご飯によく合うんだって書いてあって、
それで食いたくなって、衝動買いして食う。うまい。
納豆3パックがデフォだから、一人暮らしには面倒で
あんまり買わないのだが、たまにはいい。

セロリを酢に漬けてピクルスみたいにして、
これも非常にうまい。
それでカレーつくって、三品。なんか統一感ないけど。

そういえば昨日渋谷でバーガー食う。
パクッチ・バーガー」なかなかうましで、ご紹介しておく。
タワーバーガーっていう、ビッグマックの5倍くらいのが
あるので、チャレンジした人はご報告求ム。
最近過食気味じゃぁ・・・。

2008年11月22日土曜日

Positive Mental Attitude

最近、おすすめの書籍を紹介していただいたり、
読んでみたまえと書籍をくださったりすることが多い。

読むスピードが追いつかないし、それ以上にブログが追いつかない。
ということで、三冊。

「売れ顔」の法則―ならべれば売れるヒット商品のつくり方

商品開発の会で知り合った嶋さんの著作。
大塚製薬、ミツカンと食品の商品開発を担当し、
ヒットを飛ばしてきたノウハウを公開! という内容。
嶋さんには、競合ひしめく商品棚に陳列され、
確実にリピーターを獲得していく新商品の姿は、
知名度も実績もないベンチャー企業が、
執念と専門化によって大企業に打ち勝っていく様に似ている、
というような感想をお送りした。
制約はある。それをいったん振り払って、顧客視点に立って、
最上のものを考える。そして自分が自信をもって届けれられる
ものを作り上げ、なおかつ、販売を続けながらノウハウなり、
優位性を蓄積できる仕組みをつくっておく。
単純なことだけれど、それがなかなかできない。


地方の逆襲

池田 弘さんの講演会でもらった。
成功者の言葉はいつも重い。
さらっと大変なことをおっしゃる。
「そんなうまくいかないよ」と言いたくなるのは、
「そんなうまくいかないよ」と言う人間だということなのだ。
どうにも分析的に考え、何事も欠点が見え、
躊躇してしまうのは良し悪しは放っておいて僕の癖である。
だからといって、平易な言葉に対して反論を述べるのは、
反論する人間であると言う特性の中にしかいない。


どんな仕事も楽しくなる3つの物語

これはオウケイウェイブの兼元社長にいただいた。
うじうじと言い訳がましい若者に対する叱咤激励、
有難く拝読する。
「自分が何をしたいのか?」が少しずつ見えてきたことは、
一歩前進ではあっても、一歩進んだところで風景はさしてかわらない。
大きく踏み出し走り出す以外に方法はない。
と書いていてもつまらないから、まだつまらない。

がんばりましょう!

2008年11月21日金曜日

SF ->

ディックの短編集「マイノリティ・リポート」を読む。
表題の「マイノリティ・リポート」と「追憶売ります」
の二編が映画化されている。
(追憶売りますの映画タイトルは「トータル・リコール」)

ディックは、短編よりも長編のほうが面白いと思う。
(「アンドロイド・・」なんてすごくいい。)
近未来を描くその木目細かさや、ストーリー展開の爽快な刺激は、
ある程度の長さで描かれたほうが、読み手の視野が広まっている分、
細部が際立って、鋭敏に感じられる。
短編は一点に集中するので木目細かさが唐突に感じられるし、
展開は、予見的に組み立てられてしまう。

他にも面白い短編があるけれど、
今回は、小説と映画について書く。

マイノリティ・リポートは、スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演
と豪華キャストで映画化されているが、
原作の短編はエッセンスだけで映画のような壮大なストーリーはない。
プレコグと呼ばれる三人の予知能力者が世界の犯罪を未然に防ぐ、
警察機能を担っているという設定は同じであるとしてもそれ以上のものはない。
映画化されたときのストーリーの肉づけは素晴らしい。
ディックが、これを長編で書いたなら、と空想が膨らんだのだろう。

一方、トータル・リコールは、その短さがゆえに、
結末のミステリアスな読後感が痛快であるのだが、
映画は、シュワ知事主演でドンパチやっているだけの映画だ。

映画と小説を合わせて観る(読む)という行為を敢えてすることは
ないけれど、思い返してみるとなかなか面白い。
松尾スズキが原作も書いて映画化もした、
「クワイエットルームにようこそ」は、完璧といっていいほど、
映画と小説の世界観がぴったりと一致していて驚いた。
三島由紀夫の「春の雪」は行定勲監督が映画化していたが、
メロドラマ風になっていてナンノコッチャって感じ。
岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」は、
原作はネット掲示板の体裁を取っているが、
その世界観を継続しつつ映画としての見せ方をうまく作っていて、
才気を感じたのだった。

とまあ、これだけ比較しても表面をなぞるようで恐縮。
SFは、たくさん映画化されている。視覚を刺激するのだろうか。
映画作りはまったく門外漢だが、映画化を空想してみると
ワクワクする小説というのがあって、それで作家同士の対決が始まる。

Art&

本日、解禁!

ということでボジョレー飲む。
記念ものだし、グラス一杯。



今年の味がどうだとか知らない。

先日、ダンヒル銀座本店の2FにあるバーでJAZZ Night
というのをやって、公私(?)にわたり
お付き合いさせていただいている、
一樹さんの演奏を、念願かなって初めて聴く。
非常に楽しい夜だった。
グラスワインを頼んだのだが、それがしっとりとして、
非常に美味で、憎いくらいにJazzにぴったりだ。
さすが銀座、ダンヒルだしと、そこでワインの話でつながる。

生で聴いて人柄に接して万事楽しければファンになる。
そういう出会いをつくっていくことは、
弾き手と聞き手が互いに豊かになるひとつの方法である。

今週末は、絵描きさんの個展だ。

2008年11月16日日曜日

そうだ会社をつくろ

たまにはビジネス書も読む。
原丈人「21世紀の国富論」は、非常に読みやすく、面白かった。ぜひ一読をオススメする。

それで原丈人を調べてみたら、ほぼ日に出ていた。
ほぼ日あいかわらずいい人選するよなあ。この本が出たのが、2007年6月で、11月にはインタビューしている。

原丈人はベンチャーキャピタルである。アメリカ製の資本主義に対して、さまざまな角度から検討を重ねていくのだが(検討といっても僕にでもすんなりわかる内容で、視点をあわせることに注意すべきであって、論理的な厳密性を問うことにはあまり意味がないだろう)、論旨を(過度の単純化による魅力の薄れを恐れずに)要約してみると、「社会に役立つ目的のない会社はいらない」ということだろう。
会社は誰のものか、あるいは、会社の価値とは何か、ということの議論があるけれど、会社はその会社の目的に賛同し労働力や資本を供給する人たちの共有物(割合はどうであれ)であって、価値はその会社が目的に対し提供する利益と、今後提供するであろう利益の総体だという、シンプルなことでしかない。
正論としてはそうであるけれど、時々わからなくなる。自信が持てなくなる。

それを原丈人が語ることに意味があって、こちらは焚きつけられる。
最近たきつけられっ放しで、このままだと焦げ付いてきちゃいそうだから、どんどんインプット・アウトプットをしていかないといけない。

雨ばかりで嫌になっちゃう。

2008年11月15日土曜日

マスコットキャラクターから見る知財戦略

千葉国体のマスコットキャラクター「チーバくん」。
ちょっと見てみてほしい。



名前も国体の期間限定キャラクターの割には、威風堂々としていて斬新だが、そのカタチは、さらに異形である。

地方キャラクターというとひこにゃんが有名で、チーバくんもそれにあやかった二番煎じでしかないと思うかもしれない。
しかし、後発には後発の強みというのがあって、ひこにゃんは、デザイナーの想定していなかった姿勢や特徴を勝手に作り上げたため、著作者人格権等の問題が発生し、知的財産の取り扱い云々でドロドロの争いとなりお祭りムードに水を指したのは、デザイン業界に片足だけでも在籍したものなら誰でも知っている。

チーバくんは、形状が、千葉県の形をしている。チーバくんの外見的アイデンティティは、それ以外にまったくない。よって、これを不法に利用しようと思っても、色を変えるぐらいしか思いつかなくて、走っている姿や戦っている姿を作ってしまっては、チーバくんはチーバくんでなくなり、ただの落書きになる。
千葉国体実行委員会は、なかなか戦略的である。千葉県の形は一つしかないから、誰がチーバくんを利用してもイメージが崩れることはない。
ただ一点問題なのは、着ぐるみ、とのことである。
チーバくんは、微妙に後ろに傾いた姿勢で立たなくてはならない。
着ぐるみの中にいる人は、腹筋、背筋に非常な負担をかけるため、一時間ともたない。
そのことが、イベントのスケジュール等に影響をしているらしい。
スタッフのAさんは、「一度腹筋が痙攣し、後ろむきに倒れた。子どもたちはそれを見て、『ああー千葉県死んじゃった』と言ってました。チーバ君はたんなるマスコットではなく、千葉県そのものを体現している存在。」と話してくれた。
今後との展開に目が離せない。

2008年11月10日月曜日

煮玉子、背油、麺固め。あと、葉酸プラスして



三年間高田馬場に住んでいて、初めてラーメン二郎に行く。
酷い写真ですみません。

小雨が降る午後二時過ぎであったので、五分ほど待ってすぐに食える。
ラーメン激戦区の高田馬場といえど、いつも列ができているのは、純連と俺の空、そしてここ二郎以外にはあまりない。

ジロリアンと呼ばれる、ラーメン二郎好きは、店舗ごとの味の違いまで知って通うらしいが、こってり油の濃厚スープが堪えられなくて噂だけを耳にして避けていた。

それが最近、食欲がないわけではないのだが、ゆっくり飯を食う気分になれなくて、立ち食い蕎麦やコンビニの弁当で済ますことが多い。健康にはよろしくないに違いないが、気分を圧して食うのは滅入る。
それで今日もラーメンということにした。



こちらも写真が酷いが、仕方ない。店内は込み合っているのに、誰も一言もしゃべらず黙々と食っていて、シャッター音のミーハーな響きは、非常に肩身が狭く、間違っても取り直せるような状況ではなかった・・・。なんなんだいったい。その真剣さはなんだ。
店も汚いといって差し支えないほどだし、店員は大雑把に調理していて、丼は油でぬめる。そういう状況で、その真摯に食べる客の姿はなんだ。ジロリアンたちの信仰とはいかなる。

ちなみにこれは普通盛りである。ドカ盛りというメニューがあって、これの二倍の量があって、テレビチャンピオン状態になっている。もやしが、山と詰まれてある。

太麺がしっかりしていて、油と言われるスープも(背油のトッピングなんかしないノーマルでは)それほど気にならないもので、まあ、うまい。そして650円である。
大したこともないのに、高飛車に1000円近く請求する、小洒落た食通気取りの店よりはよっぽど良心的で好感が持てる。
あんなに並ばなきゃたまにいってもいいな、と思う。(でも、もう少し掃除して、丼は拭いてね。水道水のセルフサービスは・・とりあえずいいけどさ。)

その後、腹が下った。ん~と思ったがもう治ったし、咽喉元過ぎれば、である。

また新しいラーメン店がオープン準備をしている早稲田通り。
うまいトンカツ屋でもできてくれたらいいのだが・・・!
の休日。

2008年11月8日土曜日

信仰と狂気のあいだ

ドストエフスキー「悪霊」読み終わる。
一ヶ月ほどこの悪霊と闘い続けることを余儀なくされたのは、
自分で選んだ道であるとはいえ、徐々に苦しさを増し、
しかしその苦しみに固執し、自らにとって必要不可欠なように
思えてくるところに、名の通り「悪霊」としての本旨がある。

この作品における「悪霊」の意味を、無神論・アナーキズムとして
解釈するのでは、到底作中に登場する多数の人物の持つ意味を
理解できない。(先述の通り、19世紀ロシアの社会主義の勃興、退廃的な無神論思想、アナーキズム組織の狂信的な活動等々、実際の出来事がモチーフに
なってはいるが。)

二十年間一人の女性を愛しながらも打ち明けることのできない高潔も、
自殺を遂げることによって全目的を達成しようとする純粋も、
慈悲を身に宿したことを徳としながら嘲笑を浴びざるを得ない悲哀も、
この作品に多数表される狂気は、それが狂気であるからこそ、
精神に深く根を張り、たとえそれが虚構であり誤謬であったにしても、
それを作り出すのもまた自らであるという倒錯のなかにある。

人は自ら、認識として認識したもの以外には、認識したと信じることができない。
狂気は、最も強い自己認識となって、狂気こそが自分を支えるという信念を生む。
悪霊の正体とは、そのような狂気のことである。

悪霊から逃れるには、それに代わる偉大な思想が必要である。
哀しみを哀しみとせず、喜びを喜びとせず、孤独を孤独とせず、
狂気を狂気としない、あの偉大な思想のことである。
それを神への信仰ととらえてもいい。
しかし、神への信仰が、イエスへの信仰と等しくすることはできない。
物事はそう簡単には進まず、その遅滞をドストエフスキーは、
ロシア特有のものとしてみたのかもしれない。

ところで、「悪霊」の訳書は、なんと江川卓である。驚いた。

2008年11月3日月曜日

ここから



といって、デザイナーズウィーク一件いく。
これは+d の展示。
会場が少し離れているせいか休日でも空いていて、
ゆっくりとみれる。今年のインテリアライフスタイルショーだか
でみた木製の靴べら(と表現してしまうと作品を殺すが)があって、
その当時は+d の商品としては並んでいなくて、
やはりその後に、諸所の事情で取り扱うことになったらしい。
そのショーで見たときに印象に残った作品であっただけに、
よい目利きをされるなあ、と改めて感心する。

とはいえデザインの世界が非常に遠く感じられる。
この三日間、何をしたらよいのかについて(曖昧な表現だが)
考えていて、それでイノベーションということと、個人というところで、
もちろん僕の考えることなのだから当然の帰結としてだけれど、
落ち着くことができて、少し手ごたえを感じている。
これをどう実現していくか、チームにどう伝えていくかが、
次の課題であるし、もちろん、問題の設定の仕方、仮説の立て方事態に
誤りがあってゼロリセットする事だってありうる。

しかし、いずれにせよ、イノベーション(の定義がどうであれ)
人間関係の網の目と個人の実践と、さらには、イノベーションを、
それとして普及させる環境が必要であるという抽象論においては、
誤りようのないところであると信ずる。
そこで我々に幾ばくかの貢献ができればと思う。

これを続けるには、きちんと収益を上げていくことが欠かせないし、
続けることによって得た知見からさらにパフォーマンスを高めるには、
投資が、すなわち剰余金が必要であって、それでビジネスがある。

ピリっと動き出すのに、あとわずかという観がしてきた。

2008年11月1日土曜日

How to

デザイナーズウィークはじまりましたね。
今年はいかないだろうなあ。
業界はなれると、途端にあまり魅力を感じないTDW・・・。
知った人に会いに行くぐらいしかモチベーションを感じません。
もうちょっと金があると探したいものもあるのだろうか知らない。

昨日は会社の交流会でアクティブな方々にお会いして
非常に刺激を受けた。
皆さん僕より年上なわけであるが、いつからああやって
アクティブに取り組まれているのであろう。
僕も追いつけ追い越せでがんばりたいものだ。

入社して一ヶ月。あっという間だった。

昨日聞いた言葉のなかで、すごい人ってのは
「自分を甘やかさない」
「言葉を選び言葉に責任を持つ」
「人を楽しませるが自分も楽しめる」
ってことができる。
これだけ書くと自己啓発ハウツーみたいだが、
いまの自分にはこれがとても沁みる。

* * *

映画「恋する幼虫」を観る。
荒川良々と松尾スズキが出ているということだけで
借りたがやっぱりなんだかすごいことになっている。
バカすぎる・・・。
誰しもが抱える心の傷とその交流、事故、共鳴であったりとか、
そういうふうに解釈を論じることもできるが、
そんなことしたってこの作品のおもしろみは伝わらないだけである。
特典としてメイキングの風景があってそれがおもしろい。
くだらないくせに、神妙な面持ちで演じられるその舞台裏が少し観れる。

映画を観たくなったが特に借りたいものもないしシリアスなのでどーんと
衝撃をうけるつもりも、中身のないコメディで笑ってすっきりするつもりも
ないときには、これを選んでみてください。
あとこの映画を好んで観るとすれば、寄生虫好きぐらいしかいない。

2008年10月27日月曜日

記憶喪失

なんだかちょこちょこ忙しくて、
気付いたら随分更新してなかった。

先日和歌山で幼馴染の結婚式があって、
友人代表として挨拶をしたりする。

手紙を読む式の、よい文章なんだけど聞いているのが
辛いスピーチよりは、うまくいったのではと思っているし、
あとで「いいスピーチだった」と新郎・新婦も言ってくださった。

いけなかったのは、その後で、披露宴の後、
二次会、三次会となっていて、気付いたときには、
実家に眠っていて、もちろん飲みすぎて記憶喪失、
自宅に運ばれて気付いたらスーツのまま寝ていた、という
いつものパターンである。そしていつものように酷い後悔に苛まれる。
ずいぶん暴れたようだ。相変わらずだな、俺。
そのうち逮捕されるんじゃないだろうか。
友達なくすんじゃないだろうか。

そういえば、僕のお祝いのスピーチは、
「僕と新郎の○○くんが、初めて会った時のことも、
 初めて話した時のことも、初めて喧嘩した時のことも、
 まったく憶えていません。
 生まれたときからいっしょだったし、特にこれといった、
 エピソードを取り上げることもできなくて、
 ずっといっしょだった、という以外にはない。」
というような出だしからはじまった。

そして結婚式の最後もまた、彼と何を話したのかも、いつ別れたのかも、
まったく記憶にございませんの一日であったことよ。

さて、今日からまた東京である。
だんだん寒くなってきて、朝起きるのが皆辛くなってきた時期ではないだろうか。

2008年10月20日月曜日

悪霊とTシャツと私



忘れたころにやってくる空想生活。
ずいぶん前に予約していたTシャツが届きました。
可愛いのね、これが。期待を超えるできばえでした。

パジャマぐらいかな~と思っていたけれど、
ちょうどSサイズも僕の体型にフィットしていて、
外出に来ていくこともできそう。
Tシャツ一枚で出かけることって(夏でも)あんまりないけどね。

* * *

ドストエフスキー「悪霊」上巻600ページをようやく読み終わった。
下巻は700ページぐらいあって、驚いたことに厚過ぎて、
手持ちのブックカバーに収まらなかった・・・。
なんたること。

いい加減他のも読みたくなるけれど、ここは頑張りどころである。
でなけりゃ、あのロシア語の長い名前がわからなくなってしまう。

* * *

話が細切れで申し訳ないが、昨日初めてコンランショップに行った。
思ったより、興奮しなかった。素敵なものはたくさんあるのだが、
あの店のつくりというかはあれでいいのだろうか。
世界観も何もなくて、ただただ並んでいるだけにしか見えない。
お金持ちは物だけ見て判断する素養と自信を備えていて、
妙な取り繕いは不要ということだろうか、まだその境地がわからない。

* * *

少しずつエンジンがかかってきた感じがするがまだ煮えていない。
というのは今日の結論。

2008年10月18日土曜日

むふむふ。ふわふわ。

達磨

昨日はじめて飛び込み営業というのをやって、
効率云々というより度胸試しにはなる。
新人にやらせるのは一つの手であるなあ、と
納得する。
それで適当なビルを探しながらふらふら歩いているときに、
見つけました、神田達磨

うまいんだなあ。
パリパリの縁が残っていて、四角い形をしている。
勢いあまって二、三口かじりついた後で写真撮影、
その特徴的なカタチが台無しになってしまった。笑

つぶ餡もしっかり小豆の味がしている。
小川町あたりにあるので近くに立ち寄られた際はぜひ。
そういえば、五反田にも尻尾になぜか梅干の入った
奇天烈な鯛焼き屋があったが、ああいうB級ではなく、
真面目に仕事をされている。

むふむふ。ふわふわ。

2008年10月15日水曜日

どんと 2.0

仕事はまだ本調子じゃないというか、
僕のほうの問題である部分が大きいのだが、
そうスムーズにどんどん行くようなことにはなっていない。

事を始める前に躊躇したり、事を始めることに受け身になったり、
それは実は僕の生来の性分である。

ドストエフスキーの悪霊が上下巻で1300ページくらいあって、
こいつにどっぷり浸かっていることも、この熱の冷めたムード
に一役かっているのか、いないのか。

なんかちょっと面白い刺激はないものかと、
ためしに「Web2.0」でググったら、
去年申込みはしたが結局いかなかった、
Web2.0 EXPOは中止になっているし、デジタルガレージの子会社「Web2.0」はつぶれている。(デジタルガレージ本体も赤字だな・・)
TimさんもJoiさんも大変なのかな、どうなのかな。
まあ、Web2.0 みたいな華やかな雰囲気に対して、
白々しさがあったのは、もう別に最近のことでもないが。

いずれにせよ、彼らだってがんばってこうであったとして、
僕なんぞもうちっと頑張らんことには鼻糞にもならんだろうと、
妙に納得してしまう。
だったら、ひろゆきさんのほうが儲かっているのか。
それはいいとして。

なんかこう風邪気味なのか喉が痛くて禁煙中。
はやくドストエフスキーは読んじゃって、
体調も整えて、酒も煙草も控えて、
容赦ない新宿区に住民税を納めて仕事に精を出すべし。

ああ、早くそうしよう。

そういえば、早起きですが、ちっとも六時起きではないが、
微妙に早く起きて家を出るようになって、
決して宣言通りでないが、成果は上がっている。
小さくまとまることを覚えたか。俺。

2008年10月12日日曜日

京浜東北線



お疲れ様です。

前職でお世話になったKさん停にご訪問。
(うーん、今でもお世話になりっ放しという感じだな。)
昼間から食って飲んで食って遊んで。
手前の皿はジェノベーゼって感じのとサラダ、
奥にはエビチリとスペアリブと常務の差し入れの
生ハムがある。
うまし。意外、というのでもないけど 笑

僕も料理は少しずつしているけれど、自分用でしかなくて、
他人に食わせるようなものはない。

家でゆっくり飲むのはとても楽しい。落ち着く。
食い散らかして帰るだけの身分だから当然か。
料理もお酒もあるから手ぶらでいいよ、という言葉を
真に受けて、手ぶらでいった自分が悔やまれる。
ありがとうございました。

子供がいるのも、家で飲む楽しみを二乗にも三乗にもしている。
気がついたら一回り以上違うような輩が矍鑠としているのが、
不思議な感じもする。
四十になった人が、「四十ってのはもっと大人だと思っていたが、何も変わらないな」
というのをよく聞くけれど、僕もその口だろうな、と思う。

相変わらず、小さなことを引きずって、
全ての努力が虚しく感じられたり、決まり台詞のように口にする、
自分の将来の展望やら夢やらというやつにも嘲笑を浴びせ、
退廃への道を志したりしながら、中途半端に揺れ動く。

しかし、二重の不毛の中にいては、常に実践しかない。
とはいえ、ということはもちろんあるが。

時は流れている。ひとところにいない哀しさもあれば、
次に向かう希望もある。
それで今日という日をいっしょに過ごしてくれた仲間たちに
感謝をしないではいられないし、
明日に会うときには、僕から何かをしてあげたいと思う。

と、暗く語ろうとすることもないのだが・・・
身勝手な考えばかり浮かぶ。

2008年10月9日木曜日

宣言

さて、入社して約一週間。

まだまだわからないことだらけで、
お役に立てているとは言いがたいですが、
まあ、まだ一週間ということで、ご愛嬌。
(ないけど。どちらかというとふてぶてしいけど。)

しかし、入社前に手伝いに行ってたあの中途半端な感じとは違う。
やっぱり主体的に、あるいは、積極的に前にいけるようになる。
どうにも動きが鈍くって、おいおい、と思っていたが、
ようやく本来の自分の動きが(少しずつ)できるようになってきたかな。
というまだそういう段階。
焦ることはない、と自分に言いはするが。

ふにゃふにゃ。

今日は、二年半ほどのお付き合いになる、Y社長に転職のお祝いをしていただく。
社長といっても年齢はそう離れていなく、社長になられて一年と少し過ぎた
ぐらいだろうか。

いろいろと刺激的なお話をいただく。
事業をどうつくっていくのか、そこには実際的な、
様々な経験があって参考になる。

もう内容は省略して、それは明日からの僕の活動に、
できるところから取り入れていいのであって、
こちらで宣言したいのは早起きである。

ふふ。三日坊主の気配がぷんぷんする。
酒飲みだからなあ。

6時に起きて、8時には出社する。
というのをやりたい。
いきなりピークをつくるよりも少しずつ地ならし、
ということで、明日は六時半に起きよう・・。笑

願掛けだ。

結果はまたこちらでご報告するが、それは、
そう先のことではないだろう。




・ ・ ・ やる気はある!!!


ぞ!!

2008年10月5日日曜日

人生色々

昨日から和歌山の友達が来ていた。

彼は大学を卒業後、いったんは就職したものの、
弁護士になるべく退職した。
今回は、司法試験を受けるのに必要な法科大学院の入試のためである。

いろいろな人生がある。

僕のまわりの主流派でいけば、今年の三月末に大学院を卒業し、
仕事をはじめたあたりだろうか。

もちろん、いつ就職してなどというのは、生きるうえでは瑣末なことでしかなくて、
その程度のことをいちいち取り上げて人生色々などと言うのは大げさに過ぎる。
それでも彼の場合は、来年から法科大学院に通い、
司法試験を受ける資格を得るのに二年を経なければならない。
卒業後の五年間に、司法試験を受けるチャンスが三度与えられる。
それでダメだとなったときには、大学卒業後すぐに就職していれば、
社会人経験十年となっているところで、再び人生の方途を探ることになる。
想像するに、非常に怖い。
もちろん試験に落ちた直後は無職であろうし、十年間何をしたかと言えば、
社会的にみれば、試験勉強以外にないだろう。
金銭的に見ただけでも、かなりの損失である。

もちろんそれが最悪のケースということだと思う。
それ以下はないのだとすればどうだろうか。頑張ろうと思うだろうか。
司法試験に受かればそれで弁護士となって勝ち組なるのかどうか、
その業界の詳しいことは何も知らない。

などと書いていると、重苦しいような気もしてくるが、
そいつには夢があって、それを追っているのだから本当のところ僕は楽観している。
まあ、困ったときには少しは助けになれるだろうとも思う。
だとすれば僕が心配することは何もない。
とにかく無難に月並みに安全に穏やかに生きていたいのだ、と言われるよりは、
僕としては組しやすい。

彼は酒を飲まないから僕だけ飲んでいた。
深く話すまでもない。旧知ならそれでいい。
毎日六法全書に向かう生活の長い長い連続の中にあって、
試験が終わったその日ぐらいは、ゆっくりと過ごしてくれたらいい。
そう思っていたら、僕のほうも新しい仕事が始まって初めての休日を
穏やかに過ごせた。思うよりもやはり疲れていたのだろう。
役に立ったつもりでいて、自分が一番休まっているのだから、
実に単純であるし、相変わらずの自分勝手であるのは最早性分であると諦めよう・・・。

2008年10月4日土曜日

Bar

昨夜はひとりはしご酒。飲みすぎだ。
ちょっと二日酔いで、頭痛で頭が痛い。

最近は、
なんだかんだいってビールとワインがうまい、と言っていたけれど、
食事も終わって一人で酒を飲むようなときはウイスキーうまい。
スコッチとかバーボンとか、まだよくわからないけれど、
昨夜はよく飲んだ。
シェリーは相変わらずうまい。
しかし、深夜のカウンター席は、常連だらけだ。
前回店にいったときに隣だった人が、
今回もやはり隣にいて驚く。
短歌をケイタイに打ち込んでいたが、
朝になってみると酷いできだった。



「アナーキズム」読了。
歴史の流れというかポイントを抑えるのはいいんだが、
思想あるいは行動の深いところがよくわからないまま終わる。
特におもしろいこともなかったのでお勧めしない。

ひとまず、アナーキズムは、反国家主義であって、
フランス革命後の国家と社会の分裂に対し、
個人主義の極みで応えようとするのであるとしておく。
社会主義とも異なるのは、そこに絶対権力があるからである。
アナーキズムは、自由意志による相互契約によって、
社会をつくろうとする。その姿は、市場原理主義による経済社会、
法人によって構成されるそれに似ているように思う。
(いずれにせよ、企業も国家に従属しているのだが。)

はて、何が言いたかったんだか。

要は、政治的でないままで実践はありえるだろうか?

2008年10月2日木曜日

スタート!

昨日より、心機一転。
新フェーズでの活動がスタートしました。

まだガシガシ動き出す、とまではいきませんが、
これから忙しくなるだろうなあ、という予兆だけは、
ひしひし感じています 笑

変態ですね。

と、たまに思います。
なんかそういうのが楽しかったりするんですな。

みなさま、ご支援の程よろしくお願い致します。
ご恩は一生忘れないです。たぶん。

食生活は、不安定になってきました。
読書はなぜか「アナーキズム」ってのでして、
まあ、あまり面白くなく(テーマでなく、本が)進みません。

ブログは、ちょくちょく更新していければと思っております。

ではでは、今日はこの辺で。

2008年9月30日火曜日

山下町

絵描き さんの絵を観に横浜まで行く。
日本大通りのほうから山下町まで歩く。
山下公園でしばし休憩。それにしても洒落た街だ。
ところどころ軽々に感じられるところがあるけれど、
土台は海にあって、それは紛れもなくそこにある。

 * *

絵を観ながら、表現することの動機について思う。
あるいはその実践ということについて。
描かざるを得ないから描くのであって、
描くことを通じてしか為らないことがあって描く。

子どもの絵がすばらしいという。
描くことによってしか表徴できないものがそこにあるからだ。
描くこと以外によって代弁できる方法を主に概念やら言葉やらに
よって獲得しはじめたとき絵はつまらなくなる(のだと思う)。

知ったことをなぞるような表現は、蛇足でしかない。
その余裕を楽しむ、ということはあるのかもしれないが。
言葉にできない、既存の〈世界〉に還元できない何かにぶつかる。
それで対話が生まれる。対話しながら、その豊潤な、あるいは攻撃的な、
蠢く奥底のものを、引っ張り出してみることを表現と言い、
作家はそこにもうひとりの「私」を観るし、それは単に観ているだけの客でも
同じことで、作品との対話を通じてもうひとりの「私」を発見する。
作家だけでは完結しなくて、観る客がある。それでようやく作品が成る。
それで技術が要される。優劣が生まれる。

飾られたたくさんの絵と審査員の評価を見ながら、
釈然としないものがあって、そう言ってやりたくなる。
もはや繰言でしかないが。

 * *

その後、もちろん中華街に行く。餃子食う。
中華街は夕方までにぎわっていたが、九時を過ぎた頃には人が少ない。
山下公園はカップルだらけ。



百八十六番餃子というお店。後になって調べたら
まだオープンして間もないようだが店はレトロな雰囲気だった。
こういうのは大勢で食ったほうがうまい。

2008年9月28日日曜日

ベルギー飲む飲む

水道橋でベルギービール飲む飲む。
うまい。当然。

落ち着いた雰囲気の店で、飯もうまかったし、
よろしければ行ってみてください。ぐるなびはこちら。

アルコール度数が8~9%の重めなのが好きで、
じっくりぐびぐびいく。
しかし、なかなか名前覚えられない。
名前覚えても、味と結びつかない。
自分の好みさえわかっていれば、選び方がわかる。
そうするとたいていうまいから、それで済んでしまう。

金がかかるので、いつもはできないが、
やはりビール飲む飲む日が時々あるのは、
非常なる贅沢であるように思って、
こういうフランクな場所で気のおけない仲間たちが
いっしょであるなら、それが恍惚とも呼べる。

飲み終わってダーツする。最近ダーツ多い。
ちっともうまくならないが、これはこれでいい。
一樹さん次は演奏観にいきたいっす。





曖昧な雰囲気でどう取り扱うか戸惑っているうちに、
この不意に訪れたロングバケーションは終わる。
これから僕はどうするだろうか。楽しみにしている。

2008年9月27日土曜日

わたしを成すもの

幾人かの人に勧められていても、なんとなく縁のなかった、
山田詠美を初めて読む。「風味絶佳」。
よいではないですか。

六つの短編。
働いて飯を食って愛し合う。
三つの行為が溶け合って生活を造る。
それを人生と言っても世界と言っても血肉と言っても同じことで、
いまここに流れる時間の中でできることは、
それほど多くはなく、労働に勤しむ、旨い飯を食う、
そこに愛する人がいて、愛を感じている、というのを抜きに、
生活が成るわけではない。

生きることに意味などなくとも、生きなければならない。
その現実を僕はかつて二重の不毛さと名づけた。
その二重の不毛さを前にして、僕たちは茫然と立ちすくむべきではない。
たとえどうであろうと、そこに世界があり、人がおり、生活がある。
誠実にその現実と向き合うことを、自らに課すならば、
おのずから実践的であらざるを得なくなるはずだ。

山田詠美は、丁寧に言葉を紡いでいると感じる。
虚栄のないやわい親しみのなかにおいて、
崩れやすい何かに、そっと触れるかのように。

2008年9月26日金曜日

つるむらさき



昨日、飯田橋でうまいものを食ったが、
写真を撮るの忘れた。
つるむらさき、っていう変わりモノ野菜を
たぶん、はじめて食べた。青臭さが強いが、
それがさわやかに感じられる。
その他に、カツオの刺身もうまかったし、
秋刀魚のつくねを煮たのも非常に美味。

まだ仕事が本格的にはじまっていなくて今日は、
午後からの予定があっただけなので、焼酎をぐびぐび飲む。
酔った。
焼酎危険。

いちおう、ありがたいことに私の転職祝い(?)を
主旨とした会であったので、いくつかプレゼントをもらう。
基本的にはくだらないものばかりで 笑
写真の五銃士は、そのうちのひとつ。
もらったときは、お、と思ったものの、
これどこにおけばいいんだ。

また僕の似顔絵の入ったTシャツももらった。
いらん・・・ということで、
このブログをご覧の方、抽選で2名さまにプレゼントします。
白 Mサイズ、水色 Sサイズの二着がありますので、
どちらがご希望かを添えてコメントください。
似顔絵はこちら。笑

2008年9月24日水曜日

実践するアマチュアへと



マルコムXと大書。どんな過激な駅やねん。
投票か弾丸か。
味噌汁か断食か!

エドワード・W・サイードの「知識人とは何か」を読んでいて、
久しぶりにマルコムXの名を聞いて駅をふとみたら、
その名があった。かと思った。

サイードは、米国での居住資格のあるパレスチナ人という、
ねじれた背景をもっていて、カルチュラル・スタディーズやら、
ポスト・コロニアリズムやらを経て、僕は彼に出会った。
この本は、講演をまとめたもので読みやすく、わかりやすく、
しかし、深みと情熱とがあって、すごくいい。

まあ、感想を述べてもみんなあんまり興味ないだろうけれど笑
備忘録的に、少し書いておく。

知識人の独創性と意志とを脅かすものとしてサイードは専門分化と専門家主義をあげている。
知識が専門化、分化していくことで知識人は、ある固定されて矮小な領域の知にのみ関わることになり、またその領域内で派閥を作り、特別な用語や慣習を発達させることで専門外の者をそもそも、議論の枠から外してしまうのである。
専門家は尊ばれ、権威と権力をもった専門家の領袖の発言であればなんでも、無批判に居座り続け、むしろ同じ仲間同士で公式を補強しあうということが起きる。
さらには、専門家の権威と権力は、政府や業界団体の援助を得て、強化されるのである。
例えば政策支援のための研究といったように。
知識が資金提供者の依頼によるものばかりになり、マイノリティの視点は、そのはじめから排除されているのである。
以上から、「知識人が個人として主体的に代弁=表象をおこなえる空間」は、縮小にみまわれるのである。

それに対してサイードが提起するものは、知的亡命とアマチュアリズムという思考である。
「知識人が表象するのは、静止した聖画(イコン)のごときものではなく、言語のなかで、また社会のなかで確固たる意志をもった明確な声としてたちあわれる個々人の使命であり、エネルギーであり、強固な力である。」
「アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。」
「そう、知識人の声はたしかに孤独の声である。だが、その声は、なんらかの現実の運動や、民族の願望、あるいは共有された理想の集団的追及と自由自在にむすびつくことによってはじめて、高らかに響き渡る。」

2008年9月23日火曜日

京都




京都を目的に行ったわけではないが、
これも人に会いにいかねばならなかった途上で、
暇があって京都の街を三時間ほど歩いた。
街は修学旅行の学生やらで混雑している。
前日まで台風だったらしいが、空はすっきりと晴れていて、
青空が心地いい。
人ごみのなかにいるのはせわしなく感じられ、
特に理由もなく、祇園でバスを降りて、
寺の敷地が広がって続いていくのを人を避けて歩いていって、
行き着いたところには、日本で三本の指に入るという、
知恩院の鐘があった。
その辺りに喫茶があって一人だけの
とても静かな空間にいられて落ち着く。
物理的な音の大小で計れる意味でのものでない、
これだけの静けさというのはあまりないように思う。
喫茶の人と話していると、京都はやはり秋の紅葉の
時期に客入りがもっとも多いらしく、夏は暑さが厳しく、
ゆっくりするなら冬がよろしく、また秋にくるのであっても、
泊まりできて、早朝に出かければ人も少なくてよい、
とのこと。
それで最後に「見るところだけはたくさんある街です」
と言ったのが印象的で、祇園でなくてもどこにでも
見るべきというものがあって、歩けばそこに歴史がある。
とはいっても一人旅行はやはり味気なくて
僕はあまり好きでない。
感じたことを言葉にしてはじめて何かであるときに、
一人であるというのはいくらカロリーを摂取しても
吸収せずに排出してしまうのに似る、
と思ったりするが、まあ、いいかそんなことは。
短歌をつくろうとするが、京都にいては逆にできない。
それでかオチのない話になってしまった。

2008年9月21日日曜日

仙台旅行

連休中ということをすっかり忘れていて、
あまりの混雑にびっくりしてしまった東京駅から仙台へ。

友達というか、姉ちゃんがいたらこんなだろうな、っていう方の
おうちに遊びに行く。
彼女のブログでしかみたことない五歳と三歳?の女の子が、
とてもかわいくてアイドル的な存在であったわけで、
初めて会えるのが、ちょっとドキドキ楽しみにしながら、
枡野浩一の「ショートソング」を新幹線で読んでいた。
枡野浩一との出会いは、先日紹介した「クワイエット・・・」の
文庫版に、解説を書いていたのが彼であって、歌人である。
口語調のかなり親しみやすい短歌をつくっていて、
初めて書いた小説(短歌まじり)がこれ。
大学時代、自由律俳句の会というのをつくって、
尾崎放裁や山頭火の真似をして遊んでいたのが懐かしくて、
短歌もいいなあ、といくつか自分でつくってみたりする。
この小説の中に出てくる(枡野の作ではないのもあるが)
お気に入りを3つあげてみよう。#うーん、根暗ひとり旅三選。

階段をおりる自分をうしろから突き飛ばしたくなり立ち止まる

旅行から帰ってくると部屋中が出かける前とおんなじだった

なんだっていいから自信が持ちたくて毛糸洗いをアクロンでする


仙台では、メディアテークの隣のイタリアンで昼食をとって、
和菓子屋さんで抹茶をすすり、TUTAYAでポケモンのDVDを
レンタルして家で見る。
「五木ひろし~」っと子供たちは、僕を呼んで遊ぶ。
五歳になるともうかなりしっかりしている。
男が幼いのだろうか、僕は中学の頃に自我が芽生えるまでは、
記憶すらほとんどない。自己同一性が確保されないのだから、
ラフに考えれば当たり前の話だけれどねえ。
ポケモンやらアンパンマンやらのビニルの人形で遊びながら、
アニメ声でゴッコ遊びをしているのが、艶々しい・・・。笑




帰りの電車で僕も創作。

恋心よみがえりくる 五歳の君は手を握ってくれた握りかえした

ひとりたび 家路をたどる酔いさまし つとつと増しますさびしさわが家

俺という字が書けなくてしかたなく僕とあらため書きなおした詞

2008年9月19日金曜日

それでまた問いを

フランクル「夜と霧」を読む。
こういう本を通勤中の山手線の10分間とかの間で読んで、
帰りの電車のほろ酔い気分のうちに読み進める、
ということは、難しいというか、避けたい。へこむし。
んで、感想を書くのも、真剣には立ち向かうことはできなくて、
焼肉を食って、ビールを飲んで、それでいまもう深夜で眠くって、
短く少しだけ、という気分でようやく書くことができる。

だから自分の考えをまとめるとかそういうレベルのことは
できなくて、なんだみんなそのほうが読みやすくっていいや、
と思っているのかもしれないが、また平静に書けば元に戻るから、
あまり期待しなくてもいいし、そもそも期待なぞないのかもしれないが。

戦争というのは、僕にとって非常に身に迫るテーマである。
それがなぜかといってどうだといって、体験したこともないしなぁ、
と思ってしまうものだが、これを読めば、
直に体験したことがないというのは問題にならなくて、
なぜなら、真に戦争を体験した人の多くは死して黙するからである。
そしていくら生存者から聞いても体験したことにはならない。
だから、いま日本という平和な国にいようが、どうしようが、
戦争について、少しでも話すことに、臆する必要はないのである。
その動機はどうであれ。
しかし、妙に軽んじられるか、変に装う人が多いのもこのテーマなのである。
そういう面での恐れはある。
と、前置き。

この本の中に、こんな言葉があった。
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。・・・すなわちわれわれの人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。」
と、ここだけ瞬間的に抜き出してもわからないか・・・。
だから本がある。というのは蛇足。

人生とは何か。それは私たちが、生きる、いまそれ、である。
それは、その当人の意識によって事後的に表出される。
その表出に対する様々の反応を、問い、としてとらえること。
その問いを発することを諦めたときに、人は死ぬのだと、
フランクルは言っている。
またそして、アウシュビッツの如何なる悲惨にも関わらず、
問いを発することにおいては終に自由であった、と。
僕が実践ということの意味においても・・・、
と言い出すと、またいつもの調子になるのでやめよう。

***

いかん、ちょっとブログの雰囲気がますます暗くなるので、
旨いものの話を。
これは仙台土産の牛タン↓



燻製みたくなっていて、生というかハム?みたいで食える。
うまし。これはお土産だから自宅で食ったが(横のさらは温野菜)
明日仙台に行く。仙台は人に会いに行く。
ところで牛タンは、戦後、米軍が仙台に駐屯したときに発祥した。
その手の食べ物は他にもあって、佐世保バーガーもそうだし、
沖縄の、ポーク卵(スパムが入ってる)もそうね。
地元和歌山には、鯨肉の文化が伝統としてあるが、
戦後の食糧難の時に安価なタンパク源として給食が
それを象徴しながら、全国に広まったものだ。
食の歴史、って面白くていつかじっくりやりたい。

2008年9月17日水曜日

贅沢の楽しみ

昨晩は天ぷらじゃった。
恵比寿駅から、案内されるままに入った、
銀座に本店があるという天ぷら屋は、
白木のカウンターだけの小さな店で、
目の前で揚げたのを、皿に置いてくれる、
いかにも高級そうな雰囲気である。
これでまずいわけがない分、
滅多にこれそうもなく、わくわくする。


海老、魚(キスとかそういうのだった)がいくつか、超うまいアスパラガス、冥加(写真はこれ)、玉ねぎ、明石のが一番旨いという穴子、
もうこれで十分腹はいっぱいだけれど、
勧められるまま、鱧と舞茸を食って、
いずれもうまい。
最後はかき揚げの茶漬けを食って締める。



それで時計をみたら一時間半しか経っていない。
素材の味を楽しむのが天ぷらなんだと、
この店でごちそうしてくださった方はおっしゃる。
ミシュランが日本の料理屋を格付けして一時話題になったが、
天ぷら屋はことごとく一つ星だったらしい。
素材の味を楽しむ贅沢をしらないでは、
このような調理も食い方も理解できまい。

それで話は究極に旨いものはなんだったかということになって、
スイスの「ビュントナーフライシュ」という乾し肉が、
絶品であったと教えてくれた。
スイスの高原で1~2年かけて乾燥させてつくるらしく、
日本に持ってきても湿度も温度も高すぎてすぐに痛む。
わざわざ日本にいながらスイス料理屋で無理をして、
これを食べなくてもスイスの郷土料理だから、
現地にいけばいくらでも旨いのが食える。
しかし、どこにいようが、何を食おうが、
味わうのには、自らの舌と胃袋を用いるほかなく、
それで食は贅沢の極みのようになって人々を魅了する。

にしても何がうまかったかなあ。魚はもちろん旨いんだが、
アスパラガスと、舞茸がうまいと思った・・・笑

2008年9月16日火曜日

ひつまぶし

絵は特に詳しいわけではないのだけれど、
ヴァーイという人の読書をする少女の絵があって、
直立した彼女は、無心に本に視線を委ねているけれども、
そこに書かれていることが重要であるというより、
本を通じて彼女が憧れているのは、世界との対話であることがわかる。

「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?」
「クワイエットルームにようこそ」
の二冊を読んで、そこに共通点を見出そうとするのが、
不自然に感じられるのは、僕と言う中継地点を通すことで、
いくらかでも意味を汲み取れるような気になるからで、
この二冊の続けて読んだところで、
僕がいるという以上の発見はないのではないかと思う。
それでヴァーイを引いた。

***

「2ちゅんねる・・」で、ひろゆきさんと対談している、
佐々木俊尚さんにも小飼弾さんにも会った(見た?)ことがあって、
(だからこれを買ったのだが)あらためて自分がウェブという
業界に曲がりなりにもいたのだということを不思議に思う。
ここで何度も繰り返し出てくるフレーズは、
ウェブは(技術でも権力でもなく)市場原理によって動く、
あるいは、動くべきが自然である、
ということである。
高い技術力でもって供給しても需要がなくては、
結局は廃れていくことになるし、需要が大いにあっても、
供給する側の収益にならない(もちろん法的な制裁も含めて)
ことになれば、持続しない。
こう書けば当然のことすぎて、わかってないとすれば、
どれだけおめでたいんだが、バブリーなんだか、と思って、
これ以上書き続けるのがアホらしくなった。

んで、「クワイエット・・・」はどうかといえば、すばらしい。
映画もよかったし、原作の小説もよかった。
ぜひ見てほしい。それで松尾スズキのブログをみたら、
ひまつぶし、ということばが見つかって「2ch・・・」との
共通点が云々となるのだが、そんなことは、
もうどうでもいいじゃないか。秋の夜。

ヴァーイ半額じゃ。
http://www.seibidou.com/souko_shop/menu1/syousai/07121515195000
(アフィじゃないよ)

2008年9月15日月曜日

肉の話

最近INPUT過多な状態。
書きながら整理するのが、僕のやり方なのだと思う。

蒸し鶏を電子レンジで簡単クッキングしてみたけど、
うまくなかった。新しい料理をしてみると、
50%くらいで失敗する。センスがないのかなあ。

セロリが残っていて、それでどうにかしないといけなくて、
そういう消極的な理由で蒸し鶏をつくるのは、
あんまりよろしくなくて、鶏をみると僕がこれまで出会ったなかで
最も鶏を愛するS氏のことが思い出されて、
こんな料理では成仏できなかったろうとうなされる。





←非常に惜しいことになった鶏さんの図。










旨いものについて書かないことには、
後味がわるく感じられるのは言葉遊びとも思わなくて、
新大久保の話に続く。
ここで韓国料理が食える(それ以外に何がある?)
ことは有名だが、自分も含めいっしょ食った四人とも
まったくの初心者で、まずその人の多さと、
日本語を話す人はマイナーでないかと思える雰囲気に驚く。
駅から歌舞伎町のほうに向かって歩くと、
韓国料理屋が軒を連ねていて、アジアであると、
日本もアジアなはずなのだけれど思う。
焼肉を食って焼酎の胡瓜割を飲むと清清しい気分。

表参道やら恵比寿やらで飯を食うことに飽きたらここにくるといい。
#淡白な話になってしまった。

書く技術

吉田健一の『時間』を読み終わったというと、
この本には相応しくなくて、僕はしばらくの間、
吉田健一の声を確かに聞いていて、
いま、その言葉たちは僕の意識の端々に、
満点の星空のようにというとロマンティックすぎるが、
輝いているのを見ることができる。

引用する箇所を探すのは骨が折れる。
論理的に整理された構造はなく、吉田健一に時間が流れるのと、
同じようにして、この書物にも時間が流れる。
時間の積み重ねといったところで現在があるのには変わりなくて、
ただ現在が移ろいゆくだけであるのだから、
どこかの箇所を引用してそれが結論であると言って無理に、
考古学的趣味の世界をつくることはない。
ただ流れるのが時間である。

決して読みやすい本でもないので、読むのを勧めるつもりはない。
それで『時間』について書くのはやめて、吉田健一について、
ひとつ余話をしたい。
文体ということである。
読点が必要以上に省かれていて滔々と連なる言葉の波に揺れる。
はじめて読んだのは、大学二年か三年のころで『英国に就いて』だった。
内容はともかく文体に衝撃をうけ、僕の文体に大きな影響を与えた。
欲しかったのは粒度の大きい塊として重く圧し掛かる文体であったと思う。
高橋源一郎が『小説教室』で吉田健一の『時間』について書いていたのを
思い出したが、引っ張りだして参照することは億劫なのでしない。
文体と言うのは、書き手にとってのパーソナリティの発露であって、
服装や口調に似ているようにも思うが、真に技術的なところがあって、
シンプルな説明が必要なら、書く技術そのものであると言い切ってもいい。
ということで、彼は師匠のひとりであると言いたかった。

2008年9月13日土曜日

ガスパチョとカポナータのビーフストロガノフ

料理の名前ってむずかしい。
先日、韓国料理屋で、チャプチェを頼むつもりで、
チャンジャを頼んでしまって、
酒好きの癖に・・とからかわれながらも食えない、
塩辛が出てきて閉口した。チャンジャと言わずに、
サンチュと言っても訳のわからぬことになったろう。

ヨオロッパの料理名も、もちろんわからない。
そういえば、昔、ソルベの意味がわからなくて、
シャーベットだよと無知を笑われたことがあった。

それで話は、今日の夕食の話にうつって、
セロリが食べたくなってミネストローネを作った。
ミネストローネとは、トマトをつかったスープを
イタリア語で指すらしい。
にんじんやジャガイモ、玉ねぎ、ズッキーニ、
そしてセロリなどが具として用いられるのは、
ミネストローネと聞くと、1cm角ぐらいの野菜が
たくさん入っているイメージがあるからわかる。
しかし、パスタや米が入ることもあるらしくて、
そうすると、通常のパスタやリゾットなどとの違いは、
スープであるかどうか、水分の問題となるのだろうか。

うまければそれでいい、ということができる。
名前が同じ料理でも、作る人によって全然ちがうのだから、
料理の名前などを覚えるよりもうまい店を覚えたほうが
いいのかもしれなくて、それでも食事の楽しみには、
そこにイタリアの要素などなくてもイタリア語で
呼ぶことの中にも確かにあって、どこどこ産の何がうまいとか、
これを食うと或る時なり土地を思い出すとか、
そういうことを味わわずに、ただうまくて食うのではない。







#単に夕飯の話を書こうと思っても
#吉田健一のように書こうとしてしまう。
#もうしばらく続くかも知れないがずっとではない。

最終日

昨日はひとつの区切りとなったはずである。

社会に出て(という語感も変だが)はじめて勤めた会社を
これで去ることになった。
ここ最近は、身の回りの整理や、途中になっていた仕事の
引継ぎ、客先への挨拶などということばかりをしていて、
少しずつ退職するということの現実味は増して来ているのに、
それ自体が重く自分にのしかかるようなことはなかった。

昨夜送別会を開いていただいて、
二年半を共に過ごしたチームのみんなに感謝を述べるときには、
涙があふれでるかと思っていても、ついに和やかに終わり、
そのことについて僕は、まだ実感をもてないでいるのだ、
と表現したけれど、では実感とは何を意味していたのかと言うと、
言葉に詰まる。
結局のところ、転職したとはいえ、それは方法論であって、
僕のやりたいことや生活の姿勢には何も変わったところがないのだから、
そこに大きな感情などは必要なくて、ただこれまでどおり頑張るという
ことでしかない。
とはいえ、環境が変われば世界が変わったように見えるもので、
次の仕事が始まったときには、そんな風に悠長なことは言ってられない
のも当然のことであって、実感としての覚悟は、むしろそちら側にある。

気は急くのに、穏やかだ。

2008年9月11日木曜日

はじめに

八月も末になってとたんに涼しくなったと思っていたら、
残暑が顔を出し、しかし、今頃は湿度も低く、
夜になれば冷たい風が吹くようになって心地いい。
あと残り二日となった、エレファントデザインでの仕事は、
一夏の思い出のように淡い残像を残しながら、
時の流れに抗せずに終わる。
そこで学んだ多くのことをひとつひとつ取り上げて
吟味することなどしなくても、いま次のステップを控えて、
ここに私がおり、そこには時間が流れている。

はじめに、と題したけれど、このブログの設立趣旨などを語り、
合目的的に書き続けるようなことはしない。
アルコールの入った者同士が高揚して唄うようにしてする
対話のごとく、軽やかにそして朗らかに書こう。

書くことは、流れる時間を汲み取る柄杓と言えるだろうか。
桶に溜まった水が意識であって、それを覗き込むことで
ようやく私を見つける。桶もその中の水も時間と共にある。
世界は大河に似て流れている。